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14 Dec.2010
Persepolice〜Naqsh‐e‐Rajab〜Naqsh‐e‐Rostam〜Persepolice


ペルセポリスはギリシア人が「ペルシア人の都」と呼んだことに由来する呼び名で、
イランではタフテ・ジャムシード(TakhteJamshid:伝説の王ジャムシードの玉座)が正式名称のようです。
その名前をつけたタフテ・ジャムシード・インは1棟に2部屋ある林の中のコテージで、
小さなキッチン付きのリビング、寝室、シャワー室があり、1人使用には広過ぎるスペースがありました。
このペルセポリス唯一と言われるホテルから3kmほど先に遺跡を遠望することができました。



コテージ配置図成


朝8時にホテルを出発し、5分足らずで到着したペルセポリスは、大きな手荷物は持ち込み禁止、
入口でX線荷物チェックもあり、厳しく守られている世界遺産(1979年登録)という印象を受けました。

ペルセポリスはアケメネス朝第3代王ダレイオス1世(在位:BC522-486)が儀式用の宮殿として造営に着手、
息子クセルクセス1世(在位:BC486−465)、孫アルタクセルクセス1世(在位:BC465−424)と
3代にわたって建設が引き継がれたアケメネス朝最盛期の都の跡です。
16C末に発見された後、1930年代に入ってシカゴ大学オリエント研究所によって、
本格的な発掘調査が行われたと言われます。

正面に見える高さ12mの大基壇に左右に伸びる幅7m、111段の折階段は、
馬に乗ったまま上ることが出来るよう段差10cmに設計されていて、
ジグラットともゾロアスター教の炎とも言われる3角形の手摺り装飾が残っています。
そのゆるやかな階段を上って行くと、石柱や礎石だけが残された南北450m、東西300m、
面積13万5000uの広大な遺跡が目に飛び込んできます。



大基壇の上からはパーレヴィー朝レザー・シャーが1971年にペルセポリスで実施した
ペルシア建国2500年祭の記念並木が西へ向かってまっすぐ伸びているのが見渡せました。



階段を上って最初に出迎えてくれるのが、柱の高さ16.5mのクセルクセス門(万国の門)です。
イスラム時代に顔を削られてしまった牡牛像の西門と、人面有翼獣神像を持つ東門の間は
王との謁見を待つ人々の屋根付きの控えの間となっていて、
来訪者はベンチに座って入城許可を待ち、入城の知らせは槍で合図されたそうです。

 

「アフラ・マズダの恩寵によって、我クセルクセスがこの万国の門を建造した。
多くの美しい建造物は全てクセルクセスと父ダレイオスが建て、アフラ・マズダに奉じたものである」と
古代ペルシア語の楔形文字が門の上部の石に刻まれていました。
門の下部の手が届くあたりには、アルファベット名や年号がたくさん刻まれ、
いたずら書きではなく、研究者のサインかもしれませんが、ちょっと無残な印象を受けました。

儀仗兵の通路 百柱の間  山の中腹:アルタクセルクス2世墓 

万国門を東へ抜けると、儀仗兵の通路があり、その先に、アパダナを通らずに百柱の間(玉座殿)へ行くために
アルタクセルクセス1世が造営した未完成の門が見えました。
未完成の門を通リ抜けて、右折したら百柱の間へ行くことができます。




通路の中程にイラン航空のロゴマークになっている幸運と力の象徴、伝説の動物ホマが置かれていました。
獅子の胴体と鷲の頭と翼を持つホマは宝石がはめ込まれた美しい姿で列柱の柱頭に飾られていたそうです。
二つの頭はペルシアとメディアを表すとも言われるグリフォン像です。



ダレイオス1世が造営したアパダナ(謁見の間)は高さ20m、36本の円柱でレバノン杉の屋根を支えた大広間で、
広間跡には12本の柱を残すのみですが、東階段に素晴らしいレリーフが残されていました。
階段状のジグラットの装飾の下に開花したハスの花のレリーフを並べているのは、
ペルセポリスがノウルーズ(新年の祭り)を祝う春の宮殿であったことを表しているそうです。



階段で迫力を見せていた「牡牛に噛みつく獅子の図」は宮殿の他の場所でもよく見かけた図柄ですが、
獅子は神、ユニコーンは悪魔という宗教説、ペルシア対敵国という政治説、
獅子(ライオン)は夏の星座で、牡牛は冬の星座と考えられていたため、
春分に儀式が行われた宮殿の季節を表現しているなど諸説あるようです。

右側の階段にペルシア人とメディア人が交互に並び、握手をしたり、肩に手をおいて行進するレリーフがあり、
帝国の平和を象徴しているようでしたが、アケメネス朝初代王のキュロス2世が
メディア人の母から生まれたことを思い出させる場面でもありました。


