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2013・8・27
三内丸山遺跡〜青森県立美術館〜ベイエリア〜新青森〜東京   
                           

みちのく旅の最終日、3日目も晴天に恵まれました。
この日はゆっくりとホテルのビュッフェ朝食を楽しんだ後、9時45分にホテルを出発、昨夜食事をした居酒屋の前を通って、
20分程で三内丸山遺跡に到着しました。


三内丸山遺跡 「縄文時遊館」

国内には約8万か所の縄文時代史跡があると言われていますが、
その中で長野県茅野市尖石遺跡、秋田県鹿角遺跡、青森県三内丸山遺跡の三か所が特に重要とされ、
国の特別史跡に指定されています。



三内丸山遺跡のビジターセンターとして2002年にオープンした「縄文時遊館」には、
ギャラリーを改修して、重要文化財も展示することが可能になった2010年開館の「さんまるミュージアム」があり、
入り口前に「時空メモリ」トンネルを設置して、長い歴史を体感させる工夫がされていました。

縄文時代の始まりには諸説あるようですが、氷河期が終わった1万3〜5千年前から、
本格的な稲作が始まる3000年近く前の弥生時代までの1万年余りを縄文時代と呼び、
草創期(1万5千年〜1万2千年前)、早期(1万2千年〜7千年前)、前期(7千年〜5500年前)、
中期(5500年〜4500年前)、後期(4500年〜3200年前)、晩期(3200年〜2950年前)の6期に分類、
三内丸山遺跡はその中期に継続した大規模な集落跡であったことが判明しています。



 竪穴住居定住によって形成したムラ、土器や磨製石器の製作、狩猟、漁労、植物採取・栽培などを特徴とする縄文時代には、
自然と共存し、共生した豊かな文化が存在していたことが分かり、近年、その生活様式への関心がとみに高まっているようです。
難しいことはさておいても、その歴史の一端に触れ、子供達のどこかにスイッチが入ってくれればと思った旅のひとコマでした。


    
大型板状土偶               いろいろな土偶                縄文ポシェット

「縄文時遊館」のシンボルのひとつ高さ32cmの大型板状土偶と、縄文ポシェットのニックネームを持つ編み袋は、
段ボール数万箱以上に及ぶ三内丸山遺跡の出土品の中でもとりわけ重要な発掘品として、国の重要文化財の指定を受けています。

遺跡によっては全く発見されないと言われる土偶が、三内丸山遺跡では国内最多の1800点以上が見つかり、
そのほとんどが壊れた状態で発見されていて、この大型板状土偶も、頭部と胴体が90m離れた場所で出土したそうです。
祀り用と考えられている土偶には様々な形があり、縄文文化の地域性の多様さを窺い知ることができます。

縄文ポシェットはヒノキ科の針葉樹の樹皮を使い、網代編みで造られた16×10cmの小さな袋で、
大きさ、形が分かる全国唯一のものと言われ、中に入っていた半分に割れたクルミの殻と共に展示されていました。


    
ヒスイ製大珠                    黒曜石製石槍                     装身具

新潟県糸魚川産ヒスイ、北海道産黒曜石、岩手県産コハク、秋田県産アスファルトなども出土し、
縄文時代から、海路による遠い地域との交流、交易があったことが証明されています。


    
         土器                           針              鹿角製ハンマー(右は加工途中のもの)

北海道南部から東北北部で多く見られる円筒土器は、大きなものは貯蔵用、大半は煮炊きに使われたものと考えられています。
動物の骨を利用した針やハンマーなど、材質に合わせて利用する方法に長けていた様子も見ることができました。

    
磨石                         石匙                          クリ木柱

木の実を粉にするための磨石(すりいし)、割る時に使う敲石(たたきいし)や凹石、石匙や石皿、石錐、石斧、石槍など
遺跡周辺の石を利用した様々な用途の石器も当時の生活を伝えていました。

底部を石斧で丁寧に加工、整形したクリの木柱も多数出土、年輪解析や放射性炭素C14を利用した年代測定によって
樹齢100年前後のものが多いことが確認されています。
三内丸山遺跡に人が住み始めてからクリ花粉が増え、成長が早く、丈夫で腐りにくいクリが木柱、食用として多用されたこと、
DNA鑑定により栽培が行われていたことも分かったそうです。

自由に観覧した後、15分程のギャラリー・ガイダンスを受け、11時から遺跡内のボランティア・ガイド・ツアーに参加しました。



復元建物群

南に八甲田連峰を望む青森市郊外の沖館川右岸、標高20mの河岸段丘に残る三内丸山遺跡は35haという広大な面積を持ち、
掘立柱建物、住居群、倉庫群、墓、貯蔵穴、粘土採掘穴、捨て場などが確認された大規模な集落跡で、
その存在は江戸時代から知られていたと言われています。
1992年の県営野球場建設の事前調査で遺跡の場所が明確となったことを受け、県は既に着工していた野球場建設を中止し、
1994年に遺跡保存の決定をしたそうです。



大型竪穴住居

竪穴住居

集会所として使われたと考えられている長さ32m、幅9.8mの大型竪穴住居、広さ10m2ほどの小型竪穴住居など、
茅、土、樹皮で葺いた屋根、クリの柱、中央に炉をきって復元した住居群の内部や外観を見学しました。
小型竪穴住居跡は800棟程見つかっていて、ムラのおおよその規模が推定されます。


 

