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10 Oct.2011
Trieste~Poreč~Pula~Rijeka


NHジョリー・ホテル

運河

いつも通りに旅のハイテンションで、数日間は解消しない時差による寝不足の辛さをカバーして、
バルカンの旅が始まりました。

と言ってもトリエステはローマ、フランク、ヴェネツィア、フランス、オーストリア・・・と様々な国の統治を受けた後、
現在はイタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州の州都で、
「クロアチアの内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置する
トリエステ・・・」と須賀敦子さんが表す宿命的な複雑さを背負わされた港街です。



市庁舎              保険会社ロイド・トリエステ            県庁

この日は7時から朝食、8時出発というタイトなスケジュールの上、治安の悪さを注意されていましたが、
早目に朝食を済ませた後、陽が昇って明るくなった街への散歩を敢行しました。
最初にホテルから程近い、昨夜、美しくライトアップされていたイタリア統一広場を目指しました。
毎年10月第2日曜日に開催されるバルコラーナ・レガッタというヨットレースの開催日の翌日とあって、
広場周辺にはその余韻が残り、清掃、撤去作業も行われていましたが、
18~9Cのバロック、ネオ・クラシックのウィーン風建物が美しく調和した様子は見て取ることができました。



サン・ジョルジョ港の朝の空気を吸ってから、見込んでいた通り30分ほどの散歩で諦めをつけて、
急ぎ足でホテルへ戻りました。




実は私にとって、この朝の散歩の最大の目的は、このサン・ニコロ通り(右写真)を見ることでした。
「幅十メートルほどの細い道で、馬車道の石畳をそのまま残した車道」
「この街が時代の波に乗り遅れているのだけれど、だからといって安直な代用品をならべてごまかすこともなく、
ただ、なにもかもが地味だった過去の時間をゆっくりと生きている」(「トリエステの坂道」須賀敦子著)
「細い道がもうそこで終わるというあたりの左側」にあるという須賀さんお目当てのサバ書店まで行く
時間は取れませんでしたが、限られたスケジュールを有効に使って、
思いを馳せていたトリエステの街を少し歩くことが出来て、旅の幸先きの良さを感じました。



トリエステ中央駅

スロヴェニア国境

8時にイストラ(イタリア語ではイストリア)半島に向けて出発したバスは
造船所など工業地帯を車窓に見ながら海岸線に沿って進んだ後、小高い山あいの道を走って、
8時25分頃にスロヴェニアに入国、ぶどう畑など緑豊かなスロヴェニアのアドリア海地域を通過して
9時15分にクロアチアに入国しました。
国境の出入国審査は係員の気分次第というのが昨今の傾向のようで、
今回はスロヴェニア出国時だけバスに乗り込んできた係員によってパスポートに押印されました。
右写真はスロヴェニア出国時の国境周辺の景色で、遠くにアドリア海が見えています。



見張り塔カフェ

ロマネスク・ハウス

10時にポレチュに到着、15Cの城塞の見張り塔利用のカフェなどを見ながら、海沿いの路から街の中へ入り、
デクマヌス通りの一角に現存する最古の建物のひとつ、ロマネスク・ハウスの外観を見た後、
エウフラシス聖堂へ向かいました。



聖エレウテリア通り

エウフラシス聖堂

デクマヌス通りの中程を左折し、聖エレウテリア通りを抜けると、突き当りにエウフラシス聖堂がありました。
3Cからキリスト教徒のコミュニティがあったと言われるポレチュには
キリスト教公認後の4Cに初代司教マウルスの遺骨を祀る最初の教会が建てられたそうですが、
その後、5C建造の教会を取り壊して、ポレチュの司祭を務めたエウフラシス(在位:543-554)が
バシリカ式で建てたのがエウフラシス聖堂です。



アトリウム             洗礼堂と鐘楼               聖堂

敷地内に入ると正方形の中庭(アトリウム)があり、左手に八角形の洗礼堂と鐘楼、右手に聖堂がありました。
初期キリスト教建築の回廊を持つ中庭は、ヨーロッパの修道院には今もよく見られるスタイルですが、
信者が増えて手狭になった教会は、中庭の敷地も教会本堂に取り込むようになって行ったため、
エウフラシス聖堂は数少ない貴重な教会建築として1997年に世界文化遺産に登録されています。
                      (参考:旅名人ブックス 「クロアチア/スロヴェニア」)


