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18 Oct.2011
Dubrovnik~Počitelj~Mostar


アドリア海の朝

ホテル・ドゥブロヴニク・パレス

バルカン地方内陸部へ移動する10日目も好天に恵まれましたので、朝食後はホテルの海側の庭を散歩して、
アドリア海とのお別れを惜しんだ後、ホテルを8時半に出発して、
一昨日来た道を2時間ほど戻り、北東に位置するモスタルを目指しました。



順光の車窓にペリェシャツ半島が見え、オスマントルコやヴェネツィアの陸路からの攻撃を防ぐために、
ドゥブロヴニク市民がストンからマリストンにかけて14~6Cに築いた城壁が遠望できました。
マリストン海峡には昨夜食べ損ねた?牡蠣の養殖風景も見られました。
この辺りの牡蠣は殻が丸くて平らな平牡蠣と言われる種類で、1~5月がベストシーズンで、
輸出用の牡蠣パウダーも製造されているそうです。

9時半にボスニア・ヘルツェゴビナに入国、海岸線9kmを走った後、またクロアチアに入り、
10時40分にメトゥコヴィッチからボスニア・ヘツツェゴビナに再入国と目まぐるしい中、
チェック・ポイントでバスに乗り込んできた係員から2度パスポート・チェックを受けました。
クロアチアの中にこのようなボスニア・ヘルツェゴビナの飛び地があるのは、
オスマントルコが占領していたクロアチア内陸部の領土をハプスブルク帝国が1699年に奪い返した時に
カルロヴィッツ和約によってネウム周辺9kmがドゥブロヴニク領になったものの、
ドゥブロヴニクがトルコに割譲を要求しなかったため、引き続きトルコ領となったことが発端で、
ドゥブロヴニクはヴェネツィアとの間にトルコ領をおいてヴェネツィアの脅威を弱めたものと考えられています。
旧ユーゴスラビア時代には消えていた国境が1991年のクロアチア独立の時に再浮上し、
ネウムを通過せずにクロアチア国内を移動する架橋計画が作られましたが、
資金が行方不明になり、計画が頓挫したまま、今に至っているそうです。

クロアチア通貨クーナも使えるネウムのドライブ・インでもう一度ショッピング・タイムが取られましたので、
日本人客も大勢混じる混雑した店内で、クロアチア老舗クラシュのチョコレートなどを購入しました。



セルビアとクロアチアに挟まれたボスニア(サヴァ川支流のボスナ川に由来)に6~7Cに定住した南スラブ人が、
セルビア、クロアチア、ハンガリー、ビザンチンの支配を受けた後、
12C後半にクリンがボスニア中部を統一して中世ボスニア王国を建国、
14Cのコトロマニッチの治世に南のフム地方、後にヘルツェゴヴィナと呼ばれる地方を支配したのが
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの始まりです。
コトロマニッチの後継者トヴルトコの時代に領土を拡大、衰退していたセルビア王国に代わって、
ボスニア王国はバルカン最強の国へと成長しますが、トヴルトコの死後に生じた内紛によって、
15C後半から400年以上にわたるオスマントルコの統治下に入り、
1878年からはハプスブルク帝国の軍事占領下に置かれます。

こうした歴史を経て、トルコ支配が始まった頃には自由であった宗教から固定化した宗教共同体が生まれ、
南スラブを意味するユーゴスラビアに、つまり、同じ民族が住みついた地域に、
イスラム、正教、カトリックという宗教的帰属による違った民族主義が出来上がっていったことが、
20Cのバルカンの悲劇の大きな引き金の一つとなりました。

この日はヘルツェゴヴィナの中心都市モスタルへ向かって、ネレトヴァ川を北上していきましたが、
サラエボの南に発しアドリア海へと注ぐ218kmのネルトヴァ川沿いは
海側の塩、魚、オリーブオイル、果物、内陸部の鉱物、穀類、蜂蜜、肉、獣皮などの交易の隊商路として栄え、
中世には奴隷貿易も盛んに行われ、捕虜となった南ロシアのスラブ人を奴隷にしたことが
SLAVE(=奴隷)の語源となって残っています。

