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17 Oct.2011
Dubrovnik


紀元前のイリリア人、ギリシア人に遡る歴史を持つドゥブロヴニクがスラブ人に侵略された7Cに、
追われたローマ人が岩礁の小さな島に住みついたのがドゥブロヴニク旧市街の始まりです。
島生活の水や食料の不足を補うために、金銭交渉によって陸側のスラブ人との間に友好関係を築き、
やがて島へのスラブ人の移住も始まり、12Cに双方を隔てていた海峡を埋め立て、周りを約2kmの市壁でとり囲み、
ローマ人はラグーサ(=潟)、スラブ人はドゥブロヴニク(ドラヴォ=森に由来)と呼ぶ街が造られていきました。

ビザンチン帝国の保護を受けた自由貿易都市として発展したドゥブロヴニクは、
9Cにはイスラムの15か月に及ぶ攻撃に耐え抜き、13~4Cにヴェネツィアの支配下に入った後、
1418年にクロアチア・ハンガリー連合王国によってラグーサ共和国として独立が承認され、
ハンガリーやオスマン・トルコとも巧みな外交政策で自治、独立を維持しつつ東西中継貿易の拠点として繁栄し、
15~6Cに黄金期を迎えますが、大航海時代に入り、地中海貿易が衰退したことや、
1667年の大地震で壊滅的な被害を受けたことなどによって国力は衰退の途を辿り、
1808年のナポレオンによる共和国解体後、オーストリア、フランス、英国、ロシアなどの干渉下に置かれ、
20Cには旧ユーゴスラビアの地方都市としての現代史を紡ぐことになりました。

ドゥブロヴニクの歴史で最も厳しく悲惨な試練が、クロアチアが独立した時に起きた1991~2年の内戦で、
街の70%以上が破壊されてしまいますが、10年はかかると見込まれていた再建は、
国内外の修復の専門家や技師、多くの市民ボランティアによって奇跡的な早さで進められ、
1994年には危機遺産リストから外され、 1979年に登録された世界遺産指定を再び取り戻しています。



ドローレスさん

この日のガイドはヴェネツィアからサラエボまでのスルーガイドで、ドゥブロヴニクに住むドローレスさんでした。
Y添乗員さんが初めてこのコースを添乗した10数年前以来、2度目のコンビということで、
各地の現地ガイドやレストランとの連絡、グループの安全確認など、Y添乗員さんをサポートし、
とても息の合ったお仕事を見せてくださいました。

8時15分にホテルをバスで出発し、街の全貌が見渡せるビューポイントで写真タイムを取り、
市壁に囲まれた旧市街とまわりへ発展していった新市街の様子を俯瞰してから旧市街へ向かいました。



ロヴリェナツ要塞

ピレ門

旧市街の西のパーキングで下車し、街の西部で守りを固めていたロヴリェナツ要塞を見た後、
ピレ門から旧市街へ入って行きました。
ロヴリェナツ要塞の壁には「自由はあらゆる黄金をもっても売るは正しからず」という市が信条とする碑文が
彫られているそうです。




ピレ門を守る聖ヴラホ(英語名:ブレーズ)は、キリスト教最後の弾圧期4C初めに殉教したトルコの司教で、
喉に魚の骨がささった子供を救ったことから、病気、とりわけ喉の病の聖人とされ、
972年にドゥブロヴニクの聖職者の夢に現れ、ヴェネツィアの襲来を告げて街を救って以来、
ドゥブロヴニクの守護聖人とされています。
ラグーサ共和国時代にはピレ門(1537年建造)へ入る橋は巨大な鎖で開閉する跳ね橋となっていて、
夜間には街は厳重に閉鎖されたと言われます。


左:救世主教会  右:フランシスコ会修道院

オノフリオ大噴水

旧市街へ入ると、10km以上離れたスルジ山の北側を水源とし、今も市民の水飲み場となっている
1438年にナポリの建築家オノフリオによって造られたオノフリオ大噴水がありました。
左手には1667年の大地震の被害を免れた1520年建造のルネサンス様式の救世主教会、
隣接して14Cに建てられたフランシスコ会修道院があります。




フランシスコ会修道院側面入り口のコルチュラ島のアンドリッチ兄弟によって1498年に彫られたピエタ像は
この修道院に残された唯一のオリジナル・ゴシック作品だそうです。


