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17 Dec.2010
Yazd〜Na’in〜Esfahan

テルの部屋からの朝景色 ヤズドの街

朝の暖かな日差しが眠気や旅中盤の気分の緩みを吹き払ってくれた9日目は、
8時にホテルを出発、ヤズド中心部の見学後、ナインを経由してイスファハンまで300kmバスを走らせました。
お祭り明け或いはイスラムの休日の金曜日のせいか、眠りからまだ覚めやらないヤズドの街でした。




バスに乗るとサプライズ・プレゼントが待っていました。
何とヤズドの市長さんが私達の訪問を歓迎して、ポスター、DVD2枚(残念ながら我が家のPC、TVでは
見ることが出来ません・・・。)、ミニチュア・ナフルをホテルまで届けて下さっていたのです。
ポスターは昨日行ったタフトのタキイェでナフルをかついでいる場面で、
午後の熱狂がしっかりと伝わってくるものでした。
旅行者としてこの上ないうれしいプレゼントにツアーメイトから歓声が上がりました。



最初にペルセポリス周辺にアラブから隠しておいた火をインドのゾロアスター教徒(パルシー教徒)が
1934年にヤズドに戻して建てたアタシュキャデ(=火の家)へ行きました。
チンギス・ハン軍が13Cにイランを侵略した時、多くのゾロアスター教徒が逃れて来たヤズドには、
現在18のゾロアスター教寺院があるそうです。

3段の翼が良い考え、良い言葉、良い行い、 尻尾が悪い考え、悪い言葉、悪い行いを表すという
ゾロアスター教のシンボル、有翼日輪図が建物正面に飾られた神殿は、
ゾロアスター教の栄光の時代を象徴するアケメネス朝のペルセポリスの宮殿の建築様式で建てられ、
正面の泉池に姿を映して、静かな佇まいを見せていました。


建物の中では1500年間燃え続けているという「永遠の火」に薪を入れる祭司の姿がガラス越しに見え、
ゾロアスターの肖像画や経典「アヴェスタ」の展示、ペルセポリスと同じレリーフも見られました。

イランの西北部からアゼルバイジャンあたりを活動の本拠地としていたゾロアスター(=ザラトゥシュトラ)が、
その地域に産する原油や天然ガスが暗闇の中で燃えているのを見て、
光明と暗黒、善と悪という2元論を考え出したのではないかと言われるゾロアスター教は、
世界に溢れる悪を浄化し、神につながる火を神聖視していることから日本では「拝火教」と呼ばれています。
この拝火教という言葉を考案したのは哲学、科学、芸術、理性などという翻訳語も生みだした
幕末から明治中期の啓蒙家である西 周(1829−1897)で、
明治時代の終わりに(1911年)タングステン電球「マツダランプ」を発売した東芝や、
「叡智・理性・調和の神アフラ・マズダを、東西文明の源泉的シンボルかつ自動車文明の始原的
シンボルとして捉え、また世界平和を希求し自動車産業の光明となることを願ってつけられた。
・・・創業者の松田重次郎の姓にもちなんでいる」というマツダなど( 「MAZDA」社HPより)、
アフラ・マズダに因んで名付けられた日本の製品、企業の存在もあり、
ゾロアスター教を介した日本とイランつながりも意外に身近に見られるようです。



次にマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)へ行きましたが、
イランで最も高いと言われる高さ53mのミナレットは修復中でちょっと残念でした。
ミナレットの左の塔は弟子が造り、右側を造った先生は建築途中に亡くなったと言われています。
ササン朝(226−651)のゾロアスター教寺院の跡にブワイフ朝(932−1055)に建築され、
モンゴルの支配から脱出した14Cに再建されたといわれるモスクは美しいタイルワークが際立ち、
ペルシア建築の傑作のひとつに数えられています。


天井アーチ ミフラーブ(メッカを示す壁がん)

モスクに入ってムカルナス装飾が施された4隅のアーチが柱の代わりをしているペルシア様式のドーム天井、
男女別の出入り口や両側に告解室のような部屋を持つ珍しいミフラーブなどを見学しました。




壁、天井、至る所に様々なモザイク、タイル画が見られましたが、
中央の小さな点を同心として周囲へ拡がっていくアラベスク紋様をはじめ、
ブルーとベージュ系の濃淡だけに統一された図柄、色彩の饗宴に目を奪われるようでした。

イーワーン 冬の礼拝室

アッバース朝の質素な礼拝室、2400年前の井戸、縁起の良い数字とされる40本の柱を持ち、
ステンドグラスを使った19Cの冬の礼拝室なども見て回りました。



絨毯屋さん
セイイェド・ロクナディーン聖廟



マスジェデ・ジャーメ見学の後、周辺の日干し煉瓦の家が残る地域を少し散策しました。
迷路のような狭い道を抜ける途中、ノック音の違いで来客の性別を判別するという2種類のノブがついたドアを
アリーさんが叩いてみましたが(知り合い?)返答はありませんでした。
アレクサンダーがペルシア高官を連行したといわれる「アレクサンダーの牢獄」や「12イマームの霊廟」など
近くにいくつか見どころもあるようでしたが、そちらには寄らず、少し買物時間を取った後、
10時前にヤズドを後にしました。



