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13 Oct.2011
Zagreb~Karlovac~Rastoke~Plitvička Jezera


Hotel Dubrovnik

ロアチアの首都ザグレブはメドヴェドニッツァ山(=熊山)の裾野から
サヴァ川(スロヴェニアのユリアン・アルプスを源流としべオグラードでドナウ河と合流)に向かって
南に延びて行った街で、北の丘の上が旧市街、丘の下から南へ中央駅周辺までが新市街、
第2次世界大戦後にさらにサヴァ川あたりまで新興地として開発された人口120万人を擁する都市です。

8時半から旧市街を観光と聞いていましたので、朝食後は昨夕に続いて新市街を40分ほど散策しました。
ぱらつく程度の雨に傘を差す人が結構見られるのは、ヨーロッパの国にしては珍しいと思いながら歩いていると、
雨は本降りにならず、程なく上がってくれました。



オーストリア支配下の19Cに都市計画によって造られた新市街は、
プラタナスの木立の中に噴水が配置された公園に沿って南北に延びるプロムナードを歩くと、
考古学博物館や近代美術館(右写真)、美術科学アカデミーなど由緒ある建物が見え、
小ウィーンと呼ばれるのがうなずける優雅な佇まいを見せていました。



トミスラヴ騎馬像

10C初めにクロアチアを統一した初代王トミスラヴの立派な騎馬像がザグレブ中央駅前の
トミスラヴ広場に立っていましたが、ごみの散乱、通学前の高校生の喫煙姿が景観を損ねていました。
その奥に見える黄色の建物は19C末のブダペスト万博パビリオンを移築したもので、現在は展示場となっています。
曇り空で、気温12℃と少し肌寒い朝でしたが、凛とした空気は爽快に感じられました。



イェラチッチ騎馬像

マンダの泉

8時半にホテル・ロビーに集合し、旧市街徒歩観光へ向かいました。


現地ガイドさん

最初に旧市街と新市街に挟まれたイェラチッチ広場へ行きました。
イェラチッチは1848年のハンガリー革命に乗じ、オーストリア皇帝に忠誠を尽くすことによって、
ハンガリーに組み込まれたクロアチアの自治権の拡大を図った人物で、結果的には期待した自治も得られず、
1859年に失意の中に亡くなりましたが、クロアチアの英雄として、街の中央広場に騎馬像が残されています。
彼の死後まもなく建てられた銅像は社会主義時代に撤去され、広場の名前も共和国広場と替えられましたが、
1991年の独立後、銅像も広場名も元に戻されたそうです。
建立当時はハンガリーに向けられていた剣先が反対方向にして再建されたという歴史を語る騎馬像です。

ザグレブという地名は丘の下の「溝」の意味、イランのザグロス山脈由来など諸説あるようですが、
この日のガイドさんは、白馬に乗った王子に見染められたマンダという少女が、
王子のために水を汲んだという伝説に由来する「水をすくう」がザグレブの意味だと説明していました。



イェラチッチ広場から西へ少し歩いた右手から、1890年に開業した全長66mの世界最短のケーブルカーに乗り、
ものの1分足らずで到着した丘の上から、新市街とその先に見える高層アパート群を眺望しました。
先史時代から人が住み、ローマ遺跡も残るザグレブが歴史の記録に初めて登場するのは、
カプトルに司教座がおかれた1094年のことで、東の丘カプトルと西の丘グラデッツを合わせて、
ザグレブと呼ばれるようになったのは19Cのことだそうです。

西の丘グラデッツから旧市街観光に入りました。
ケーブルカー右手のロトルシェチャックの塔は、グラデッツの城壁にあった南門の13Cの見張り塔で、
15Cのオスマントルコ侵攻の時、12時に放った大砲がクロアチアを救ったという伝説に因み、
100年以上前から毎日正午に大砲が撃たれ、轟音を放つそうですが、
この日はレストランで昼食の最中で、残念ながら、大きな音を聞くことは出来ませんでした。



突き当りに聖マルコ教会

聖カタリーナ教会

丘の上を東に向かうと、左手にザグレブといえば必ず紹介される聖マルコ教会の屋根が見えましたが、
手前の道を右折して、聖カタリーナ教会の前を通り、先ず、丘の上のビューポイントを目指しました。



旧市街の建物の壁には今もガス灯が200個以上残り、毎夕、ガス灯ボーイが火を点灯して回るそうです。
古い時代の伝統を継いで、旧市街が大切に守られている様子がうかがえました。


 
ギムナジウム

17Cにイエズス会によって建てられた聖カタりーナ教会の付属修道院やギムナジウム(名門私立高校)の前を
通り抜けると、旧市街の東の丘カプトルを見渡すビューポイントがありました。


歴史を重ねたザグレブの街並み
スタンコヴィッチ国立劇場? JEZUITSKI

大聖堂が存在感を見せる眺望を楽しんだ後、再びグラデッツの中心、聖マルコ広場へ向かう途中に、
「スタンコヴィッチ国立劇場」(怪しいメモ・・・)やイエズス会がヨーゼフ2世から権利を受けて
創設した大学「JEZUITSKI」がありました。