フランシスコ会の内部には素晴らしい柱頭彫刻を持つ2本の柱を組としたロマネスク・アーチが囲む回廊があり、
回廊の壁にはフランチェスコや奇跡譚を描いた未修復のフレスコ画が残っていました。



博物館

クロアチア最古のマラ・ブラーチャ薬局

修道院では美術品や宝飾品、古い印刷本などを展示している博物館、
クロアチア最古、ヨーロッパでは3番目に古いといわれる1317年開業の薬局を見学しましたが、
博物館の中の「A MISSILE SHOT 1991.12.6」と書かれた弾痕跡が強いインパクトを見せていました。
スルジ山から撃たれた2000発の砲弾中、修道院を直撃した50発の1つが後世への伝言として残されたようです。




回廊の壁に貼られた各国ゲストのサインの日の丸の下は「16.10.2002 清子」となっていました。
マラ・ブラーチャ薬局では蜂の巣から採った原料をベースにした万能クリーム「ゴールド・クリーム」が、
日本の雑誌でも紹介されたようで大人気、10個以上お買い上げのツアーメイトもいました。
オリジナル秘密レシピで造られた柑橘系の香りがする8.5ユーロの乾燥肌用クリームです。



12Cに海峡を埋めて造られた東西の門をつなぐメインストリート、プラツァ通り(別称:ストラドゥン)と
平行する南側のオドプチャ通りを東へ進むと、旧市街らしい街並みが続く中に、
内戦を伝える掲示物も見られました。
別の街に避難した人、街に残った人、様々な戦争体験がつい20年前になされた痛ましい記憶を留める街です。



住民の9割がローマ・カトリックと言われる街にセルビア正教会もありました。
入り口扉の外から正教特有のイコノスタシスや椅子が置かれていない内部をこっそりとカメラに収めながら、
対立した人々をも受け入れるドゥブロヴニクの長い伝統や奥の深さに触れた思いがしました。



さらに東に進むと、「何と素晴らしく 何と愛しく そして甘美なのだろう 自由とは、
全能の神の賜物 真理の源 我らが栄光の全て このドゥブロヴニクのただ一つの飾りなのだ」と詠った
自由の詩人イヴン・グンドリッチ(1588-1638)の銅像が立つ広場がありました。
グンドリッチ広場の朝市は午後には閉店するため、乾燥イチジクやオレンジピールなどこの地方の自然の恵みを
荷物が邪魔になることを承知の上で、少し買い込みました。



ネクタイ店のディスプレイ写真

ヨーロッパの30年戦争(1618-48)の時、フランスへ従軍したクロアチアの軽騎兵団が
若い男女の信頼の証しとして首に巻いたスカーフがパリの人達の間で人気となり、
CRAVATE(クロアチア風)と呼んで流行したのがネクタイの始まりと言われています。
2003年秋にプーラの円形闘技場を飾ったインスタレーションの写真を飾ったネクタイ有名店もありました。



続いて総督邸に行って、行政府、小評議会、裁判所、武器・弾薬庫、監獄など国の中枢機関が置かれた
ゴシック・ルネサンス様式の建物の内部を見学しました。
総督執務室に飾られたヨルダン川で洗礼を受けるキリストの絵や「自らのプライベートは忘れろ」と記した文字が、
総督としての厳しい心得を表し、任期は1ヶ月というドゥブロヴニク独特の政治形態による
現実的で巧みな外交政策が行われた歴史を物語っているようでした。
執務室の机には総督自らが開閉したと言われるペレ門の鍵も展示され、寝室など私室の他、
美しい調度品で飾られたレセプション室なども博物館として公開されていました。




独裁を避けるために個人像を造ることを禁じたドゥブロヴニクで、総督邸中庭に唯一立っている胸像は、
平民出身でありながら共和国への多大な貢献によって総督まで務めたミホ・プラツァト像です。


スルジ山裾野に広がる街の中心ルジャ広場

聖母マリア被昇天大聖堂

総督邸の北に隣接して現在は市庁舎として使われている大評議会の建物があり、
南側には聖母マリア被昇天大聖堂がありました。
第3次十字軍遠征の帰りに嵐に襲われ、ドゥブロヴニク沖のロクルム島に漂着して助かったリチャード獅子親王の
寄付によって建てられたと言い伝えられるロマネスク様式の大聖堂は1667年の大地震によって崩壊、
現在のバロック様式の大聖堂は1713年に再建されたものですが、
最近の調査では下の地層から7C建造の聖堂も発見されているそうです。



