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11 Dec.2010
Ahvaz〜Shushtar〜Shush〜Choghazanbil〜Ahvaz


時差ぼけで2時間ごとに目が覚めた夜半、夢うつつの中で雨の音を聞いたように思ったのですが、
7時に朝食を済ませた後、外へ出てみると雨の痕跡が全くなく、空耳だったのだと思いながら、
8時の出発時間にロビーへ下りると、外は小雨が降っていて、雨を覚悟の一日でした。

イラン有数の産油地帯であるフーゼスターン州の州都であるアフワズは、
イラク国境まで80kmに位置し、周辺アラブ国にも近いため、アラブ人が多く住む街で、
イラン・イラク戦争では激戦地となって街のほとんどが破壊されてしまったそうです。
カルン川沿いのホテルの部屋から戦後復興したニュータウンを遠望することが出来ました。



最高指導者のホメイニ師(在位:1979−1989)とハメネイ師(在位:1989−)の写真や肖像画には
至る所でお目に掛かりましたが、意識的に写したのはこのホテルのエレベーターの1枚だけと思われますので、
カメラまで時差ぼけ中の画像ながら載せておくことにします。


ホテル・スタッフから半年振りの「幸せ」雨を私達が運んで来たと感謝されながら、
アフワズから北へ90kmのシュシュタールへバスで向かいました。
小雨は土漠の中にあっという間に消えて行きましたが、濡れた舗装道路に慣れないのか、
車のスリップ事故を2件ほど目撃したのはお国柄のひとつといえるのでしょうか。
この頃テヘランにも本格的な雨が降り、スモッグが少し解消した様子です。

冬枯れの土漠の車窓に火力発電所などの工場、アシュラの祭りの飾り付けをした町、畑や牧草地が続く中、
時々見られたテントの一団はイラン国内に300万人ほどいるトルコ系の遊牧民で、
季節に合わせて年2回国内を移動するそうですが、牧畜業を営む生活は裕福で、
小学生はテント内で学び、中学生以上になると町の学校に通学、大学進学率は75%、
「スモッグもない自然の生活をしているので頭が良い」というのがアリーさんの説明でした。

1時間半ほどの車内ではN添乗員さんの「イラン新聞創刊号」が配られ、
この日訪れる遺跡に関わる古代イランの歴史、国章・国旗などについてお話がありました。

世界最古のひとつと考えられる1万年前の家畜化した山羊の骨が出土したザグロス山脈中南部では、
BC6500年頃には高原地帯のオアシスで灌漑農耕が始まっていたと言われます。
ザグロス山脈に産する銅、銀、トルコ石などの鉱物資源やアフガニスタンのラピスラズリなどを
都市文明が栄えるメソポタミアへ交易することによって経済発展を始めたイランで、
BC2300年頃から南西部の平野で勢力を伸ばしたのが「山の方からやって来た」としか分らないエラム人で、
スーサ(現在名シューシュ)に都を置き、文字記録を残したイラン最初の文明王国を興し、
BC13C頃に最も繁栄をしますが、 BC640年頃にアッシリアに滅ぼされてしまいます。
BC3000年頃に中央アジアから東西へ民族移動をしたアーリア人の中から頭角を現したメディア人が
BC612年にアッシリアを滅ぼし、さらにアーリア人の一部族であるペルシア人がメディア王国を滅ぼして、
アケメネス朝ペルシアがBC550年に誕生したというのが古代イランの大雑把な歴史の流れです。
イランは「アーリア」、ペルシアはアケメネス朝の中心地「ファールス」の古名「パールス」に由来すると聞くと、
イランの輪郭が少しだけつかめて来る気がします。


ザグロス山脈からペルシア湾まで850kmを流れるイラン最長のカルン川流域に古代から要衝の地として栄えた
シュシュタールに9時半過ぎに到着しました。

イラン有数の農作地帯であるこの地方では米作の他、ジャガイモ、トマト、トウモロコシ、サトウキビなどの野菜、
オレンジ、リンゴ、アプリコットなどの果物も豊富に産するそうです。
ザグロス山脈を意味するザクロ、胡の字が西アジア由来を示す胡瓜(キュウリ)、胡麻(ゴマ)、胡桃(クルミ)など
名前がルーツを教えてくれるものもありますが、
どこの国でも似たような野菜、果物が店頭に並び、農作物の無国籍化が進んでいる印象を受ける昨今です。