緑豊かな田園風景が続くネレトヴァ川下流の景色を見ながらヘルツェゴヴィナ(=公爵の土地)に入ると、
車窓にはトルコ風のモスクが見られるようになりました。



地元産物を売る露店

サハト塔

11時過ぎに到着したポチテルは、クロアチア・ハンガリー王国のコルヴィン王時代の1465年にヘルツェグ公爵が
トルコ防御用の城砦を造りますが、1471年にトルコ軍に占領され、17~8Cにトルコ風の町となり、
1992年からの内戦で大きく破壊された後、修復されて、町全体が博物館と言われる姿を取り戻していました。
町の入口には地元産物を売る露店や果物をかごに入れて椅子に座る女性が並んでいて、
これから観光化されていく町という印象を受けました。


モスク、メドレセ(神学校)、ハマム(浴場)、隊商宿などイスラムの町に見られる建築物が立ち並び、
アドリア海からわずかに入っただけで、今までと全く変わった景色に出会ったことに戸惑いを覚えましたが、
歴史を視覚的に理解する出会いとも言えました。



石灰岩の山裾にジラヴカやブラティナなど名産ワインのブドウ畑が広がる中をモスタルまで30km走る車窓に、
幾度となく、真新しいお墓が林立する墓地が現れる光景には言葉を失くしてしまいました。



フランシスコ会修道院の教会

モスタル高校

12時に到着したモスタルは、荒廃が残る中に、新しい建築物だけが目立つというのが第一印象の街でした。
16Cに建てられたフランシスコ会修道院がトルコ軍に破壊された後、モスタルにカトリック教会が造られたのは
1847年のことで、1992年に焼失後、95年からクロアチア人と政府によって再建が進められ、
以前は47mであった鐘楼は、この地域で最も高い107mの高さに改築されています。
教会再建にはチャールズ英国皇太子の個人的な献金も寄せられたそうです。
ハプスブルク帝国時代にオリエントの要素を加えて擬ムーア式で建てられたというモスタル高校は、
周りが整備されると馴染んで来るのかもしれませんが、まだ唐突・・・という印象が否めない建物でした。



   

レストラン「EUROPE」のランチはポテト&チーズのパイ、キャベツ・サラダ、仔牛グリルとぶどうで、
初々しさ溢れる10代半ばの男の子たちがウェイターを務めるお店でした。




昼食後の旧市街観光のガイドさんは、セルビア人とクロアチア人の両親を持ち、
7歳の時に内戦に会い、モンテネグロ、スイス、カナダで避難民暮らしを経験した若い男性(学生?)でした。
故郷に戻って来ることができた若い彼らの未来に、幸の多いことを願うばかりです・・・。



街を歩くと、今なお、内戦のつめ跡をまざまざと残す建物が少なからず残っているのが分かりましたが、
イスラム系住民が多い地域の方が復興が遅れている印象を受けました。
公共建物は2014年に修復が完了する予定だそうです。


小さなラドボリャ川がネレトヴァ川と合流する100mほど手前に、1996年の洪水で流された後、
2003年に再建された16C半ば建造のクリヴァ・チュプリア(斜め橋)と呼ばれる単アーチの石橋がありました。
これはトルコのスレイマン大帝時代の大建築家ミマール・シナン(1495-1588)の弟子が、
練習用に造ったものだと言われています。

2005年に世界遺産に登録された旧市街に入ると、ネレトヴァ川に沿ってトルコ風の街並みが続き、
スタリ・モスト(=古い橋)へと向かいますが、モスタルという地名も橋の両端を守衛した守り人に由来していて、
この街にとって橋が重要なシンボル的存在であることが分かります。



ネレトヴァ渓谷が最も狭い場所に架けられていた木の吊り橋を、
ミマール・シナンの弟子のハイルディンが1566年に造り変えたのが石のアーチ橋スタリ・モストです。
長さ28.7m、幅4.49m、水面からの高さ21mの石橋は、四角い石のブロックを鉄鉤で繋ぎ、鉛を鋳込んで
ドゥブロヴニクやその近郊の著名な建築士と石工によって造られたそうです。

クロアチア人とボシュニャク人(旧ユーゴ時代にモスレムと呼ばれたイスラム系南スラブ人)の間に内戦が起きて、
1993年11月9日に民族共存の象徴とされたスタリ・モストは砲撃を受けて破壊されてしまいましたが、
NATOの介入で1995年に内戦が終結した後に、ユネスコ、世界銀行、民間支援などを受けて、
川に落ちた石や元々使われていたモスタル南5kmのムコシャの石切り場から切り出した石で元の形に復元、
2004年7月にチャールズ皇太子など国内外からの賓客を集めて開所式が行われ、
平和のシンボルとして、世界に向けてニュースが報道されました。



