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10 Dec.2010
Tehran〜Afvaz


7時に起床し、ホテルの部屋のバルコニーから、目前に広がる朝焼けのアルボルズ山脈を見た途端、
一気に旅気分が高まり、気持ちの片隅にあった一抹の不安がまたたく間に消えていくようでした。

4000m級の山々を連ねたアルボルズ山脈(最高峰はダマーヴァンド山5671m)の裾野に広がるテヘランは
街の中心部の標高が1400mほどの高原都市で、
サファヴィー朝時代(1501−1736)に交易の拠点として繁栄、カジャール朝時代(1796−1925)に
イランの首都となり、パーレヴィー朝時代(1925−1979)に入って近代化を推進、
現在は1300万人の人口を擁する大都会です。
アハマディネジャド大統領は予測される大地震の発生に備え、人口を500万人削減するために
人口2万5千人以下の町に転居する者には資金を援助するという方針を今年4月に明らかにしたと言われます。

朝もやのように霞んだ空気は、1家族平均2.2台所有という車による排気ガスによるもので、
市内バス専用道路を設けたり、高速道路走行にナンバー規制をするなど対策を講じても、
時に小学校を休校にするほど深刻な社会問題となっていているそうです。
その対策の一環でしょうか、滞在中に軽油1L5〜10円が35円になるなどガソリンの値上げがあり、
政府補助金の減額や消費税問題など国民生活にかかわる政策が大きなTVニュースになっていました。



8時に朝食を済ませ、10時半の出発まで部屋でゆっくり過ごした後、ロビーへ降りて行くと、
N添乗員さんとスルーガイドのアリーさんが打ち合わせをしている姿が見られました。
イラン・ツアー歴40回位というN添乗員さんと日本の大学に4年間留学していたアリーさんは、
既に何度かコンビを組んでいらっしゃるそうで、まさに「大船に乗った気分」の旅のスタートです。




先ず、イラン考古学博物館で、BC6000年からササン朝ペルシア時代(AD226−651)の収蔵品を見学して、
これから訪れる場所を予習することからツアー・プログラムが始まりました。
パーレヴィー朝のレザー・シャー(在位:1925-1941)によって1935年から2年間かけて建築されたこの博物館は、
フランスの考古学者・建築家のアンドレ・ゴダールドによってササン朝時代の様式を模して設計されています。

たまたま9月から1月までの4ヶ月間、国宝級の「The Cyrus Cylinder」(キュロス2世の円筒碑文)が
大英博物館から里帰り展示されていて、特別警備体制が敷かれた博物館は、
貴重品を入れたバッグすらバスに残し、所持品を全く持たずに、ボディチェックを受けての入館となり、
写真を記憶の頼りにしている者としては、カメラを持ち込めないという状況が、
幸か不幸か少々微妙な、予想外の特別展との遭遇となりました。

大きなイラン地図の前で今回の訪問地の位置を確認した後、
BC5〜6000年の農耕黎明期の彩文土器や装身具、
BC2500年頃の馬車輪や青銅器の武具、BC2000年のタールを塗った石棺、
チョガザンビルのジグラットを飾っていた碑文が書かれた大きな牡牛像、
ペルセポリスの謁見の間のダレイオス1世の謁見図、百柱の間の階段のレリーフや2頭の牡牛の柱頭像、
発掘品が少ないアルケサス朝パルティア時代の風葬用ひつぎ、ガラス器、Salt Manと呼ばれるミイラ、
ビシャプールから発掘されたササン朝時代のモザイクやレリーフ、ガラス器などを、
時代を追いながら、アリーさんの説明で1時間余り見学しました。



ミュージアム・ショップにも図録はありませんでしたので、ポストカードから少し展示品をご紹介しますと、
左は「目には目を・・・」でお馴染みの玄武岩製のハンムラビ法典碑(高さ2.25m)の上の部分ですが、
エラム中王国時代のシュトルク・ナッフンテ王がBC1200年頃バビロンへ攻め入り、スーサへ持ち帰った戦利品は、
20C初めにフランス調査隊によって発掘された後、ルーブル博物館に収められ、
当博物館に展示されているのは複製品だそうです。
シャマンシュ太陽神の前で法典を口伝されるハンムラビ王(在位:BC1728−1686 異説:BC1792−1750)が
右手を口元にあてているのは神への恭順の仕草だそうです。
真中はやはりスーサの謁見の間から発掘されたダレイオス1世像ですが、
台座にエジプト文字であるヒエログリフで帝国拡大の様子が書かれている所が特徴的でした。
右はヘレニズムの影響が明らかに窺えるブロンズ製のアルケサス朝パルティア時代のプリンス像で、
もしかしたら古代ローマ帝国を悩ませたプリンスの一人なのかもしれません。




