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7‐8 June 2010
Sofia〜Munich〜Narita

セントラル・ハリ(中央市場)

帰国の日はバッゲージ・アウトが9時45分、ホテル出発が10時半でしたので、
朝食後、1時間半ほどソフィアの街を散策しました。

到着した翌日に行った中央駅とは反対方向にマリア・ルイザ通りを南へ向うと、
20C初頭の最先端の建築資材である鉄とガラスを使用して建てたセントラル・ハリがありました。
日常の生鮮品などの露店市場は少し北側の広場に出ていて、
この立派な吹き抜けホールのある中央市場は観光スポットの趣きもありました。


バーニャ・バシ・モスク 旧ハマム

セントラル・ハリの向い側のバーニャ・バシ・モスクは露土戦争の破壊を免れたトルコ建築物のひとつで、
この辺りが大きなバーニャ(Bath)・コンプレックスであったことが名前の由来とされています。

オスマン帝国の絶頂期であったスレイマン大帝の時代に、
イスタンブールのアヤ・ソフィアの大ドーム内部の光あふれる空間の再現に挑戦し、
中央の大ドームの圧力を下部の小ドームで分散させる技法を考案したミマール・シナン(1495−1588年)が
生涯に建築した81棟ほどのモスク中のひとつがこのバーニャ・バシ・モスクで、
1576年頃に造られ(スルタンの宮殿のように美しいモスクを見たという1533年の旅行記も存在するようです。)
2001年に修復されたこのモスク周辺は人口の1割を占めるトルコ系住民が多く住む区域となっているそうです。

その東側の建物は昔のハマム(トルコ式風呂)を博物館やスパ施設として修復したものらしいですが、
既に営業を始めているかどうかは分りませんでした。(2009年のガイドブックでは未開業)


聖ネデリャ教会 シェラトン・ソフィア・ホテル前

更に南の聖ネデリャ教会へ行く途中、聖ペトカ半地下教会へもう一度寄りました。
先日、入口で乳香を売っていたのを見掛けたものの時間切れで入手できず、再挑戦したのですが、
目につく所にはなく、「ミトラは没薬、乳香はフランキンセンス・・・?」とつぶやきながら、
手で風を起こして匂いをかぐ素振りをすると無事、引き出しから取り出してくれ、
たった1レヴァ(60円)ながら、うれしい買物となりました。

かってはレーニン広場と呼ばれたソフィアの中心部、聖ネデリャ広場に建つ聖ネデリャ教会は
アレクサンダル・ネフスキー教会が出来る20C初頭まではソフィアの主教座が置かれた教会ですが、
1925年4月16日に葬儀に参列していたボリス3世国王や政府閣僚を狙った爆発物テロによって
128人もの市民が犠牲になった歴史を持ち、事件後に建て替えられたものだそうです。
通勤の人達が足早に行き交う聖ネデリャ広場の一角にシェラトン・ソフィア・ホテルもありました。




来た道を戻って、9時から見学が出来るセントラル・ハリ西側のシナゴーグへ寄りました。
1909年にオーストリア人建築家によって建てられ、昨年100周年を迎えたバルカン半島最大のシナゴーグは
ビザンチン様式で造られ、ヴェネツィア製のシャンデリアや大理石の柱、壁画、床のモザイクなど、
落ち着いた色合いが美しいハーモニーを見せているユダヤ教会でした。



イスラムでは女性が髪の毛を隠しますが、ユダヤ教では男性がキッパーというものを被り、
頭を隠すことによって、神に対する謙遜の意思を表すのだそうで、
入口に見学者用キッパーが用意されていました。

9時半にホテルへ戻り、スーツケースを出してしまうと手持ち無沙汰になりましたので、
レヴァ使い果しの買物にホテル内のショップへ行き、バラのアロマ・キャンドルを二つ購入しました。



10時半にホテルを出発、現代的な都市化が進むソフィアの街を車窓に見ながら、
30分足らずで空港に到着しました。

ミュンヘン行きのフライトまでの時間は「空港のお店は高い!」とブルガリア土産の確認をしたり?
N添乗員さん手作りのお赤飯のおむすびをいただいたり、配られたW航空の旅パンフレットを
眺めて過ごしましたが、少しイランの質問をしたら、「お席をお取りしておきます」と
営業熱心な?N添乗員さんでした。

1時10分ソフィアを経ち、2時間ほどでミュンヘン空港に到着、1時間時差を調整して、
15時45分発成田行きのルフトハンザ機の出発までには30分余りの余裕しかありませんでしたが、
チョコレートなど予定のお土産菓子をばたばたと購入して、
(結果、スペイン、ベルギー、フランスなど、どこへ行って来たの?というお土産になってしまいました。)
機内に入ると、オーバーブッキング多発のようで、険呑な空気すら流れていましたが、
無事おさまりがついたようで、30分ほど遅れてミュンヘン空港を飛び立ちました。
ウェブ・チェックインの落とし穴があったのかもしれませんが、ともあれ、往復とも満席と思われた
ルフトハンザ航空の成田線は、この後、間もなく総2階建ての新しい機種が就航した模様です。



夕方7時過ぎと成田着陸2時間ほど前に出された機内食です。
食欲を唆られず、ブルガリアで溜め込んだ脂肪を落とすには格好のダイエット・タイムでした。


ロシア上空 成田空港

西日が入るため、ほとんど下ろしていたブラインドをそっと上げると太陽が沈む所で、
ナイス・タイミングとばかり写真を撮ったのですが、その後、同じ光景が延々と続き、
しばらくして、ようやく北の国が白夜の季節だということに気付きました。

30分遅れて出発して、成田には40分早く、9時半過ぎに到着というハイスピードな帰路でした。
梅雨空の中、10時45分のリムジンバスで新宿に出て、お昼頃に帰宅、12日間の旅に幕が下りました。

ブルガリアの旅レポートが終りに近付いた7月14日の朝日新聞に、
−「バラの谷」苦境−という記事が掲載されていました。
一昨年の金融危機やギリシアのユーロ危機の影響でローズ・オイルの需要が落ち込んだ上に、
多雨という気象条件、人手不足など問題が多発し、「右肩上がりで成長してきたこの10年で初めての危機」が
バラの谷にもたらされているそうです。

日本の3分の1の国土に771万人が住むというブルガリアをわずか10日間周遊しただけですが、
20Cには取り残されていたかのような印象を受けるブルガリアが、
実は豊かな歴史と文化と風土を持った国であることを知ることが出来て、
先進国に狙われる資源を持たなかったこと、ソ連と国境を接していなかったことが、
もしかしたら、「神様がくれた国」の幸いだったのかもしれないと思われました。

 高度成長期に入った21Cのブルガリアが、早いスピードで変貌して行くとしても、
  「バルカンの原風景」は残し、引き継いでほしい地球遺産だと思いつつ、
        美しい国に出会え、心充たされた旅レポートを終えました。  (2010.7.16)


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