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19 Dec.2010
Esfahan




朝食後、7時半頃からスィー・オ・セ橋まで散歩に出掛け、通学、通勤に向かう人々と挨拶を交わしたり、
川辺りでマガモやコサギを眺めたり、40分程のんびりとした朝のひとときを過ごしました。



マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)入口

9時にホテルを出発し、イスファハンで最も古く由緒あるモスク、マスジェデ・ジャーメへ行きました。
マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)とバザールがセットになって発展した旧市街は、
他のイスラム国と似た雑然とした街並みが特徴的でした。
モスク入口にあった動物の侵入禁止という鎖は、ラクダには有効でも、犬や猫には・・・?
飼い主へのアピールということなら、文字看板より余程スマートな印に見えました。


主のイーワーン(南側) 右手・・・師のイーワーン(西側)
右手・・・托鉢僧のイーワーン(北側) 弟子のイーワーン(東側)

モスクに入るとイラン最古というチャハル・イーワーン形式の中庭を見ることができました。
4分割というペルシアの伝統的なモスク建築は、写真も4分割せざるを得ませんでしたが、
回廊に囲まれた76m×65mの中庭の威圧感のない空間は安定感があり、心地良さが感じられました。
「すべての人に開かれたモスク」を意味して主、師、托鉢僧、弟子と名付けられた4つのイーワーンは、
夏(南)、春(西)、冬(北)、秋(東)の季節も表わしているそうです。


 

イランのモスクでよく見られたミナレット頂部の手の形の飾り物は、ムハンマド、初代イマーム・アリー、
ムハンマドの娘でアリーの妻ファティマ、2代イマーム・ハッサン、3代イマーム・ホセインを表していて、
「ファティマの手」をお守りとしているマグレブの国々とは意味合いが異なっていました。
スンニ派が1日に5回礼拝するのに対し、1日3回というシーア派は礼拝の時、
ホセイン殉教の地カルバラの土で作った、または人間は土へ帰るという意味を持つと言われる
モフルと呼ぶ額を載せる陶片を床に置きます。
集団指導者の系譜の正統性をめぐる見解の相違だけで、根本な教義に対立はないといわれる両派ですが、
細部にはいろいろ違った作法見られるようです。




ゾロアスター教寺院のあとに8Cに創建されたモスクは、一度焼失後、12Cに再建、
17Cまで増改築が繰り返されたため、様々な時代の様式を随所に見ることができますが、
最初に入った12Cの図書館は林立する模様の違う煉瓦の柱が重厚な雰囲気を造り出し、
ペルシアで発展したムカルナスの他、右端のようなスペイン、マグリブ由来のアーチ・ネットの天井ドームが
イスラム世界の広がりを物語っていました。  (「世界のイスラーム建築」深見奈緒子著・講談社現代文庫)
奥にはイラン・イラク戦争でミサイルが撃ちこまれ、修復された箇所も見られました。



南側の主礼拝室はサファヴィー朝のタイル等で美しく装飾されていましたが、
13Cの日干し煉瓦がむきだしになっているミフラーブもありました。



西側礼拝室にはイランで最も美しいと言われる14Cティムール時代の漆喰装飾のミフラーブや
細かいアラベスクや唐草文様が彫られた右14C、左15Cの木製ミンバルが並んでいましたが、
現在は美術品として保存されているようです。
次に15Cの暗さを体験するためにと電気が消された真っ暗な部屋に入って行きましたが、
照明が点けられた時、目に飛び込んで来たのは、アラブのテント型といわれるユニークな礼拝室でした。
天井から自然光が入り、夏涼しく、冬暖かい構造になっている現役の礼拝室でした。



光を取り込むアラバスター窓や煉瓦造りのアーチが連なるイル・ハン、ティムール時代の礼拝堂も見学し、
華麗なタイル貼りとはまた違った重厚な味わいや建築技術の高さに触れることができました。





