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18 Dec.2010
Esfahan


イスファハンの街を東西に流れるザーヤンデ(=生命を生み出す)川は、
ザグロス山脈を水源とし、イスファハンの東100kmほどの地点で沙漠の中に消えてしまうイラン最大の川です。
このザーヤンデ川が穏やかな景観を作り出している沙漠地のオアシス都市イスファハンは、
アケメネス朝から存在していた町に7Cに侵入したアラブ人がセパーハン(=駐屯地)と呼んだことに由来し、
11〜12Cのセルジュク朝に地域の中心都市として発展、
サファヴィー朝5代目のアッバース1世(在位:1588-1629)が首都を置いたことによって、
人口50数万人の世界有数の高い文化的水準を持った大都市として繁栄を極め、
「Esfahan Nesf-e Jahan」(イスファハンは世界の半分)と謳われた街です。



宿泊したザーヤンデ川に面したコウサル(=幸福)・インターナショナル・ホテルは、
イラン革命後(1979年)に経営を変えた元シェラトン・ホテルでした。


装飾美術博物館 自然史博物館

ホテルを9時に出発し、ザーヤンデ川を北側へ渡り、街の中心部オスタン・ダリ通りでバスを降りて、
並んで建つ博物館の前を通ってチェヘル・ソトゥーン宮殿へ行きました。



1647年にサファヴィー朝のアッバース2世(在位:1642−1666)が迎賓館として建てたチェヘル・ソトゥーン宮殿は、
20本の柱(h15m)が池に映って「40の柱」に見えることに名前が由来しています。
林立させた柱の上に平天井を架け、三面を吹き放した空間「タラール」と池が見事に調和して、
優美な佇まいを見せていました。




池の4隅に置かれた政治、経済、文化、宗教を表すという大理石の像は
女性がライオンの頭を持った不思議な図柄がビニールの保護カバーの下に透けて見えました。



ミラーホール

宮殿が造られた時代は柱材と同じスズカケの木をイタリアへ輸出、代わりにベネチアン・グラスを輸入し、
柱の表面や入口ホール、カーテンまでにもミラーワークを施していたそうです。
 イタリアからラクダに乗せて運んだ時に割れた鏡の活用法として考え出されたと言われるミラーワークが、
ペルシアやインドの工芸品や聖者廟の万華鏡のような装飾へと受け継がれたのかもしれないと思われました。


インドとの戦い アッバース1世に援助を乞うクルジスタン王

現在は博物館として使われている宮殿内部のホールにはインドやトルコとの戦いや
援助を乞いに来た諸国王との宴会などの細密な歴史画がありました。
このインドとの戦いの時、勝利品として持ち帰ったのが現在テヘランの国立宝石博物館に収蔵されている
182カラットのダイヤモンド「光の海」で、同時に手に入れた「光の山」は歴代のシャーから東インド会社を経由して、
ビクトリア女王の手に移り、現在は女王冠を飾っているそうです。



壁を埋め尽くすばかりにアラビアン・ナイトの世界のような絵も描かれていましたが、
「千夜一夜物語」は「ハザール・アフサーナ」(千の物語)というペルシア起源の話のアラビア語訳を基に、
8Cから12Cにかけて変化、形成された説話集と聞くとペルシアにあって不思議でない図柄です。

陶器や金属製品などを飾ってある部屋も覗いた後、10時にチェヘル・ソトゥーン宮殿を後にして、
アッバース1世が行った都市整備によってチェヘル・ソトゥーン宮殿の庭園とつながっていたという
王の広場(革命後にイマーム広場と改称)へ歩いて向いました。


西側アーケード シェイク・ロトフォッラー・モスク
ゲイサリエ・バザール入口 イマーム・モスク

広場手前でのトイレ休憩時間にN添乗員さんに断って、一足早く西側のアーケードを抜けて王の広場へ行くと、
正面にシェイク・ロトフォッラー・モスク、左手にゲイサリエ・バザール入口、
右手の逆光の中にイマーム・モスクなどアーチ式回廊で囲まれた建物が目に飛び込んで来ましたが、
本当の魅力に出会うのは、近付いて、中に入り、細部をゆっくり見てから・・・と後になって知ることになりました。