ビザンチン皇帝の王冠型のヴラホの聖遺骨入れ
(ガイドブックより転載)

この大聖堂の至宝は主祭壇に飾られたティツィアーノの初期の作品「聖母被昇天」の絵や
宝物館に収められた聖人の聖遺物入れで、ドゥブロヴニクの繁栄の時代を見せているようでした。



スポンザ館と時計塔

聖ヴラホ教会

街の中心のルジャ広場に面して、スポンザ館、時計塔、市庁舎、聖ヴラホ教会がありました。



左手にドゥブロヴニクの街を持ったヴラホの像はドゥブロヴニクの街の中に30体あるそうですが、
写真を切り取ってみると、真新しさが浮かび上がる聖ヴラホ教会の像でした。



ローラント像

オノフリオ小噴水

ルジャ広場の真中にイスラムと戦った伝説の騎士ローラントの1418年に造られた石像が立ち、
ローラントの右手の肘から手首までの長さ51.2cmが「ドゥブロヴニクの肘」と呼ばれて、
商取引の長さの単位の基準として使われたそうです。
市庁舎前には1438年制作のオノフリオ小噴水があります。



ミラノのマルティノブが装飾した小噴水


ルジャ広場でヴェネツィア様式の美しいアーチを見せているスポンザ館は、
かっては税関や造幣局、銀行が置かれ、現在は貴重な資料を集めた古文書館として使われています。
内部は修復中で見学することは出来ませんでしたが、
破壊されていく街、命を落とした街の人々の写真を展示した内戦の記録を残す入り口の一室は
ドローレスさんの案内で入ることが出来ました。
ドローレスさんご自身の体験は伺いませんでしたが、この展示は彼女からのメッセージとしても受け止めました。



ドミニコ修道院

時計塔の下を抜けて、ドミニコ修道院前を通って、ランチのレストランへ向かう途中に、
民族衣装を着て、伝統民芸品を作る女性が座っていました。(有名人らしいです。)



壁に貼られた内戦の跡を示す地図


レヴェリン要塞とプロチェ門

街の東のレヴェリン要塞とプロチェ門を抜けた先には到着した船の厳重な検疫が行われた場所があり、
汚染地域からやって来た人々はペストの潜伏期間40日を過ぎるまで島への上陸の許可が下りなかったそうです。
英語のQuarantine(=隔離)はイタリア語のクアランテーナ(=40日間)に由来すると言われます。
海を向けた置かれた大砲も、交易で生きて来た国の厳しい現実を彷彿させるものでした。


海に面したレストラン「EAST-WEST」



とても食べきれない量に見えながら完食したムール貝、新鮮なイカのグリル、パンナコッタ、
いずれも美味しく、この日も景色、お料理ともに満足したランチ・タイムでした。
イカに添えられているジャガイモと青菜を混ぜたものはダルマチアン・スタイルと呼ばれる副菜です。


午後の観光はドミニコ修道院から始まりました。
フランチェスコ会修道院が福祉にかかわったのに対し、ドミニコ修道院は主に教育を担っていたそうです。
15Cの見事なゴシック様式の回廊、石造りの井戸が見られる修道院は、
地元の画家による評価の高い祭壇画やティツアーノの「マグダラのマリア」などを収めた美術館で有名です。
写真撮影が許可された礼拝堂内は、内戦の被害が最も甚大だったレヴェリン要塞に接しているせいか、
新しい装飾が多く見られました。



        主祭壇          祭壇「聖ドミニコの奇跡」

旧港からアドリア海ミニクルーズに出発


同型の船に乗船


1時45分ごろ旧港を出発して海から旧市街を見上げながら、沖合700mに浮かぶロクルム島を一周しました。
ロクルム島には14Cのベネディクト会修道院跡があり、16Cには検疫所が置かれ、
19Cにはハプスブルク家のマクシミリアン大公が島を買い取った時のヴィラや城塞跡が残り、
現在は岩盤の上に常緑樹が茂る無人島ですが、夏には海水浴場として賑わいを見せるそうです。