 

八角形の洗礼堂の床にはこれも又、今では珍しくなった洗礼槽があり、教会の長い歴史が感じられました。
壁には洗礼者ヨハネを意味する貝殻と魚のレリーフが掛けられていました。
魚を意味するギリシア語イクトゥス(ΙΧΘΥΣ)がイエス・キリスト、神の子、救い主の頭文字を表すため、
初期キリスト教徒は魚のマークを隠れシンボルとして使っていたそうです。


  

洗礼堂に隣接した司教館や博物館内に入り、絵画、彫刻、モザイクや聖具、法衣など
教会の所蔵品の数々も見学しました。



左の魚のモザイクは司教館の床に使われていたもので、この教会の至宝のひとつと言われています。
右はエウフラシスのオリジナル石棺と案内された写真ですが、新しさにはて・・・という印象を受けました。



博物館の裏手の床モザイクが残る古い教会跡を見た後、いよいよ教会見学のハイライトともいうべき
祭壇モザイクを見に聖堂の中に入って行きました。




アーチに美しいストゥッコ装飾、柱頭彫刻が残る三廊式の堂内を進むと
アプシス(後陣)に黄金の光を放つ6Cのモザイクが見えました。
手前にはチボリウムと呼ばれる天蓋付きの4本足の13Cの祭壇が置かれています。




アプシスの一番上にはキリストと12使徒が直線1列に並び、その下の半円部分では
イエスを象徴する子羊を殉教した聖女達が取り囲んでいます。
そして中心部には聖母子と大天使、初代司教マウルス、聖堂の模型を手にしたエウフラシスや助祭、
その息子達が描かれ、金箔を使ったビザンティン様式のモザイクがキリスト教世界を荘厳に演出していました。
その下の左右の壁のマリアのエリザベートご訪問と受胎告知のモザイクは、
動きのある表現が素晴らしく、とりわけ傑作の誉れが高い作品です。
アドリア海をはさんだラヴェンナのサン・ヴィターレ教会のモザイクとの共通性から、
エウフラシウス聖堂のモザイクがラヴェンナ職人の手になったものと考える研究者もいるようです。

2時間あまり聖堂見学をした後、30分のフリータイムが取られましたが、
この場面でのフリータイム計画は持っていませんでしたので、両替をした後、
Y添乗員さんお勧めの食品店に入り、フランス物に比べて格段に安い瓶詰めトリュフを買ったり、
デクマヌス通りに軒を並べるお店を覗いたりしながら、ぶらぶらと街歩きをして過ごしました。
今になって街の東部にゴシックの家や5角形の塔など見どころがあったらしいと思っても後の祭りですが、
オフシーズンのせいか、多分、通常のツアーよりゆっくりとエウフラシス聖堂を堪能できたことは幸いでした。

 
Y添乗員&現地ガイドさん

ポレチュの現地ガイドさんは昨日まで雨が続いていたからと長い傘を手にしていましたが、
晴れ男、晴れ女を自称する人が多いグループのパワーが?青空を呼び込んだポレチュを後にして、
15分ほどでランチ・レストランに到着しました。






レストラン「Bare」でのランチはE旅行社のこの秋のバルカンツアーのキャンペーン・メニューのひとつ、
黒トリュフ・パスタ(フジ)がメインでした。前菜、ビーフ・スープ、パスタと進んだ後、
ドーナッツがデザートと聞いた時はもうおなかがいっぱいと思ったのですが、
出てきたかわいい素朴なドーナッツを見ると別腹・・・となり、
少し塩辛いものもありましたが、イタリア風を楽しんだ初ランチでした。
因みにイストラ半島人口の10%はイタリア人で、標識にはクロアチア語とイタリア語が併記されているそうです。


2時にレストランを出発、1時間足らずでプーラに到着して、先ず円形闘技場を見学しました。
ローマ初代皇帝アウグストゥスが建設、クラウディウス帝が拡大したものを、
ヴェスパシアヌス帝が現在の高さ30m、楕円形直径132m&105mの大きさに拡張したと言われています。
観客席には2万2千人を収容、現在もコンサートなどに使われているそうです。
「頑丈な身体の上に充分にふくらまなかったパンのような顔がのっている」(「ローマ人の物語」巻Ⅷ 塩野七生著)
と評されるヴェスパシアヌス帝がプーラに住む愛人を喜ばせるために造ったという話の真偽はともあれ、
ローマのコロッセウムも造ったヴェスパシアヌス帝は「健全な常識人」で
時代の要請に応えるに適した指導者であったことは歴史が証明しているようです。