アッバース1世が1589年に建築に着手、政治、経済、文化、宗教を集約し、数十年かけて完成した広場は
栄華の時代を充分に留めていて、ペルシア建築の完成形であると賞讃されています。
各国から人々が訪れ、ポロや演劇、軍事パレードなどが繰り広げられた510m×163mの広場には、
1979年(革命の年・・・)に世界遺産に登録された後に池が付け加えられたそうです。



広場で最も王の威光を表しているマスジェデ・イマームを最初に見学しました。
1612年に建築が開始されたモスクは完成までに25年を要し、
建築を命じたアッバース1世はモスクの完成を見ることなく1629年に逝去したそうです。
高さ48mのミナレットを持つ正面イーワーンは複雑なタイルの組み合わせのムカルナス(鍾乳石飾り)が
人間技を超えているように見え、神秘的な美しさに圧倒されるようでした。


 

イーワーンの壁は左側にはモザイク・タイル、右側には絵付けタイルが使われていて、
「完全なものを造るのは神のみ」ということを意味するとアリーさんの説明がありましたが、
工事を急ぐために絵付けタイルを用いたという説もあるようです。



モスクに入るとシーア派モスクの特徴といわれる水甕が置かれていて、
シーア派を国教と定めたサファヴィー朝が、
水を断たれて殉教していったホセイン達へ哀悼の意を表わしているのかもしれないと思われました。
右写真の大小の菱形のモチーフは上がアッラー、下がムハンマドを表す「生命の木」と呼ばれる図柄だそうです。




メッカの方向に合わせて正面イーワーンから45度右に曲げて造られた4つのイーワーンで囲まれた中庭には
礼拝用テントが設置されていて、チャハル・イーワーン形式と呼ばれるペルシア独特の
モスクの建築構造を見ることができなかったのは残念でした。



中央礼拝堂の中庭を左手に抜けると17Cに増設された冬の神学校がありました。
黄色を主体としたタイルは、電気がなくオイル・ランプを使っていた時代に室内を明るくするためで、
神学校の中庭から見えた中央礼拝堂の堂々としたドームやミナレットは、
全体をタイルで覆わないことによって、さらにタイル装飾を引き立たせる効果を持たせていると言われています。



夏の礼拝室も19Cに宮殿から持ち込んだといわれる黄色のタイル使いが特徴的でしたが、
イスラム建築の中にあって、動物柄のタイルが異彩を放っていました。



ハフト・タンギー(7彩タイル)で装飾された中央礼拝室のドーム天井は、
ちょうど差し込んだ光が宇宙を思わせる壮大な美しさを演出して見せてくれました。
1枚のアラバスターから掘り出した12イマームに因む12段のミンバルも飾られていました。


  

外側54m、内側38mと2重構造になった天井と、床中央に設置された7枚の石の微妙な高さの違いによって、
時には20回も反響するという中央礼拝室の音響効果は比類ないもので、
アリーさんがはじいた紙幣の音、ローカル・ガイドのマジェットさんのコーランを詠じる声が
堂内にエコーのように響き渡った時は驚嘆の一語しかありませんでした。


 

中央礼拝室を出て右手の夏の神学校で、底に小さな穴が開けられたオイル時計や
三角形の石がメッカの方向を示すという日時計を見学した後、
11時過ぎにマスジェデ・イマームを出て、12時半までフリータイムが取られました。





フリータイムの計画のなかった私は、先ずはアリーさんについて、細密画やトルコ石のお店を見学しましたが、
価格もさることながら、入手には心を動かされず、見るのみとなった伝統工芸品でした。



ガラム・カール(ペルシア更紗)
銅細工

アリーさん達と別れた後、ツアーメイトの数人と広場回廊のバザールに軒を連ねる
工芸品店やお土産店を覗きながら歩いていると、
シラーズのコーラン門で出会った若者にばったりと出会い、懐かしい‘再会’写真を撮りました。
まだ1年ほど旅を続けると言っていた‘はねさん’は今頃どこの国を歩いていらっしゃるのでしょうか、
無事な旅を祈るばかりです。


  
   この日の買物:ガラム・カールのテーブル・クロスとピスタチオとイスファハンのお菓子「ギャズ」

  