モスク見学後、30分ほどのフリータイムは中庭の写真を撮ったり、バザールを覗いて過ごしました。
周辺には衣料関係のお店が多く、チャドル用の布店と並んで驚くほど派手な女性用衣類や、
イランではご法度とガイドブックには出ているネクタイをつけた男性用スーツも売られていました。
バザールや小路が入り組んだ旧市街は現在、地下道(自動車道?)を建設中で、
モスク周辺もイマーム広場のように整備する計画があるそうです。



バスに乗って、11時過ぎにハシュト・ベヘシュト宮殿に到着しました。
イマーム広場の西南に位置するシャヒード・ラジャーイ(=ナイチンゲール)公園のハシュト・ベヘシュト宮殿は
サファヴィー朝のソレイマーン(在位:1666−1694) によって1669年に建てられた王妃用の宮殿です。



8つのパラダイスを意味するハシュト・ベヘシュト宮殿は、8角形のホール、8部屋など8をキーワードとする
8代目王によって造られた優美な宮殿でした。





宮殿の内外にパラダイスをイメージした鳥や動物の図柄が見られ、偶像崇拝禁止のイスラムにおいても、
ササン朝以来の伝統を引き継ぎ、宮廷文化を謳歌したサファヴィー朝に見えますが、
アッバース1世の後の王達が政治に無関心であったため、王族の腐敗が進み、
宦官達に実権を握られたサファヴィー朝は1722年にアフガン軍によってイスファハンを占拠されて崩壊、
   200年余りの王朝の終焉を迎えたそうです。   (「物語 イランの歴史」宮田律著・中央公論新社刊)
アルコール中毒であると言われたソレイマーンが籠りっきりになって隠遁生活を送っていたハーレムと思うと
別の側面が見えてきそうな宮殿ですが、今は市民の憩いの場所となっているようです。

                


宮殿を出て、ジョルファー地区のランチ・レストランへ向かう前に「鳩の塔」で写真タイムがありました。
これはエジプトのような食用の鳩小屋ではなく、鳩を集めることによって糞害を防ぎ、
糞を肥料として使うという興味深い着眼を持った建物でした。





「ペルシア湾でとれた」などとしか表現されないことの多いイランで、初めて「シュリデ」と種名を聞いた
魚のフライがメインで、大きな豆のサラダやデザートのアイスクリーム、チャイに満足したランチの訳は・・・・。




多分、「シェヘラザード」というレストランが高級だったのだろうと思われます。
千一夜、王に話を紡いで聞かせたシェヘラザードにまつわる絵が壁一面に描かれていたレストランは、
目にも楽しく、味もよく、地元の人達でも賑わいを見せていました。


 
シェイフ・ロトフォッラー・モスク

午後訪れたイマーム広場は、抜けるような青空の下とはいきませんでしたが、
昨日の午前、夜とは違った色を見せていて、3度訪れても全く飽きることがありませんでした。
広場の東に位置するシェイフ・ロトフォッラー・モスクはシーア派の教えをイランに広めたレバノン出身の説教師、
ロトフォッラーを記念してアッバース1世が1602年に着工、1618年に完成した王族用のモスクで、
アッバース1世の妻達(4人の妻の1人はロトフォッラーの娘)が向い側のアリー・カプ宮殿から地下道を通って
礼拝堂へ通ったことやベージュと青を基調とした優しい色合いから「女性のモスク」とも呼ばれています。



イーワーンから中に入り、入口から45度曲げた黄色いタイルを多用した美しい廊下を抜けて、
さらに直角に折れると、イマーム・モスクと同じくメッカの方向に向いた礼拝堂があります。