  
 メディア人                 メソポタミア人               エチオピア人        

  左側の階段には23の属国の使者が献上物を持参した場面が彫られていましたが、
先頭の刀や花瓶を持っているメディア人は大きい人物9名、
最後尾の大きな耳にピアスをして象牙を持ったエチオピア人は小さな人物3名などと
糸杉で区切られた区画毎に属国の面積、人口までを表現しているという所が驚嘆の一語でした。
ペルシア人に先導されて入場していく北アフリカからインドに及ぶ属国民の特徴が、
衣裳、装飾品、特産品に至るまで綿密に描き分けられていて、
馬、牛、こぶ牛、ロバ、ライオン、羊、ラクダ、オカピなど様々な動物達も愛らしく、
オリンピックの入場行進のような世界が2500年前に繰り広げられていた事実にも感動を覚えました。


 

これらのレリーフは奴隷ではなく、職人が彫った証拠とされるサイン(左写真右上の菱形)も見られました。
報酬にサインした碑文が残り、職人保険も存在したことが判明しているそうで、
世界最初の帝国といわれるペルシア文明の高度さにも目を開かれる思いでした。
右写真のような鉄や鉛での接合技術も一見の価値がありそうです。


タチャラ(ダレイオス1世の宮殿)
左:タチャラ 右上:アパダナ ハディーシュ(クセルクセス1世宮殿)

黒大理石を使っているため鏡の間という別名を持つダレイオス1世のプライベートな宮殿タチャラ、
クセルクセス1世の宮殿ハディーシュなど比較的、建物の原型を留めている歴代王の宮殿も見学しました。


トリピュロン(会議の間) 博物館

会議に向かったり、供された食事の様子が分かるレリーフが残るトリピュロン(会議の間)や
建物基礎だけが残る王達の個人的な礼拝室を見学した後、
クセルクセス王妃の住居跡にハーレム(王妃の間)建築を復元して造られた博物館に入りました。



BC330年1月にマケドニアのアレクサンダー大王がペルセポリスを征服、
略奪した財宝は2万頭を超すラクダやロバを使って運び出されたと言われています。
その後、酒宴の最中に遊女にそそのかされた大王が衝動的に都を焼き払ったという説もありますが、
最近の精密な遺跡調査によると、可燃物を各部屋に積み上げて火を放ち、
計算づくの行動であったことが判明しているそうです。
ただ、どうして焼き払ったかはいまだ解明されず、永遠の謎として残るのかもしれません。

アレクサンダー大王に持ち去られ、主要なものはテヘランの考古学博物館に所蔵され、
それ程多くの展示品がない博物館でしたが、装飾品や壺、コイン、焼成粘土板などが陳列されている中、
右写真の黒く焼け焦げた布が存在感を見せ、異彩を放っていました。

アルタクセルクセス2世の墓

クーヘ・ラフマト(慈悲の山)の斜面を上り、数千人分の水を陶器の管で供給していたという井戸を見た後、
アルタクセルクセス2世(在位:BC404−358)の墓まで上って行きました。
高さ12m、幅6mほどの十字型にアフラ・マズダと王と太陽神、下部にペルシアを支えた28の民族が彫られた
横穴式墓地は生前に造られたと言われ、レリーフの下の玄室の中も覗くことが出来ましたが、
宝石が入った金の棺は当然、残ってはいませんでした。




墓前のテラスから、ペルセポリスの遺跡を一望することが出来ました。
画面左下が宝庫、その上が博物館やハーレム、ハディーシュ、タチャラ、
中央上からアパダナの列柱、屋根の下にアパダナ東階段のレリーフ、真中が百柱の間、手前が守備隊兵舎、
右上が万国の門、その下が未完の門という配置になっています。

キュロス2世がパサルガダエに都を造り、冬はバビロン、春はスーサ、夏はエクバタナ(現在ハマダン)で
過ごすと言われたアケメネス朝の王達がこのペルセポリスの宮殿を
新年の祝賀儀式のためにだけ使ったのかどうかはまだ解明されていないそうですが、
広大なマルヴダシュト平野に城壁もなく築かれた宮殿の不思議な佇まいが、
往年の栄華だけは充分に伝えてくれました。



11時45分の出発まで少し時間に余裕があり、遺跡近くにあるショッピング・センターを覗きましたが、
成田今回のイラン・ツアー中、唯一、物売りの子供達に出会った場所でした。
「ショコラ ショコラ」と言って近づいて来たのはアフガニスタン難民の子供達で、
不法入国、無国籍の子供の増加などイラン政府が抱える難問を垣間見た思いでした。



レストラン「ラーネイェ・タブース」

  

ナクシェ・ラジャブ近くのレストラン(ペルセポリス近郊唯一のレストラン?)でのランチは、
豆のスープ、牛肉の煮込み、ヨーグルト、オレンジなど豊富なメニューでしたが、
食事の合間にチーズとニラ、バジル、ミントなどをナンで包んで食べると食が進むことを発見しました。


ナクシェ・ラジャブ

アルデシール1世の王権叙任式図


ペルセポリスから3kmほど北の山中にササン朝初期の磨崖碑ナクシェ(=絵)・ラジャブがありました。
正面に見えるのがササン朝を創始し、ゾロアスター教を国教と定めたアルデシール1世(在位:226−241)が
最高神アフラ・マズダから王権を受けているレリーフで、
2人の間の足元に孫のバフラーム1世(在位:273−276)、後方に王の母と政府高官の像が彫られています