完璧に防御されたドゥブロヴニクの街を海上から見ながら、のんびりと船に揺られていると
とても非日常的な気分になり、船乗りや海賊になったような童心すら誘われました。



45分間のミニクルーズの後、ドゥブロヴニク観光のハイライトの一つ、市壁の遊歩道散策を楽しみました。
13~7Cの間、絶え間なく補強が繰り返され、自由(=リベルタスという言葉が街の各所に刻まれているとか。)と
独立への強い意志の象徴と言われる市壁を東のレヴェリン要塞から時計と反対周りに1周しました。



 街の中心 -大聖堂・聖ヴラホ教会・時計塔・市庁舎・総督邸-


ミンチェタ要塞

ロクルム島遠望

スルジ山裾野に沿う市壁北側の最も高い場所に1464年に築かれたミンチェタ要塞があり、
さらに要塞の上からの街の絶景を楽しむことが出来ました。
この要塞の建築にはアドリア海沿岸の街で度々出会ったダルマティナッツも関わったと言われます。



フランチェスコ会修道院とプラッツァ通り

オノフリオ大噴水

午前中に歩いた場所を高所から見る面白さを味わいながら、旧市街のコンパクトさにも気付かされました。
一色に見える屋根の煉瓦も、近くから見ると、モザイクのように新旧入り混じっているのが分かります。



ボカール要塞から見たロヴリェナツ要塞

断崖カフェ

南側の海を見ながらの散策も解放感に充たされ、気持ちの良いものでした。
こんな所にと思う所にカフェがあり、海で泳ぐ人の姿も見られたどこまでも青い10月のアドリア海でした。



中心から少し外れると生活感漂う光景や、復興途中の様子も見られました。
現在、市壁内には2000人が生活しているそうです。
石の破片を集め、同じ石を探し、古い時代と同じ道具作りから修復を始めたという復興の話も残っています。


市壁カフェで一休み



1周1940mをゆっくり小1時間かけて散策、生のオレンジ・ジュースで小休止を入れました。
壁の高さ最高25m、厚さ3~6mの壁で街をぐるりと囲んだ類のない遊歩道散歩は素晴らしい!の一語でした。



手前:聖ヴラホ教会 奥:聖母マリア被昇天大聖堂

4時前に街へ降りてルジャ広場に集合後、希望者はY添乗員さんとスルジ山へ向かいました。
街の北側の長い石段を登って、プジェ門から城壁を抜けると、
内戦で破壊された後、昨年7月に再建されたスルジ山のケーブルカー乗り場がありました。



ケーブルカーは4分間で、あっという間に、標高412mのスルジ山の山頂まで運び上げてくれました。
元々はナポレオンが立て、オーストリアが引き抜いたという経緯を持つ山頂の十字架は、
内戦後に市民の忍耐と誇りのシンボルとして再建されたものだそうです。



一日を過ごした旧市街の全貌を眼下に見ながら、人々の力によって蘇った「アドリア海の真珠」と讃えられる
街の魅力を再確認する思いでした。
住居の真上、至近距離を上下するケーブルカーも、余り類を見ないものかもしれません。



この日のフリーの夕食はTさんが予約されたお店にU夫妻とご一緒することになっていましたので、
待ち合わせの6時までの1時間足らずを、14C末にスペインを追われたユダヤ人が住みついた地区の
ジュドイスカ通りにあるシナゴーグを覗いたり(中には入らず)、夕暮れの街散策をしながら、
クロアチアの通貨クーナを使い果たす小さな買物をして過ごしました。




旧市街の中のレストラン「PROTO」では野菜のポタージュ、野菜グリル、牡蠣のパン粉焼き、
スカンピ(手長海老)のワイン煮を選びました。
本当はマリ・ストンの生牡蠣!と行きたかった所ですが、ツアー途中のこと、万一の不調を考えて諦めました。




お料理に合わせたのはペリェシャツ半島の赤ワイン、ディンガチで、値段も味も今回のツアー最高品で、
思い出深いドゥブロヴニクの夜を味わいました。



8時15分にピレ門前のパーキングに外で食事をしたツアーメイト達が集合し、
トニーさんのバスの出迎えを受けて、ホテルへ戻りました。
明日はクロアチアと別れて、ボスニア・ヘルツェゴビナへと向かって行きます。


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