アクダのモスクでのトイレ休憩を入れて、見学するキャラバンサライ(隊商宿)に到着するまでの車中、
N添乗員さんの歴史講座がありました。

今まで訪ねた場所と関わりのあったアケメネス朝、アレクサンダー後のセレウコス朝、アルケサス朝パルティア、
ササン朝までの歴史をおさらいした後、ウマイヤ朝、アッバース朝のアラブ王朝時代を経て、
トルコ系のセルジュク朝(1032−1194)、モンゴル系のイル・ハン国、ティムール帝国の支配下に入ったイランに、
久々に誕生したイラン系王朝がイラン北西部のタブリーズにイスマイール1世が興した
サファヴィー朝(1501−1736)で、その王朝の全盛期にアッバース1世(在位:1588−1629)が
遷都したのが今日から訪れるイスファハンであると、歴史と旅が見事に繋がりを見せてくれました。

交易や産業を盛んにする隊商の保護、税金確保のために20km前後毎に設置されたキャラバンサライは、
西アジアのシルクロード沿いにたくさん残っていますが、廃墟と化したものも多い中、
この日訪れたサファヴィー朝のサライはかなり原型を留めていて、美しい煉瓦装飾も見られました。


漆喰、素焼壺、日干し煉瓦を古代3大発明と呼ぶそうですが、日干し煉瓦の堅牢さは
屋根に乗ってみるとより強く実感することができます。
土という無限の資源を使った沙漠の民の英知がつまっているキャラバンサライでした。




茫漠と広がる大地に東西に延びるシルクロードやキャラバンサライとセットになったカナートと僅かな緑に、
ラクダやロバに荷を載せたキャラバン隊を重ねて思い浮かべるのは難しいことではありませんでした。




1時過ぎにナインの17Cのキャラバンサライを利用したレストランで、
きゅうり、くるみ、干しぶどうが入ったヨーグルト・スープと牛肉のケバブの上に干しぶどうご飯を載せた
ナインの家庭料理をいただきました。見かけは同じようでも、地方色がちゃんとあるようです。


レストランの屋上



ランチの後、屋上に上ったり、フリータイムを過している時、小さな部屋にF夫妻の姿を見つけて入って行くと、
飾ってある陶器を購入できるらしく、買物のお相伴をさせていただくことになりました。
今回のイランではカササギとカラスの2種、頭の黒い鳥を見かけましたが、
カラスを「神の使い」「太陽の鳥」とする国も多いようですから、
コクマルガラスと呼ばれるツートンカラーのカラスがこのお皿のモチーフと考えて間違いないようです。
2枚(径23cm)で6ドルという信じられない値段でしたが、使いやすく、愛用のお皿となりました。


ナインの民家


バスを少し走らせてナインの民家の1軒に立ち寄らせていただきました。
ウール布の産地として栄えていたナインは、機械織りの普及によって衰退したウール産業から絨毯産業へ
20C初めに転換し、現在はペルシア絨毯の有名な産地のひとつとされている町です。




民家の地下の工房でエバ(法衣)を織る80歳の男性は現在10人程しか残っていないエバ職人の1人だそうで、
エバ姿のホメイニ師の写真を飾った中で毎日8時間機織りをすると話していました。
12人いる孫に・・・とボールペンを所望され、イランのホテルのものを上げましたがそれで良かったかははて。
家の中の1部屋では夫人が絨毯を織り、その隣室には元教師の110歳のお母さんがいらして、
イランの典型な生活のひとつだと思われましたが、平均寿命に比して随分と長命なご一家でした。



ナインの町
実際に利用されている貯水池

シーア派7代目のイマームザーデ(聖廟)



イマームザーデ前の広場でお弁当を広げる家族の姿がありました。
イラン人にとってイマームザーデはモスクより身近で大切な宗教施設のように見受けられました。



ナインの町を3時前に出発、カナートの垂直作業孔の列、オリーブの苗畑など沙漠地の景色を車窓に見ながら、
2時間バスを走らせて、5時過ぎにイスファハンに到着しました。



イスファハンのコウサル・インターナショナル・ホテルではリバーサイドではない部屋もあったため、
N添乗員さんがテーブルに並べた鍵を自分で選ぶ方法で部屋が分けられましたが、
私の部屋からはザーヤンデ川にかかるライトアップされたスィー・オ・セ橋を見ることができました。




ホテルでの夕食はマス、シシケバブ、スパゲッティ・ミートソースのチョイス・メニューでしたが、
私の近くにはシシケバブを選んだ人はいないようでした。
スパゲッティはやはりイラン風で、この時はマスが正解だったのではと思いました。



夕食後、希望者7名でN添乗員さんとスィー・オ・セ橋まで30分ほどの散歩を楽しみました。
1602年にアッバース1世によって造られた長さ300m、幅14mのスィー・オ・セ橋(33のアーチ橋)は、
イスファハンを南北につなぐメインストリートでありながら車を通していない所が貴重だと思われました。




バスのおなかにアシスタントのレザーさんの水煙草休憩所があることを発見したり、
ペルシア的な雰囲気の中で、これから始まるイスファハン3連泊に期待が高まった夜でした。

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