地面に穴を掘り、柱を立てた掘立柱建物は、高床式という考えに沿って復元されていましたが、
遺跡中央にまとまり、東側に大人の墓が続いていることから、埋葬や祭祀儀礼に関連した施設の可能性が高いと考えられています。



南盛土

大型掘立柱建物跡
 
北・南・西に残る盛土からは土器の他にヒスイ、土偶、装身具、ミニチュア土器などまつりの道具が多く出土し、
祭りや儀式に関わりがあった場所と考えられていて、年月と共に水平に堆積した盛土地層の様子を見ることが出来ました。
大型掘立柱建物跡は6本柱の柱穴が間隔4.2m、幅2m、深さ2mに統一されていて、技術の高さが注目されています。


 

北の谷

北の盛土

北の谷はごみ捨て場として使われていた場所で、様々な動物や魚の骨、植物種子などが泥炭層の中に残り、
当時の生活や自然環境を知る貴重な情報源となっている他、
国内最古級の漆器や漆塗りの櫛、丸木舟の櫂、縄文ポシェットなどの木製品も腐敗することなく出土しています。
またここから北の沖館川まで伸びる道の跡も残り、船着場があったのではないかとも考えられています。

北の盛土は竪穴住居を掘った時の土、炉の灰、焼け土、土器などの生活廃棄物が捨てられて小山のようになった場所で、
発掘された一部をドームで覆い、内部見学ができるようになっていました。
その他、大人の墓(土杭墓)や子供の墓(埋設土器)なども見学して、閉口する暑さの中でしたが、
縄文文化が身近かに感じられた遺跡めぐりでした。



三内丸山遺跡のランドマークとなっている屋根のない3層構造の大型掘立柱建物は、
大林組のプロジェクトチームの考証によって原寸通りに再現されたものですが、考証に対する賛否はいまだに分かれ、
また、盛土や柱跡を保護する白いドームが縄文遺跡の佇まいに相応しくないという意見などもあって、
「縄文時遊館」などの設備が整った後も遺跡入場料の有料化を断念、無料のままに継続という経緯を持っているようです。




これほどの集落が4000年前に終焉を迎えた一因としては、先ず、気候の寒冷化が挙げられますが、
縄文時代の里山の主役であったクリの栽培を停止しなければならない何らかの理由があったのでは、という説もあるそうです。
縄文のキー植物のクリは、日差しを遮るもののない広大な遺跡の中で、今回も涼しさを供給してくれる有り難い存在でした。



12時半に三内丸山遺跡を出発して、隣接する青森県立美術館へ車で移動、美術館内のカフェでランチ・タイムとなりました。



    

    

パスタ・ランチはナポリタン、せんべい汁風、ジェノベーゼ風ブロッコリー・ソース、夏野菜と様々な好みに分かれました。
デザートにはりんごシャーベットをオーダーしました。



「あおもり犬」と向き合っている女の子

三内丸山遺跡で時間を取り過ぎたために、美術館の見学時間は30分だけというタイト・スケジュールになりましたが、
折よく開催していた特別展「種差 よみがえれ浜の記憶」で吉田初三郎の鳥瞰図や東山魁夷の「道」を鑑賞し、
青森県出身の棟方志功、寺山修二、佐野ぬい、奈良美智などのコレクションを“走り見”して回りました。


    

三内丸山遺跡の発掘現場に着想を得て青木淳によって設計された美術館は、白い塗装を施した煉瓦造りの倉庫風な外観を持ち、
地面を幾何学的に切り込んだトレンチ(壕)で構成される内部は、要所に立つガイドなしには観覧不能な迷路のようでしたが、
統一された書体やロゴマークなど細部へのこだわりが見られ、ゆっくり観覧すると様々な仕掛けが発見できそうでした。


    
         −A・I−

撮影禁止の美術館で、唯一写真を撮ったり、触ることのできるのが奈良美智のコミッションワークのひとつ「あおもり犬」で、
奈良美智の常設作品室の外に立っていますが、屋外の連絡通路を通って、地下2階トレンチまで下りられるようになっていました。
トラスウォール工法によって造られた8.5mの犬の半身像は想像力をかき立てられるインパクトを持っています。



A-FACTORY

ベイブリッジ

3時前に県立美術館を出て、3時半に青森の街の中心に戻り、4時再集合を約束して、
A-FACTORYでお土産を買ったり、ベイエリアを散策したり、パッケージツアー以上の慌ただしさで、それぞれの時間を過ごしました。



ベイエリアには第2次世界大戦末期の1945年に受けた青函連絡船戦災の碑や
1988年に廃止された青函連絡船の青森発最終便に使われた八甲田丸が日本初の鉄道連絡船ミュージアムとなって残されていました。



子供達は受賞したねぶたなどが展示された「ワ・ラッセ」も見学、端折り気味ながらも、全ての予定をこなした満足感とともに、
青森を後にして、新青森駅へ向かいました。



  

    

それぞれ好みのお弁当を手に「はやて44号」に乗車し、5時12分に青森を発って、東京に8時36分に到着、
9時半過ぎに帰宅して、3日間の小旅行が無事に終わりました。

残り少ない夏休みに宿題に追われることになったとしても、この旅の記憶が子供達の糧になることを願い、
大人にはリフレッシュと共に、多くの見聞がさらなる好奇心につながることを願いながら、旅の記録も終りを迎えました。

                                   (2013.9.7) 



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