12時半にフリータイムを終えた後のランチは結婚式料理チキン・タージンやスグリのゼリーでしたが、
味よりも孔雀やオウムを飼っていたレストランの不思議な雰囲気の方が強く印象に残っています。



2時にレストランを出て、アッバース2世によって造られたハージュ橋(別名:シラーズ橋)へ行きました。
1666年に完成した長さ133m、幅12mの2層構造の橋は上層は王朝の高官達、
水量を調節する水門の役割も持っていた下層を庶民が使用、今もタイル貼りの美しい模様が残っていますが、
昔は金箔まで使ったきらびやかな姿を見せていたそうです。


 

ここでも又、撮りつ撮られつの光景が見られました。
10C頃の墓に使われていたという口の中に人間の顔が入った奇妙なライオン像は、
今ではこれをまたぐと早く結婚できるという有難い像?として市民に親しまれているようです。



ヴァーンク教会と鐘楼
ヴァーンク教会入口

次に向ったのはアッバース1世が街の建設や貿易のために強制移住させたアルメニア人の子孫が住む
ザーヤンデ川南側のアルメニア人居住区で、アゼルバイジャン国境近くの彼らの出身地に因み、
ジョルファーとよばれる地区のヴァーンク教会(1655−64年建築)でした。
現在13のアルメニア教会が点在するジョルファー地区で最も観光客に開かれているというヴァーンク教会は、
壁一面を覆う旧・新約聖書の物語、聖グレゴリウスの布教の物語などのフレスコ画を、
金を多用した唐草模様でつないでいて、ペルシアの雰囲気も持っているキリスト教会でした。
フレスコ画がオリジナルという内部の写真撮影は禁止されていましたが、
アリーさんのお勧めで?入口ドアの所からそっと数枚の写真を撮らせていただきました。



ヴァーンク教会正面
博物館入口

教会に向き合って、印刷機とアルメニア文字を創ったアルメニア人の2人の像が建つ博物館がありました。
1階には「OUR LORD’S」と祈りの言葉が書かれた0.7グラム、14頁の世界最小の聖書や
アルメニアの聖書、聖書の言葉が書かれた髪の毛、最後の晩餐の板絵、
レンブラントのアブラハムのデッサン、1841年製作の印刷機、陶器、民族衣裳などと共に、
各時代の王名で発行されたイスファハンへの移民命令書やトルコのアルメニア人大虐殺の記録が展示され、
大国に囲まれた小さな国の民族の歴史と誇りを伝えていました。
2階にはタイル、絨毯、楽器、コインなどの他、アルメニア人の墓石からとったミニアチュールも飾られていました。



最後に寄ったササン朝の橋をサファヴィー朝に改修、増築したイスファハン最古のシャハレスターン橋は、
工事によって水路が変えられため、池のように静かな水面に立つ長さ100m、幅4.6mの石橋でした。

5時前にホテルへ戻った後、Mさんのお誘いもあって、絨毯屋さんへ出掛けることにしましたが、
5時15分にホテル・ロビーに集まったのは3名だけでしたので、
アリーさんがタクシーで案内して下さることになりました。


  

イスファハンのメインストリートのチャハール・バーゲ・アッバシー通り(多分・・・)に面した絨毯屋さんでは、
次々と製品が広げられるお馴染みの光景が繰り広げられました。
興味のあるファールス地方のトルコ系遊牧民、カシュガイ族が織ったギャベは1枚だけありましたが、
サイズ、色柄ともに我が家にはフィットしないものでしたので、購入は見合わせました。
右端はいかにもシルク!という美しい光沢を見せているMさんお買い上げの絨毯です。


  

6時半にホテルへ戻った後、7時に再びバスに乗って、イマーム広場近くのレストランへ行きました。
チキンのザクロ煮という甘酸っぱい煮込み料理をチェロウにかけた珍しいメイン・ディッシュや
頼りない色合いながらすいか(トマトの下に写っています。)が意外に甘くて美味しかった夕食でした。


イマーム広場
ハージュ橋

イスファハンの前半の一日はイマーム広場とハージュ橋の夜景を堪能して締めくくられました。
このような時にコンパクト・カメラの実力に情けなさを感じますが、
ライトアップされた幻想的な美しさを何とかお伝えできているでしょうか・・・。
素敵なペルシアン・ナイトでした。


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