最後に特別展示室で、人数制限、3分間という時間制限のもと、キュロス2世円筒碑文とご対面となりました。

1879年にイラクのニネヴェで発見された長さ23cm幅11cmの45行からなるこの焼成粘土製の碑文には
バビロン王の愚行を怒ったバビロンの主神マルドゥクがキュロスの名を呼んで全世界の王たるべしと宣したこと、
キュロスの大軍が戦うことなくバビロンへ入ったこと、
シュメール、アッカドの全住民がキュロスの前に跪いたことが楔形文字で記され、
「我はキュロス、世界の王、正当なる王、バビロンの王、シュメールとアッカドの王、四辺の王なり」と
高らかに宣言されています。
アケメネス朝ペルシアを興し、インドから小アジア、エジプトにまで及ぶ帝国の礎を築いた
キュロス2世(在位:BC550−529)が、バビロン捕囚のユダヤ人を解放し、
人類初ともいえる「人権憲章」を創ったことに因み、
ニューヨークの国連本部にはこの碑文のレプリカが飾られているそうです。



ミュージアム・ショップ
考古学博物館入口

見学後の25分程のフリータイムは、カメラをバスに取りに戻り、博物館の外観写真を撮ったり、
ミュージアム・ショップを覗いたり、イスラム時代の展示品を収蔵する閉館中らしい別館の前まで行ってみたり、
慌しく歩き回って過ごしました。




1時前に博物館近くのフェルドゥスィー・グランド・ホテル内のレストランへ行き、
ほぼ似通った中東料理ながら、少し香辛料、ハーブを多用している印象のあるイラン料理の
ビュッフェ・ランチをいただきました。

ツアーメイトが初めてきちんと顔合わせをしたテーブルで、自己紹介の時間が持たれましたが、
10日前にスペインから帰って来たばかりという84歳の最高齢の方(偶然、昨秋のフランス号に
同乗していたことが分りました。)、イラン6回目、年6〜7回は海外に出る、
地図を開かなければ場所が分らないような国を訪れている方々など
14名の参加者中、1組のご夫婦の他は全員1人参加の女性という風変わりとも思えるグループが、
いずれ劣らぬつわもの達で構成されていることを早々に理解しました。



ホテル内の菓子店で大きくて美味しそうなピスタチオを少し買い、初めて現地通貨20000リアルを使いましたが、
1ドル=10000リアルの感覚に慣れず、又、トマーンという1桁切り下げた慣用価格?も煩雑で、
ほとんどドル払いで通したイラン滞在となりました。


エンゲラーブ広場 アサディ・タワー

2時過ぎにホテルを出発して、テヘラン大学やエンゲラーブ(=革命)広場などを車窓に見ながら、
メフラバード空港へ向かいました。
途中で写真ストップをとったアサディ・タワーはペルシア建国2500年を記念して1971〜73年に
ササン朝様式で造られたテヘランのランドマークのひとつとなっているタワーで、
高さ45mのタワー内部は歴史博物館になっているそうです。



3時15分にメフラバード空港に到着、4時45分発の国内線でテヘランから南西870kmに位置する
アフワズへ向けて飛び立ちました。



搭乗したフォッカー100機は延々と続くザグロス山脈の上を1時間余りで横断、
ペルシア湾が近付き、石油の廃油を燃やす火が眼下に見え始めると、まもなくアフワズ空港に着陸しました。



空港から30分程、7時前に着いたパールス・ホテルではオレンジ・ジュースと1輪のバラで出迎えてくれました。
部屋はコンパクトなシングルルームでした。




7時半からホテル内のレストランでチキンスープとにおいに少し癖のあるペルシア湾の魚のケバブの夕食、
9時前に部屋に戻り、入浴と翌日の支度を済ませて、
10時過ぎには就寝という旅の定番スタイルが早々に始まりました。

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