目抜き通りに出ると、間近かに迫ったアシュラの祭りに使う道具を売るお店が目を引きましたが、
大きく「YAMAHA」と書かれた太鼓が最も目立っていました。
おじさん達はちょっと無愛想な表情に見えますが、イラン人は実はとても人間好きな国民であることが
これから少しずつ分っていくことになります。


2009年に世界遺産に登録された240haに及ぶシュシュタールの歴史的水利施設のひとつを見学しました。
洪水対策や農業灌漑用施設として街に張り巡らされた運河や水路はアケメネス朝時代に始まり、
ササン朝時代にほぼ完成したと言われますが、修復を繰り返しながら、今なお街へ水を供給しているそうです。

水車や穀物粉砕機が置かれていたというダムは水をせき止めたことで魚が死んでしまい、
現在はマスを養殖しているそうですが、のんびり浮かぶカモ達のえさ場のようにも見えました。
右の写真に見える幾筋もの滝は雨期には見事な景観を見せるそうです。


日干しレンガの壁で囲まれた巨大な遺跡のように見えるササン朝時代の水利施設の中で、
現実感を漂わせていたナツメヤシの箒や、水タバコで一服入れる作業員さん達をカメラに収めながら、
地下深く掘られた水路や19Cのドイツ製ポンプなどを見学した後、10時半にシュシュタールを後にしました。


街外れの石橋で写真ストップ・タイムが取られましたが、
「ペルシア王に捕われたローマの将兵たちは、自尊心を維持するために建設工事に従事したのではないか」と
塩野七生さん(「ローマ人の物語」XU)が書くローマ軍団兵による公共インフラ事業のひとつでしょうか、
半壊の姿にいっそうの感慨を覚えるようでした。


水利施設の賜物のような緑が車窓風景に続いていましたが、道路工事を迂回したバスは道を間違えたようで、
午後に予定していたスーサを先に観光することになりました。


12時前にスーサに到着し、最初にスーサ遺跡に隣接する博物館に入りました。
パルティア時代のポールが立つ前庭を通り、中に入ると、最古の部分はBC6000年に遡るというハフト・テペ、
エラム王国最盛期のチョガザンビル、アケメネス朝時代からパルティア時代のスーサなど、
これから回る遺跡の出土品が展示され、4〜5千年の歴史空間が広がっていました。

   彩色土器 ハフト・テペ       釘頭形煉瓦 チョガザンビル        牡牛柱頭 スーサ 

   彩釉煉瓦 複製?                        パルティア時代の壺 スーサ
          

博物館で簡単に予習をした後、丘の上のアケメネス朝時代の遺跡へ上って行きました。

BC5千年紀から人が住み始め、BC2500年頃にエラム人が王国を築いたスーサは、
BC522年にアケメネス朝のダレイオス1世が冬の宮殿を築いて王の都として繁栄した街で、
アクロポリス(城砦)に入ると、整然と区画された王宮跡が広がっていました。
柱の礎石だけが点々と残るアパダナ(謁見の間)や宮廷の人々の町の跡など、
ヘロドトスの「歴史」にも登場する古い都の往時を想像しながら見学しました。

右写真の遺跡の奥に見えるのは、フランス調査隊が建てた考古学パレスと呼ばれる建物で、
ナラム・シンの戦勝碑やハンムラビ法典がルーブル美術館にあるという軌跡が読み取れるようですが、
BC1150年頃エラム王シュトゥルク・ナフンテ1世がメソポタミアからスーサへ持ち帰った戦利品が、
3000年後に場所を替えただけとも言えなくはなさそうで・・・。
遺跡の煉瓦を建材として建てられた考古学パレスは、現在はイラン軍の所有となっているそうです。


現在のスーサの街が一望できる百柱の間に僅かに原型をとどめた牡牛像柱頭や柱礎石が残されていて、
BC331年のアレクサンダーの破壊の様子を語り継いでいました。



バスに乗って街中のレストラン「アパダナ」へ行き、1時から昼食になりました。
この時期は多くの建物に黒と緑をベースとしたアシュラの祭りの飾りが見られます。

  

ランチ・メニューは「ゲイメ・ポロウ」と呼ぶアシュラの祭りのお料理とオレンジのデザートでした。
羊肉、じゃがいも、豆をトマト味で煮込んだものをポロウ(ピラフの語源)にかけ、
時々生タマネギをかじりながら食するというイランの肉料理の作法にも序々に馴染んでいきました。


