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16 Oct.2011
  Split~Dubrovnik


ダルミナ・ホテルは新市街の外れに位置していて、朝食後に散歩をしても見るべきものがありませんでしたが、
20代の新婚夫妻は昨夜、旧市街まで散歩をして夜景を楽しんだそうで、若さには脱帽させられました。

ホテルを8時40分にバスで出発し、1979年に世界遺産に登録されたスプリットの旧市街へ向かいました。
ギリシアの都市国家「アスパラータ」(=エニシダ)に由来するスプリットは、
ローマ軍の駐屯地となった後、ディオクレティアヌス帝が宮殿を建てたことによって歴史に残る街となり、
中世以降は他のアドリア海沿岸都市と同じようにヴェネツィア支配下に置かれ、
現在は造船、セメント業など工業が盛んな人口20万人を擁するクロアチア第2の都市です。



ディオクレティアヌス帝の宮殿復元図

蛮族の侵入、軍事力強化による財政の悪化、内戦などによって、73年間に22人もの皇帝が登場しては、
消えて行ったローマ帝国の「3世紀の危機」に、広大な領土を4分割統治することによって、
国の再建を目指したのが軍人皇帝ディオクレティアヌス帝(在位:284-305)で、
21年間の統治後、自ら引退をして、余生を過ごしたのがスプリットの宮殿です。

「家を見ると、その人の性格がわかる。とくにそれが終の棲家として建てられた家であれば、
建てた人の性格はもっとよくわかる。・・・・この海岸に接して建てられた一辺が百メートル以上もある四角形の、
「別邸」でも「宮殿」でもなく、「城塞」と呼ぶしかない広大な建物が、ローマ帝国を元首政から絶対君主政に
変えた男の終の棲家であった」  (「ローマ人の物語」巻XⅢ 塩野七生著)

城塞で囲んだ敷地(215X180m)を4つに区切り、南側を皇帝の住まいと公的行事や宗教儀式の場とし、
北側に軍兵や使用人住居を配したディオクレティアヌス帝の宮殿には、
北方のスラブ人の侵略を受けた7Cにサロナから逃げ込んだ人々が住みつき、
後に、時代に応じて様々な様式の建造物が付け加えられていったそうです。



店舗や住居として使われている城塞

「銅の門」

バスを降りると、海岸のプロムナードに沿って、遺跡ではなく、生活感が漂う城塞が東西に延びていて、
昔は船が着岸した海の玄関口「銅の門」からディオクレティアヌス帝の宮殿の中に入りました。


現地ガイドさん


18Cにイギリス人アダムが始めた調査を20C初頭にオーストリア人ニーマンとフランス人エブラールが継承、
1950年代に入ってさらに組織的な調査、研究が進められた宮殿の、
「ディオクレティアヌス帝の地下室」と呼ばれるホールを最初に見学しました。
かっては調理場や食糧倉庫として使われていた宮殿の1階は地盤沈下のため地下室となり、
700年分ものごみに埋もれていたそうです。



海水の浸水もあり、カビの跡が見られる廃墟のような石造りのホールは整備されて、
ワインセラーと特定された場所にディオクレティアヌス帝の胸像やコインのコピーが飾られ、
宮殿の基礎構造材として使われたカシの木などの発掘品が展示されていました。



ディオクレティアヌス帝


オリーブ絞り器

水道管をつないだテラコッタ製継手


ローマ人の生活を支えた道具類やインフラ整備された街の様子が分かる発掘品を見ていると、
軍の精鋭の産地バルカン地方のサロナ(現在名:ソリン)に農民の子として生まれたディオクレティアヌス帝が、
軍事力によって帝国に平和を取り戻した後、ローマ軍営をモデルとして造った宮殿に隠棲するまでの道筋が
現実感と共に蘇ってくるようでした。


大聖堂鐘楼

ライオン像と修復中の宮殿正面

地下室から階段を上がると、コリント式列柱に囲まれた広場があり、東側に大聖堂と鐘楼がありました。
三角形の破風がついた宮殿の正面玄関は、鐘楼入り口のライオン像写真の右手に見られるように、
写真シートが掛けられて修復中の様子でした。