中世に教会などの建設のために石材を持ち去られ、ローマ時代の華やかさは想像するばかりですが、
ライオン像や装飾的な石組みなど、所々にその痕跡を見つけることができました。



円形闘技場からバスに乗って、街の中心で下車して、旧市街を散策しました。
ユーゴ時代、ハプスブルグ時代、ムッソリーニ時代と様式が明らかに異なる建物が並んでいる一角が、
この街の複雑な歴史を如実に物語っていました。


双子門 ヘラクレス門

イアソンとメディアが奪った黄金の羊毛皮を取り返すために派遣されたコルキス(現在のグルジア)の民が
築いたと言われるアドリア海東岸最古の街プーラに残る3つのローマ時代の門を見ました。
双子門の上部のラテン文字はこの街に水道を通した人を讃えているそうです。
BC1C建造のプーラ最古のヘラクレス門は、アーチの中央にギリシア神話の英雄ヘラクレス像が
刻まれていることに名前の由来があります。



セルギウスの凱旋門はローマ帝国に功績のあったセルギウス家を讃えるためにBC27年に造られ、
西方を向いたアポロン神、月桂樹冠を持った勝利の女神、花綱を持った天使などが彫られ、
門の下を通る人々にも花を与える趣向となっています。

凱旋門脇の黄色い建物の並びにあるカフェ「ウリクス」(=ユリシーズ)は、
ジェームズ・ジョイスが英語を教えていた場所だったそうで、
お店のテラスに銅像が置かれていましたが、22歳の時、冬の半年だけを過ごしたプーラに
あまり良い印象を持っていなかったといわれるせいか、
年を取ってから再訪したという趣きを持った老ジョイス像でした。



ジェームズ・ジョイス(1882-1941)

左:アウグストゥス神殿 右:市庁舎 プーラ大聖堂と鐘楼

セルギエヴァッタ通り(ローマ時代のドクマヌス通り)を通って、かっての公共広場フォロへ出ると、
イタリアの建築家パッラーディオに影響を与えたと言われる1C建造のアウグストゥス神殿と
月の女神神殿の跡に1296年に建てられたヴェネツィア共和国庁舎、現在の市庁舎があり、
フォロから少し歩いた所に円形闘技場の石材利用のプーラ大聖堂や鐘楼がありました。




外観を見ながら歩くだけの街見学となりましたが、ギリシア神話の土地の神テラモンや、
現地ガイドさんが「プーラのスターバックス」と呼ぶ人魚像など面白い彫像を持つ建物があり、
歴史ある街の一端を垣間見ることが出来ました。



焼き栗の屋台、高校生など街の人々、2000個のアンフォラが見つかったというローマ時代の発掘現場、
公園のパルチザン像など、慌ただしくカメラに収めたスナップですが、
それぞれに懐かしく思い出される街の光景です。


 
ハイブリッド・チェリー           現地ガイドさん  

愛知県寄贈の2本の中、1本はクロアチア種がからみ、2種の花と実をつけるという桜の木もありました。
友好のシンボルのようでもあり、困惑ものでもあり、という所でしょうか。
英語力、手際、ユーモアともに優れた現地ガイドさんに見送られて、4時半過ぎにプーラを後にしました。


6時前に前方に見えたリエカの街 車窓のアドリア海夕暮れ

グランドホテル・ボナヴィア

6時20分にリエカの旧市街に位置するホテルに到着、希望者は6時45分にロビーに集合して、
Y添乗員さんの案内で街の中心のコルゾ通りへ行き、ライトアップされた時計塔を見た後、
スーパーマーケットで地元産のチョコレートやハーブティなどの買物をしました。




7時半からのビュッフェ形式の夕食は、欠品のお皿が出てブーイングが聞こえる中でしたが、
それをも笑い合う和やかな雰囲気の中で、簡単な自己紹介が行われました。
夫婦8組(新婚1組)、母娘と友人組が各1組、1人参加が男女1名ずつの22名が今回の旅仲間で、
年齢層など比較的バラエティに富んだグループでしたが、日毎に馴染んで行きました。


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