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22 Dec.2010
Tehran



12日振りに戻って来たテヘランは、標高が高くても東京と変わらない程の寒さでしたが、
アルボルズ山脈の冠雪が冬の到来を知らせていました。
いよいよ帰国の日となりましたが、フライトは夜便でしたので、朝9時半にホテルを出発して、
3つの博物館を見学した後、3時過ぎに空港へ向かいました。



アルボルズ山脈の麓、エステグラル・ホテルの程近くに、現在は博物館として公開されている
パーレヴィー朝(1925−1979)の夏の離宮、サーダーバード宮殿がありました。
レザー・シャー1世(在位:1925-1941)やモハンマド・レザー・シャー2世(在位:1941-1979)が
19Cのカジャール朝の街を整備して住んだ100haという広大な敷地内には18の宮殿があり、
その中で最大のメラット宮殿(別名:ホワイトハウス)を見学しました。



ビザンチン様式の4本の大理石の柱があるホールの周りを贅を尽くした部屋が取り囲み、
近代化のモデルを西欧においたパーレヴィー朝の生活様式が細部に見られる宮殿でした。
後に民族主義的傾向を深めた王朝は、固有の文化や伝統、歴史の探究に力を入れ、
考古学博物館、絨毯博物館などの博物館を設立するに至ったと言われますが、
この宮殿までもが博物館になるとはパーレヴィー朝にとっては歴史の皮肉としか言いようがなさそうです。


小食堂 寝室
メイン・ダイニングルーム セレモニー室

ボヘミアン・シャンデリアやローゼンタールの食器が飾られたレザー・シャーがドゴールと会食をした小食堂、
フランス製のシャンデリアとベッドカバーの寝室、東洋的な趣向も見られるメイン・ダイニングルーム、
ルーズベルトやチャーチルと会見したセレモニー室、王の休息室、ビリヤード室など
パーレヴィー朝の栄華をそのままに残した部屋の数々でした。



革命の時に切り取られてしまい、「怒っている時に履くブーツ」と呼ばれるレザー・シャー1世のブーツ像や、
イランの伝説の弓を引く英雄像が宮殿のまわりに残っていました。
レザー・シャー1世の馬車や他の王族達の宮殿を遠目に見ながら園内を散策した後、
1時間ほどの宮殿見学を終えて、絨毯博物館へ向いました。



革命の直前の1978年にレザー・シャー2世の最後の王妃ファラの肝入りで開館した絨毯博物館は、
絨毯織り機の枠を表した建物のユニークな外観とイラン各地から集められたアンティーク絨毯が
マッチした見応えのある博物館でした。


草木染めの原料 道具類
展示室 ファラ王妃がロックフェラー財団から買い戻した絨毯

「世界の王の木」
中央左寄りに日本の天皇家 (1906年制作)

幾何学模様や様式化した図案だけでなく、絵画のような芸術性の高い図柄にも驚かされ、
高度な技術、精緻な表現に世界に冠たるペルシア絨毯の実力を見せつけられた思いでした。


   

イスラムの国にありながら独自性を保ってきたペルシア文化の粋を集めた13〜4Cの華麗な名品の一部を
ポスト・カードからの抜粋でご紹介します。
右端の図柄には「The Gate to the Heaven」というタイトルがついていました。


ツアー最後のランチはフェルドゥスィー・グランド・ホテル内のレストランに用意されていて、
私達のツアーのイラン側の旅行手配会社の日本人女性スタッフが
今回訪れた世界遺産5か所踏破の証明書(各自の名前入り)を持ってご挨拶に来て下さいました。
革命前からイランに住んでいらっしゃるSさんはN添乗員さんと、つまりは私とも同郷と分り、
ちょっとうれしい出会いともなりました。


   

この日の「アヴグシュト」という遊牧民の伝統料理のランチは、
壺に入った羊、じゃがいも、トマト、ひよこ豆などのシチューをレモンをしぼったボールに取り分け、
シチューの中身は木の棒で押しつぶしてナンと一緒にいただくもので、「完食!」の声も出ていました。
イランは食事が難点・・・という声が多く、「W航空の最高をお出しします」というN添乗員さんの話も
半信半疑だったのですが、「食事が美味しかった」という方もいた程で、
思ったより変化があり、お米、豊富な野菜のお陰で体調良く過ごせたという印象を持ち、
「自足」しているイランの食文化にも、飽食の国として学ぶ点があるかもしれないと思われました。