大聖堂前広場

大聖堂と鐘楼

大聖堂前の広場はもともとは宮殿の中庭で、宮殿の敷地を4等分する十字路の交差点に位置し、
東西南北にある4つの城壁門へとつながっています。

コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した313年の2年後に逝去したディオクレティアヌス帝は、
キリスト教を迫害した最後の皇帝ということになり、
八角形をした彼の霊廟は7Cに大聖堂に改築されてしまいますが、
聖堂天井のクーポラに花綱を持った天使に守られた皇帝夫妻の顔のレリーフが残っているのが見えました。
行方不明のディオクレティアヌス帝の石棺に代わって、ディオクレティアヌス帝に迫害され、
殉教したサロナの初代司教でスプリットの守護聖人となった聖ドムニウスや、
シベニック大聖堂と同じダルマティナッツの彫刻が施された聖ストシャの石棺や祭壇が安置されている大聖堂は、
歴史の皮肉をまといながらも、
キリストの生涯を28枚のレリーフにしたクルミ材の扉、彫刻が素晴らしい大理石の説教壇、
聖母や聖人、天使がクロアチア独特の網目模様と共に彫られた木製の聖歌隊席など、
13~4Cのロマネスク美術の宝庫ともなっていました。(聖堂内は写真撮影禁止)



宮殿中庭から階段を上って修復中の玄関門をくぐると、丸天井に明り取り用の穴が開いた控えの間があり、
クロアチア伝統のKLAPA(=人々の親しい繋がり)をアカペラで歌う男性グループが美声を響かせていました。
謁見の間や皇帝の居住部分があった控えの間の奥には入りませんでしたが、
宮殿2階で出会ったクラパ・コンサートは、旅の印象深い思い出のひとつとなりました。



CDお買い上げ記念撮影

この後、北門や西門でもクラパを歌う人達に出会いましたが、その中ではこの宮殿グループが最も若く、
良い雰囲気を持ったグループで、CDはどのグループも10クーナ(=1500円)でした。



中庭から西へ少し入った所にエジプトから持ち込んだスフィンクスが置かれた
ディオクレティアヌス帝建造のユピテル(=ゼウス)神殿がありました。
正面門の上部にシベニック大聖堂で聞いた時には確認できなかった「卵とやいば」の彫刻が見られました。
オリエントに勝つという意味を持つレリーフ・モチーフのようです。



洗礼者ヨハネ 

洗礼盤

キリスト教の洗礼堂に転用されたユピテル神殿にはメシュトロヴィッチ作の洗礼者ヨハネ像が立ち、
その両脇に2人の大司教の石棺、中央に十字架の形をした大きな洗礼盤が置かれていました。




アーチ型をした天井に隙間なく施された人の顔などの14Cの彫刻も見事でしたが、
クロアチア王、司教、足下に平民という11Cのプレロマネスク様式の洗礼盤の彫刻も興味深いものでした。



「銀の門」

ミュージアム

東門「銀の門」やミュージアムとなっている元ヴェネツィア商人館などを見ながらメインストリートを歩いていると、
失業率が高く、テーブルセンターなど編み物の内職で家計を支えているという女性の姿が多く見られました。



2枚お買い上げのツアーメイト


「金の門

グルグール大司教像

北門「金の門」を抜けると、ラテン文字の聖書をグラゴール文字に翻訳したり、
スプリットで10Cに開かれた宗教会議で、教会でのスラブ語使用が禁止された時に撤回を要求した
ニンの初代大司教グルグール(=グレゴリウス)の巨大な像が立っていました。
この銅像もメシュトロヴィッチの作品で、「幸せを呼ぶ」左足親指は人々に触られ、ぴかぴかに光っていました。
銅像の左手にはベネディクト派の聖アルニル教会の14Cの鐘楼が見えています。



スプリット旧市街

西門「鉄の門」

元ヴェネツィア共和国庁舎

西門「鉄の門」から西側に出ると、14C以降、行政、商業、市民生活の中心となったナロドニ広場があり、
市庁舎、劇場、牢獄まで置かれていたという1443年建造のヴェネツィア共和国庁舎を囲むように、
ヴェネツィア風の建物が並び、宮殿内とは一変、イタリアの街の景観が広がっていました。
ディオクレティアヌス宮殿とこの広場を中心とした一画が旧市街と呼ばれるようです。
ナロドニ広場で一旦解散し、1時間のフリータイムになりました。