スタリ・モストの上から、石灰岩の山の間を抜けて流れ、プリトヴィツェ湖を思い出させる緑色を帯びた青い色の
ネレトヴァ川や旧市街の美しい景観が見られました。
左岸にはミナレットが数多く見られますが、周辺国がお金を出し、モスク建設を盛んに行っているそうです。



シャドルヴァン

スタリ・モストを渡り、金細工師(クユンジエ)や銅職人(クユンジレ)が多く住んでいた為、
クユンジルクと呼ばれた左岸のチャルシャ(=旧市街)地区の中のコスキ・メフムト・パシャ・モスクを訪ねました。

石タイルの屋根を持つシャドルヴァン(=泉亭)は1618年創建当時の面影を見せていましたが、
モスク内部はミフラーブ(メッカの方角を示す壁がん)もミンバル(説教壇)も真新しいもので、
かってメドレセ(神学校)として使われた建物は土産物店になっていました。



コスキ・メフムト・パシャ・モスクのテラスの展望


チャルシャ地区のもう一つの観光スポットとされる内戦の被害を免れたトルコ人の家も見学しました。
18Cのオスマントルコ様式の家は、トルコのサフランボルで見たものと似通っていて、
又、2階建て木造建築には日本人の郷愁を誘う雰囲気もありました。
歴史的建造物として保存されるビシュチェヴィチの家は、観光がオフシーズンに入るため、
土足のままの見学が許可されました。これからカーペットを洗って、来シーズンに備えるようです。



 

2階の客間でコスプレ・ショーが繰り広げられましたが、出演者は3名というのはお分かりですよね!?
年齢層が多彩なツアーならではのお楽しみタイムでした。



3時半から4時40分までフリータイムが取られましたので、職人街を歩いてスタリ・モストへ戻り、
行きに寄った博物館で、もう一度、内戦当時の映像を見たり、周辺を散策して過ごしました。



スタリ・モストの両側の建物は武器・弾薬庫、牢獄、守衛員の宿舎として使われていたもので、
石橋の上には、馬のすべり止めのカーペットが敷かれていたそうです。



橋のたもとに置かれた石碑

トルコ・コーヒーでティー・ブレイク


ヨーロッパ風オリエントといった趣きのスタリ・モストを出て、パーキングに向かう途中には、
ジプシー(肌の浅黒さがエジプト人に間違われたことが名前の由来)の子供達の姿が多く見られました。
10Cに北インドから移民してきたと考えられているジプシー(現在はロマと呼ぶことが多い)は、
ハプスブルクとオスマントルコ時代にスパイとして活躍し、現在もバルカン地方に多く残っていると言われます。
馬子や結婚式の音楽芸人、鋳掛屋などを生業としたジプシーは、仕事がなくなった現在、
個人所有の観念を持たないことによってトラブルを起こし、各国の社会問題になっていますが、
ルーマニアでは家を与え、牛乳配達などの仕事を与えるなどの解決策が取られているそうです。
初めてジプシーに出会った戸惑いで、少し高額すぎるお金を渡してしまったツアーメイトもいたようです。



シナゴーグ再建予定地?


再建途上の街を、日の丸を付けた市バスが走っているのを何度か目にしました。
人災、天災に関わらず、相互援助のグローバル化が進んでいることも実感されたモスタルの街でした。



Hotel Ero

4時45分にHotel Ero(=Cupid)に到着、まだ散歩に出掛けられる時間でしたが、
ネレトヴァ川右岸の新市街に位置するホテルのロケーションと疲れで自粛、夕食までゆっくりと過ごしました。



お土産が大変な新婚組&コスプレ・ショーの回答画像です?


   

ホテル・レストランでの夕食はトマト・スープ、野菜サラダ、仔牛グリル、ケーキで、
素材の確かさが感じられるものでした。

帰国便に預けるスーツケースの中には電池使用品は入れずに手荷物にしてください、などと注意が始まり、
旅の終わりが近づいたことが意識されはじめた一日でもありました。


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