昼食後、見学したアーブギーネ博物館(ガラスと陶磁器博物館)は、
カジャール朝の貴族で後にパーレヴィー朝の大臣も務めたアフマド・ガヴァームが1910年に建てた私邸で、
ナセル時代にエジプト大使館として使われたこともあり、建物自体が美術品のような博物館でした。
BC4000年からの陶磁器、BC2000年からのガラス器が展示された館内で、
又もやイラン文化の奥深さに触れることになりました。


  
アケメネス朝の宮殿の柱を模した展示ケースが素晴らしい紀元前の陶器やガラス器

  
正倉院と同じ白瑠璃碗などが展示されたササン朝の展示室

  
イスラム時代の陶器やガラス器

  
ラスター彩陶器

紀元前の土器や彩釉器、ガラス器、ササン朝に発展した工芸、その伝統にさらに磨きをかけたイスラム時代、
それらの変遷を目に見える遺産として持つイランは、歴史の奔流の中で、一見貧しそうにみえながら、
実は大変な底力を持った国であると実感しました。



ミュージアム・ショップで買ったお土産

3時15分にアーブギーネ博物館を出発し、新旧国会議事堂、神学校、カジャール朝の門などを車窓に見ながら、
テヘランの街を後にして、1時間余りでイマーム・ホメイニ空港に到着しました。
2日目のアフワーズの空港からここまで約2500km、アッバースさん1人の運転で続けられた旅でした。

渋滞もなく、早目にチェックイン出来ましたので、それぞれ希望の席を確保して、
8時10分の出発を待つばかりとなりましたが、出国ロビーで待っていたのは出発が遅れるという情報でした。
免税店を覗いたり、N添乗員さんお手製のお赤飯のおむすびをいただいたり、
何とか4時間をつぶし、10時10分に2時間遅れでテヘランを離陸しました。
出発ゲート前で待っている時に、突然、私達のツアーメイトの数名が理由の説明もなく席が変更になり、
混乱がありましたが、機内に入ってみると、私の最初の席は礼拝コーナーになっていて椅子がなく、
機材の変更による遅れだということが判明しました。
いずれにしろ、窓側の3席を1人で使えることが分って、ラッキーな帰路でした。



23 Dec.2010
 Tehran〜Beijing〜Narita


飛行時間が半分ほど過ぎた頃、夜が明けて、時に優美、時に峻厳な天山山脈の山並みを
眼下に見ることが出来ました。



搭乗して、ほとんどすぐに眠ってしまいましたが、最初の食事の頃に目を覚ますと、
イラン人の2人の男性が隣席に移動して来ていて、
「ごめんね。食事が終わったら、自分の席へ戻るから。」と日本語で話かけてきました。
イラン・イラク戦争の後、仕事がないので従兄の誘いで日本へ行き、睡眠を削って働いたお陰で、
カスピ海近くに住むお兄さんにお店を出してあげることが出来て日本に感謝している、
現在は大手建設会社の左官をしていて、奥さんは日本人という40代の男性でした。
その後もふと気が付くと、私のツアーメイトが端っこで眠っていたり、お客さんが見られた我が席?でした。



イラン人男性と話をしている時に咳込んだり、1回目の食事をパスしたために、
何かと気を遣って、水などを届けてくれた親切なキャビンアテンダント



日本時間の10時半に北京空港に到着しましたが、山が切れた後、見え始めた団地群には驚かされました。
前席のイラン人に「キナイタイキってどういう意味ですか」と尋ねられた2時間の機内待機の時に、
工具を持った人がやって来てトイレのドア修理を始めても、
特別な違和感を感じないほど馴染んでしまったイランの空気でした。



2時半を過ぎた頃、富士山が見え始めた時にはやはり日本へ帰って来たことが実感されました。
3時半に成田に到着し、4時半の渋谷行きのリムジンバスに乗って、
6時過ぎに無事帰宅して、15日間の旅の終わりを迎えました。

帰国後、まもなく始まったチュニジアの反政府運動に発したエジプト、サウジアラビア、リビアなど
中東や北アフリカの政変は今なお方向が見えない状況ですし、
そうした中で大きな役割を持つと思われるイランでも反政府デモが報じられています。
運の良いタイミングで旅が出来たイスラムの国々を思い出し、内戦など起きないことを願いながら、
まだまだ関心がつきないイラン・レポートをひとまず終わらせました。 
                                         (2011.3.7)

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