その左側の奥まった部分に彫られているのは、シャプール1世の時代に祭司長となり、
バフラーム1世時代に影響力を増大させたゾロアスター教神官のカルティールで、
各地に碑文を残し、マニ教、仏教、キリスト教を弾圧したといわれる人物です。


シャプール1世の騎馬叙任式図

シャプール1世と臣下

アルデシール1世のレリーフの右側に2代目王シャプール1世(在位:241−272)の騎馬叙任式や
臣下を従えたレリーフがありました。
父アルデシール1世から引き継いだ行政機構を再編成した上、軍事的にも成功を収めたシャプール1世が
ササン朝の基盤を固めたと言われています。


4基の王墓 ダレイオス1世墓の左下にシャプール1世騎馬戦勝図

ナクシェ・ラジャブからほど近い岩山にナクシェ・ロスタムと呼ばれるアケメネス朝の王墓がありました。
ゾロアスター教で重要とされる風、火、水、土を表す十字型の王墓4基は
ダレイオス1世以下、4人の王墓であることは分っていますが、
位置が確定しているのは右から2番目のダレイオス1世のみで、
クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の順番には諸説あるようです。
右端の墓は斜め位置が多少直射日光を遮っているようで、石灰岩の劣化が少ないようでした。


ダレイオス1世墓 シャプール1世騎馬戦勝図

上部に神と王と王座担ぎ、中段に4本の円柱と玄室入口という同じ形式の4基の王墓でしたが、
ダレイオス1世の墓には「ペルシア人の槍は地球の遠くまで飛んでいった」と
楔形文字で刻まれているそうです。

4基のアケメネス朝の王墓の下に彫られたササン朝のレリーフの中で最も有名なのが、
ダレイオス1世の墓の左下に彫られた「シャプール1世騎馬戦勝図」です。
ペルセポリスのジグラットの形を模した冠をかぶり、ゾロアスター教の神を従えた馬上のシャプール1世と
その前に跪くローマ皇帝ヴァレリアヌス(在位:253−260)というローマにとってはこの上なく屈辱的な図ですが、
ヴァレリアヌスの横に立っているのもペルシア側に有利な講和を結び、北部メソポタミア属州を放棄した
ローマ皇帝フィリップス・アラブス(在位:244−249)と言われています。
この遺跡が発見された時、このレリーフが、イラン人が現在でも学校で学ぶ王書(シャー・ナーメ)の中の
英雄ロスタムを描いていると考えられたことがナクシェ・ロスタムの名前の由来となっています。


ホルムズド2世騎馬戦闘図 アルデシール1世叙任式

人馬が逆さになっているホルムズド2世(在位:302−309)の騎馬戦闘図など
アケメネス朝王墓に比べて、ササン朝のレリーフには躍動感があって面白いものが見られました。

王墓とは少し離れた左奥の高所にアルデシール1世叙任式のレリーフがあり、
最高神アフラ・マズダが悪神アンラ・マンユを、アルデシール1世がパルティア王アルダバーン4世を踏みつけて、
 ササン朝の誕生を表現していました。



アケメネス朝灯台

このレリーフはエラム時代のレリーフの上に彫られているため、右上に古いレリーフが残り、
山頂にはキャラバンの往来を監視したアケメネス朝の灯台も見え、歴史の重層が見られるエリアでした。



ナクシェ・ロスタムの周辺

王墓に前にゾロアスターのカーバと呼ばれるアケメネス朝最古の切り石積みの方形の建物があり、
陶器、壺、鉄製品などが出土、ゾロアスター教祭司長カルティールの碑文も外壁に残されているようですが、
建物の使途はジグラット、葬祭場、祭壇など意見が分かれて、いまだ謎とされているそうです。


百柱の間 牡牛の頭像 クセルクセス門

2時半頃、ホテルへ戻り、一休みした後、4時に再びバスに乗って夕暮れのペルセポリス見学に向いました。
この時は正面の入口ではなく、N添乗員さん曰く「VIP用」の南門から、
夕日を受けた石が輝きを増して、午前中とは全く違った趣きを見せる遺跡の中に入りました。



大口を開けて笑う?ライオン
長い影

4時45分頃から太陽が刻々と山間に沈んでいく様子をそれぞれ好みの場所に立って鑑賞しました。
遺跡と日没という取り合わせは、美しさの中に寂寥や無常も漂わせているようでした。



7時からの夕食は挽肉のケバブがメイン料理でしたが、チェロウ(ご飯)をどさっと?載せる所がイラン方式です。
デザートのアイスクリームは甘過ぎると言いつつも全部平らげてしまいました。

食後、ホテル前の畑で、N添乗員さんによる星の観察会がありました。
最も多く流れる日と期待されたふたご座流星群は見られず、コンパクト双眼鏡は星観察には用をなさず・・・、
と残念な状況でしたが、北斗七星、北極星、オリオン座などをかすかに確認することが出来ました。
砂漠の民の視力を持っていたら!と思わされた夜でした。


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