大学の外壁には、帰化したアメリカの功績とされていますが、クロアチア出身で、
変圧器で有名な物理学者ニコラ・ステラ(1857-1943)のレリーフが取り付けられていました。

  
聖マルコ教会



ハンガリーのジョルナイ工房のセラミック・タイルで1882年に改修された聖マルコ教会の屋根の紋章は、
左は中世クロアチア王国(10Cにチェスの勝負に勝ったことに由来するサッカーでお馴染みの赤白の市松模様)、
ダルマチア地方(3頭のライオン)、スラヴォニア地方(星とテンとサヴァ川)を表す国章で、
右は3つの塔を持つザグレブ城をデザインした市の紋章です。
鮮やかな色でユニークにデザインされた屋根を持つ聖マルコ教会は街のシンボルのひとつとなっています。
因みにクロアチア通貨のクーナという単位は昔、クーナ(=テン)の皮を貨幣代わりに使っていた時代の名残で、
1クーナ=100りパ(=菩提樹)という通貨名にもクロアチア人の独特のセンスが感じられました。



南の扉の14Cのゴシック彫刻

教会内部には入りませんでしたが、面白い屋根とロマネスクとゴシックが調和した南の扉を
修復中でない完全な姿で見られたのは運の良いことだろうと思われました。


政府官邸(旧総督邸) 国会議事堂

聖マルコ広場右手の建物は1918年にオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を2階バルコニーから市民に告げ、
1991年にはユーゴスラビア連邦からの離脱を決議した国会議事堂です。
左手の政府官邸は1991年にクロアチア独立に反対するユーゴスラビア連邦軍の爆撃を受け破壊しましたが、
すっかり修復されて大統領と首相の執務室が置かれている元・総督府の建物です。
国家の中枢機関が集まっていながら物々しさが全く感じられない広場で歴史に思いを馳せたひと時でした。



クロアチアで2番目に古い薬局(1355年開業)

石の門

聖マルコ広場から東へ向かうと、クロアチアで2番目に古いと言われる薬局があり、
その先に、グラデッツの城塞に東西南北に造られた城門の中、唯一現存する東門「石の門」がありました。



石の門の屋根の上に取り付けられている「Morning Star」(朝星棒)は魔女裁判を暗示し、
出入り口右側の壁の左手にザグレブ市の紋章がついた箱を持った女性像は、
ハンガリーや蒙古、トルコの襲来が終結したので門は誰にでも開けられていると右手の鍵が表しているそうです。
何気なく通り過ぎてしまう所にも物語が秘められている長い歴史の街の奥深さを感じました。



1731年の火災で消失した木製の東門が1760年に再建されて石の門となったそうですが、
大火の後に無傷のままの聖母子イコンが発見されたという伝承に因んで
門の内部に聖母子礼拝堂が設けられ、ろうそくやお札を捧げ、熱心にお祈りをする人の姿が見られました。


ゲオルギウス像 ラディッチ通り

石の門から城壁を抜け、ゲオルギウス像の前からラディッチ通りの急坂を下って行くと、
1850年にグラデッツとカプトルの丘が合併してザグレブと呼ばれるようになった翌年、
2つの丘を分けていたメドヴェシュチャック川を埋め立てて造ったトカルチチェヴァ通りがありました。
製粉業が盛んだった頃には水車小屋の管理を巡って2つの丘の住民間で激しい争いが起きたそうで、
「KRVAVI MOST」(=血の橋)と当時の名残をとどめた小さな通りも残っています。



トカルチチェヴァ通りから大聖堂を正面に見ながら東へ抜けて、中央市場があるドラツ広場へ出ました。
通りの途中には、クロアチア初の女性ジャーナリスト、傘を持ったマリア・ユリッチ・ザゴルカ像、
頭に大きなかごを載せた生命力あふれた女性像がまるで道を歩いているように置かれていました。


ドラツ広場の中央市場

ドラツ広場で30分ほど自由時間が取られました。
生鮮食料品、民芸品、お土産品などの露店が所狭しと立ち並ぶ広場、屋内マーケットなど、
ザグレブの台所と呼ばれる活気に満ちた1930年から続く中央市場ですが、
台所に立つ必要がない旅先のこと、食指が動くものも見つからず、のんびり、ぶらぶらとして過ごしました。




唯一の買物は犬を飼いたいと言っている幼稚園児の孫へのお土産の木製の犬(450円)ですが、
頭の上のスプリングがぐーんと延びるだけでは、とても本物には太刀打ちできないようでした。
クロアチア産と言われるダルメシアン種でなかったのがちょっと残念です。