礼拝堂の壁面は天井に向かって8角、16角とタイル装飾で整然と区切られていて、
その上のドーム天井には奇跡とも見える技が仕掛けられていました。
「天国へ行く鳥」といわれる孔雀が羽を広げたようなタイルワークに、
ちょうど尾の形をした光が差し込み、その神秘的な美しさには息を呑むようでしたが、
頭はメッカの方向である西南を正確に向き、少し移動しただけで、
尾の光が消えて見えなくなってしまうという仕掛けには言葉をなくすようでした。
サファヴィー朝の最高傑作のひとつと数えられる全く未修復のモスクには
金張りではないのに光があたると金色に見える日干し煉瓦など、
現代の建築家からも謎とされる建築技術が各所に秘められているそうです。



イマーム広場の西にある美術大学の学生と思われる若者グループにも出会いましたが、
細身のパンツの流行など、都会の若者達にはどの国にも共通した雰囲気が見られます。



右側の男の子のスケッチ

  

広場西側のアリー・カプ宮殿は15Cのティムール時代の建物にアッバース1世が2階を増築、
さらにアッバース2世が正面バルコニーや3〜7階の建物を付け加えたイラン最古の高層建築です。
シーア派がムハンマドの正統な継承者とする初代イマーム、アリーの遺物を
アッバース1世が扉に納めたことがアリー・カプ(大きな門)の由来とされ、
西側の王宮地区への門であったと共に迎賓館としても使われていた建物です。


正面テラスからの展望

門の通路を抜け、小さな声が3階まで届き、警備チェックに使われたという反響の良い壁の脇から階段を上り、
バルコニーから王達と同じアングルの広場の景観を楽しみました。
右写真にはイスファハン最大といわれるアリー・モスクの巨大なミナレットが写っていますが、
ミナレットは礼拝の呼びかけだけではなく、キャラバン隊にとって道しるべの役割も持っていたと言われます。
その左手に金曜日のモスクもかすかに写っています。



ガイドさん達と記念スナップ

最上階の「音楽の間」の楽器や壺の形の透かし細工を施したムカルナスは、
吸音のために漆喰で造られ、音響効果を高めるためにガラスや陶器がはめ込まれていたと言われます。
落ち着いた色合いも素晴らしく、どちらを向いてもため息が出るような美しさでした。
部屋の上部の小さな窓は女性用の観客席だったそうです。



白い漆喰で塗り籠められたり、修復されたり、様々な時代を経た痕跡を残す細密画は、
西洋風あり、東洋風ありで、イスファハンの国際性を物語るものでした。


青空がないのが残念・・・

3時から1時間ほどのフリータイムの前に全員で馬車に乗りましたが、
広場を2〜3分で半周しただけで、王侯気分に浸るには至りませんでした。




異国情趣のあるお土産を見つけたいとバザールを1人で歩き、
休んでいるお店も多い午後、バックギャモンに興じる人達をカメラに収めたりしながら
中蓋にも絵を描いてあるラクダの骨で作った小さな箱とアラベスク模様の飾り物を購入しました。
「そっちのお店は高いよ」などと内部争いも?ある中で、
ともあれ、何かを待っている孫達への形がついてやれやれという所でした。





ホテルへ戻る前にアッバーシー・ホテルのチャイハネでティータイムが取られました。
サファヴィー朝ソルターン・ホセイン(在位:1694−1722)の母が自身が建てた神学校の財源確保のために
経営したキャラバンサライを基とするアッバーシー・ホテルはイスファハンの最高級ホテルのようですが、
部屋の格差が大き過ぎるためにツアーでは利用しにくいとのことでした。
五木寛之原作「燃える秋」の映画撮影に北大路欣也と真野響子が使ったという趣きのあるホテルで、
優雅にいただいたチャイは200円ほどだったそうです。
イランではチャイにお砂糖を入れず、口の中で溶かしながら飲むのが流儀です。




5時にホテルへ戻り、7時からホテルの中のレストランでビュッフェ形式の夕食となりました。
現地のお料理にすっかり馴染んだ頃に旅が終わってしまう残念感や安堵感が思い出される写真です。


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