昼食後、スーサで亡くなった旧約聖書に登場する預言者ダニエルの廟へ行きました。
聖者信仰が盛んなイランではモスクではなく、聖者廟で願い事をする人が多いそうで、
乳白色の円錐形の塔の下に棺が収められた霊廟内では熱心にお祈りする人の姿が見られました。
ダニエルが飢えたライオン檻に入れられた時、ライオン達は大人しかったという伝説が描かれた壁もありました。
因みにシェイクスピアの「ベニスの商人」に登場する公正な裁判官ダニエルは預言者ダニエルに因むそうです。

イランでは観光客でも女性は人前ではスカーフで髪の毛を隠さなければならないのですが、
聖者廟に入る時にはさらに「チャドル」と呼ぶ半円形の1枚の布で身体全体を覆わなければなりませんでした。
旅の準備の時には戸惑いのあったスカーフですが、日中には時に暑苦しく感じることがあったものの、
慣れて来るに従って、寝癖でも何でも「隠す」ことが快適に感じられるようになりました。


スーサから南東へ40kmバスを走らせ、3時前にチョガ(=丘)ザンビル(=大きな籠)に到着しました。
1935年に油田探索をしていたニュージーランドの地質学者が上空を飛行中に発見したチョガザンビルは、
エラム王国最盛期のBC1250年頃、ウンタシュ・ガル王がスーサのインシュシナク神を祀るために造った聖都で、
ジグラット(聖塔)や神殿群が1979年に世界遺産に登録されています。
エラム王国はスーサを行政の中心、チョガザンビルを宗教の中心として都市建設を行ったようです。

日干し煉瓦と焼成煉瓦で造られたジグラットは3段、28mほどしか残っていませんが、
建設当初は5段、50m以上の高さがあったと考えられています。
1辺105mの4隅は東西南北を正確に指し、表面は青、緑、黄色の彩釉煉瓦で覆っていたという技術、
全容の荘厳さは想像を絶するとしか言いようがなさそうです。


馬小屋

建物内部に入ることは出来ず、円形の生贄台、馬小屋の跡などを見ながらジグラットの周りを一周しました。
正面入り口でアリーさんが指で辿っている煉瓦には、
「スーサの王ウンタシュ・ガル・・・ジグラットを我輝かせり・・・インシュシナク神により永遠に保存されんことを」と
楔形文字で刻まれているそうです。


左写真のダムは現在は雨が少ないこの地域もかっては豊かな水に恵まれたことを表しているのでしょうか。
砂やアスファルト、炭による浄化装置を持っていたという上下水道跡も残っていました。
右は生贄台よりは高さが低いことから、日時計だと考えられている建造物です。

    

壁の随所に「インシュシナク神のために造った」と刻まれた煉瓦もはめ込まれていました。
遺跡の主のような姿で歩いていた甲虫はゴミムシダマシで(昆虫学者のT先生に教えていただきました。)
アフリカあたりには背中に溜めた夜露を身体を逆さに立てて飲む仲間がいるそうです。
赤や黄色の小さな実を鳥たちに提供していたトゲだらけの木はアカシアの仲間と聞きましたが、
こんな時差ぼけ写真では教えを乞うこともできません・・・。
足元にもトゲ植物が頑張っていた沙漠の中の遺跡チョガザンビルを4時過ぎに出発して、
この地方が最大の生産地というサトウキビの鉄道を車窓に見ながら、最後の見学地ハフト・テペへ向かいました。


BC6000年に遡る歴史を持つハフト・テペ(=遺跡が入った丘)は7つの丘を意味しますが、
実際には12の丘があり、未発掘の部分が多い遺跡だそうです。
発掘調査が続けられる遺跡近くにイラク軍のミサイル跡が残っているとアリーさんが指をさしていました。


写真はBC2250年頃のエラム王国時代の地下式の墳墓で、
日干し煉瓦で造られた天井のアーチは世界最古のものと言われています。
 23体の遺体が見つかったという墓はトンネルで広間とつながっているそうです。



10分程のハフト・テペ見学の後、4時40分にバスに乗って帰路につきましたが、
アシスタントのレザーさんが配って下さった熱いチャイを飲みながら、
地平線に沈む太陽を車窓に眺めるというのはそうそう味わえるものではない幸せなひと時でした。

 

6時20分にアフワズのホテルに戻り、7時15分から1時間半ほどかけて、
麦スープとサラダ、ペルシア湾エビのカレー風味のフリッター、デザートのヨーグルトの夕食をいただきました。

この日は今回の旅で1日だけの雨空になりましたが、たまに降る小雨の中、傘をさしたのは10分程で、
寒さより暑さを心配していたイラン南西部が最も肌寒かったことが印象に残りました。

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