この日も最初に向かったのは、やはり、高さ60mの大聖堂の鐘楼でした。
13Cに着工、何度もの中断を経て、1908年に完成したというロマネスク様式の鐘楼は、
最初は石段でしたが、途中、20mあたりから幅の狭い鉄階段に変わりました。



下が丸見えで、足がすくんでしまう階段途中で、上ってきたことを悔やむツアーメイトの声が聞こえてきましたが、
私は写真を撮った位ですから大丈夫でした、というより、写真で気を紛らわせたとも・・・?



ともあれ、無事に登頂した記念の集合写真


ディナル・アルプスとアドリア海の間に、この日も満点のパノラマが広がっていました。
アドリア海沿岸の街に共通した景観ですが、この美しさには見飽きることがありませんでした。



鐘楼を降りて、またナロドニ広場を通って、魚市場を覗いた後、東門の外に連なる露店市を見に行き、
旧市街を行ったり、来たり、小さな街の散策を楽しんだフリータイムでした。



共和国広場

ランチ・レストラン


ナロドニ広場に11時半に集合して、共和国広場を通り、5分ほど歩いてレストラン「VAROS」へ行きました。
ちょっと早目の海老のスープ、サラダ、シーフード・リゾット、アイスクリームのランチは、
よく歩いた後の空腹に、程よく収まってくれました。



観光客で賑わう海のプロムナードを駐車場まで歩き、南東230kmに位置するドゥブロヴニクに向けて、
スプリットを1時に出発しました。


マカルスカ・リヴィエラと呼ばれる美しい海岸線が続き、車窓から目が離せないドライブが続き、
石灰岩産地のブラチ島、ラヴェンダーで有名なフヴァール島を遠望することもできました。



2時前にトイレ・ストップした時に、スルー・ドライバーのトニーさんを撮らせていただきました。
この日、彼が28歳と聞いたY添乗員さんは年上とばかり思っていた!と驚いていましたが、
いずれにしろ!若いスタッフ達に支えられて、旅も順調に終盤へと向かっていきました。



絵のような車窓風景

ミカンや蜂蜜を売る露店

バチナ湖

ネレトヴァ川

ビオコボ山脈(最高峰1762m)に沿ったドライブ途中に、淡水のバチナ湖を見下ろす場所で写真ストップ、
山側の景色を眺めたり、ミカンの露店を覗いた後、バスに乗ると間もなく、車窓にネレトヴァ川が見えて来ました。



ネレトヴァ川河口に広がるデルタ地帯は平地が少ないダルマチア海岸の貴重な耕作地で、
クロアチア国内屈指のかんきつ類の産地となっています。
パッチワークのような灌漑農地の中の丸い池(左写真)はGood Luckと呼ばれる天然の泉です。



3時50分頃、9kmだけ海岸線を持つボスニア・ヘルツェゴビナの国境を通過、
ネウムのドライブ・インでのストンの塩、クロアチアのチョコレートなどのお土産買物の時間を入れても40分で、
再びクロアチアに入国しました。



車窓に見えるペリェシャツ半島は良質のワインの産地であり、製塩と牡蠣の養殖でも有名な地域です。
5時15分に2008年に完成したトゥジマン橋(クロアチア初代大統領名)が見え、写真タイムが取られましたが、
518mのこの橋によって、ドゥブロヴニクまでの道が45分間も短縮されたそうです。


5時半にホテル・ドゥブロヴニク・パレスに到着

部屋のバルコニーから夕暮れの景色が見られましたが、高く伸びた木が視界を少しさえぎっていたため、
掲載写真はズーム、トリミング駆使・・・となりました。




6時45分にロビーに集合して、バスでレストラン「KOMIN」へ夕食に出掛けました。
この夜のメニューは、シーフード・スパゲティと今回のツアー・キャンペーン2つ目のロブスターでした。


シーズンが終了間際という小さ目のロブスターながら、炭火の焼きたてはとても甘く、美味でした。
8時半にホテルへ戻り、旅の8日目も、このように、申し分なく暮れて行きました。


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