聖母マリアと天使像の噴水 聖母マリア被昇天大聖堂

10時半から11時過ぎまで聖母マリア被昇天大聖堂を見学しました。
1856年建造の聖母マリアと天使像の噴水がある広場に立つ聖母マリア被昇天大聖堂は、
1094年にハンガリーとクロアチア王ラースロー1世がカプトルに司教座を置いた時、
元々あった教会をロマネスク様式の大聖堂に建て替えた後、
1242年にモンゴル軍によって破壊されゴシック様式で改築、1880年の大地震の後、ネオ・ゴシック様式で修復
という歴史をつないで来た教会で、1848年にクロアチアがハンガリーと平等の権利を得た時に
聖イシュトヴァーン(ハンガリー初代王名)大聖堂から聖母マリア被昇天大聖堂に名前を変えています。
19C末の修復時に付け加えられた双子の塔と呼ばれる2つの鐘楼(高さ105m)やファサードは、
予算不足のため安い砂岩で造ったため傷みが早く、長い年月をかけて石灰岩に替える工事が続けられています。



バルカン最大規模を誇る聖堂内には両側に様々な祭壇が置かれていましたが、中でも目を引いたのが、
クラゴール文字を伝えたキュリロスとメトディオス兄弟の祭壇でした。
プラハの聖ヴィート大聖堂のアルフォンス・ミュシャ作「聖キリルと聖メトディオス」のステンド・グラスや
ブルガリア建国にかかわったという話を思い出す兄弟名です。



主祭壇前に赤い枢機卿の礼服を着て横たわるのはザグレブ大司教ステピナッツ(1898-1969)で、
ナチスの傀儡国家であった時代の統治組織、ウスタシャを支持していたとして、
第2次世界大戦後、戦争犯罪人として強制労働を課せられた後、51年に減刑され、
故郷に軟禁されていたそうですが、53年にローマ法王ピウス12世によって枢機卿に任命され、
当時の政府関係者を激怒させたと言われます。
クロアチア独立後の新政府はステピナッツの有罪判決を取り下げ、名誉を回復した遺体を大聖堂に安置、
また1998年には聖堂を訪れたヨハネ・パウロ2世によって福者に列せられたそうですが、
ウスタシャによって改宗をせまられ、収容所で殺されたセルビア人、ナチス下のユダヤ人など
消え去ることのない民族感情があり、司教への不信は残されたままのようです。
聖堂内の一隅に、ロダンに師事し、クロアチアを代表する彫刻家といわれるメシュトロヴィッチが
1967年に制作したステピナッツのレリーフが置かれていました。


レストラン「Kaptolska Klet」

11時過ぎから1時間近くのフリータイムには、Y添乗員さんお勧めのナイーヴアート美術館へ向かう人も
多かったようですが、私達は新市街のショッピング・ストリート、イリツァ通りへ
ヨーロッパ旅お決まりの?孫服を探しに出掛けました。
買物を好まない夫も、この時ばかりは文句なしに積極参加をし、荷物持ちまで引き受けます。



買ったのはBENETTON製・・・


   

12時前に大聖堂前に集合して、近くのレストラン「Kaptolska Klet」で、
トマト&トリュフ・パスタ、サラダ、チキン・ロール、カスタード・ケーキのランチをいただいた後、
1時過ぎにバスに乗って、ザグレブから140km南下、プリトヴィツェを目指しました。


カルロヴァッツ近郊の野外戦争博物館

2時半ごろ通過したカルロヴァッツ近郊のトゥルン村の野外戦争博物館に立ち寄りました。
スロヴェニアと違い、人口の12%がセルビア人という問題を抱えたクロアチアに起きた独立時の内戦がもたらした
無残な廃墟、戦闘機、戦車、装甲車、トーチカなどを並べた広場は、
90年代に日本にも伝えられた凄惨な映像を現実感を伴って蘇らせるものでした。
オスマン帝国侵攻に備え、ハプスブルク帝国が軍政国境地帯としたこの地域には、
17~8C以来、国境警備兵として入植したセルビア人が多く住み、とりわけ激しい内戦が繰り広げられたようです。
野外博物館のみならず、周りには、いまだに戦争の跡を留める家々が見られました。



さらに1時間ほど走ると、コラナ川とスルツェツァ川の合流点に珍しい景観を見せているラストク村があり、
20分ほどの写真タイムが取られました。



この村も内戦で破壊されたと言われますが、村内を巡る水を利用した17Cの粉ひき用の水車が回り、
何事もなかったように、昔のままと思える落ち着いた佇まいを見せていました。


ホテル・イエゼロ

雨が上がったばかりという様子のプリトヴィツェ公園内のホテル・イエゼロに4時20分に到着しました。
今回の旅初めての連泊ですので、7時の夕食まではゆっくりと入浴や荷物整理をして過ごしました。


   

いろんな国の観光客でにぎわう大きなレストランでの夕食は、
トマトソース・スパゲッティ、サラダ、ハンバーグ、レモン・ケーキでした。
この日は雨天の公園内で日本人ツアー客が転倒し、足を骨折したというニュースがもたらされ、
ちょっと緊張が走るひとこまがありました。


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