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2014・2・25
 
東京〜松阪(松阪城跡・本居宣長記念館・御城番屋敷・樹敬寺)
                           
快速「みえ号」                                       松阪駅  

午前9時40分に品川駅から「ひかり507号」に乗車し、久し振りの東海道新幹線で名古屋へ向かいました。
先ず先ずのお天気でしたが、春霞でしょうか、大山も富士山も山容が見えない車窓で、
少しばかり物足りない1時間40分の車中となりました。

名古屋駅で紀勢本線に乗り換え、ホーム売店で駅弁を買って、快速「みえ7号」に乗り込みました。
一部、非電化区間があるということで、ディーゼル・カーの「みえ号」は、
長閑にというより、競合する近鉄電車に負けないよう馬力を振り絞るかのように、大きなエンジン音をたてて走りました。
翌日の新聞によると、PM2.5濃度が上昇したため、三重県にも注意喚起が発令されたそうで、
ぼんやりともやった景色と機械音のコンビネーションは、これから向かう古代神話の対極にある現実と思われました。


  

ともあれ、駅弁に旅気分を盛り上げてもらいながら、1時間余りの列車旅の後、12時45分に松阪駅で下車しました。
先ず、駅近くの宿泊ホテルへ荷物を預け、観光案内所で地図をもらってから、早速、街歩きに向かいました。




三重県のほぼ中央に位置する松阪市は、東西50km、南北37kmの広さ、人口17万人余りを有する南三重の中心都市です。
国内最古の土偶が出土した粥見井尻遺跡、西日本最大級の祭祀場を有する天白遺跡などの縄文遺跡、
国内最大の船形埴輪が出土した宝塚古墳などが、古来から伊勢平野における有力地域であったことを窺わせ、
奈良・平安時代には、都と東国、また伊勢神宮への道路網が開かれ、街道の街として発展していきました。
天正16年(1588)に蒲生氏郷が松阪城を築城し、江戸時代には紀州藩松阪領として経済的、文化的に繁栄、
現在も国道23号、42号、166号が交差する交通の要衝となっています。
                                         (松阪市HPより地図借用および記載事項参照)



国指定特別史跡「本居宣長旧宅跡」

観光案内所で入手したパンフレット「本居宣長コース 国学の道」をガイドに、「本居宣長旧宅跡」から「古事記の旅」を始めました。
地方の町によく見られるシャッターが下りた店が点在する(たまたまの定休日?)駅前商店街を歩いた先に、
伊勢神宮参宮の帰途に松阪に立ち寄った江戸の国学者・賀茂真淵と本居宣長が一度だけ対面し、
「松阪の一夜」として有名になった旅館「新上屋」の跡地や、
宣長が浜田藩主・松平康定に源氏物語を講釈したという本陣「美濃屋」跡があり、記念石碑を見ながら西へ向かうと、
有名な松阪牛店「和田金」(定休)や「牛銀」のほど近くに「本居宣長旧宅跡」がありました。



享保15年(1730)に生まれ、享和元年(1801)に没した本居宣長が12歳から72歳まで暮らした旧宅は、
永久保存のために明治42年(1909)に松阪城跡へ移築されていて、
長男の春庭(はるにわ)の旧宅や土蔵、宣長が愛したと伝わる庭の松が国指定特別史跡として残されていました。
当時のままに置かれた旧宅の礎石が家屋の大きさを伝えています。



「まどゐのやかた 見庵」

長谷川邸

「本居宣長旧宅跡」の向かい側には宣長の6歳年下の幼友達の小泉見庵の家、まどゐのやかた「見庵」がありました。
小泉家は代々の格式高い町医者で、見庵の父・見卓が、宣長の母・かつに宣長が医者の道に進むことを勧めたと言われています。
「見庵」の隣には江戸時代から現代に続く伊勢商人の繁栄の証しを残す唯一の建物とされる木綿商・長谷川治郎兵衛の本宅があり、
「本居宣長旧宅跡」のある一画は江戸の面影を留めた趣きある佇まいを見せていました。
「見庵」は土・日、「長谷川邸」は申込制(4月からは公開日のみ自由観覧)で内部見学ができるようです。



松阪城門跡

松阪市立歴史民俗資料館

市役所前を通って、松阪城跡へ行くと、表門から少し入った所に松阪市立歴史民俗資料館がありました。
国の登録有形文化財とされるこの建物は、明治43年(1910)に皇太子の飯南郡視察を記念して飯南郡図書館として建造された後、
昭和52年(1977)まで松阪市立図書館として使われ、翌年に内部改修を行って歴史民俗資料館に生まれ変わったそうです。
ここも臨時休館に当たってしまい、歴史を感じる和風建築の外観だけを見学しました。



蒲生氏郷が開府し、築城、楽市楽座、街道の整備、商人誘致など行って、発展の基礎を創った松阪の街並みを
野面積みの石垣が当時のままに残る城壁の上から展望、うっすらと堀坂山(伊勢富士)などの山並みを見ることも出来ました。
月見櫓跡、本丸跡、天守閣跡などを回った後、右写真の下方に見える本居宣長の旧宅と記念館へ向かいました。



本居宣長の旧宅は祖父・小津定治が元禄4年(1691)に職人町に建てた隠居屋敷を享保11年(1726)に魚町に移築、
宣長が父を亡くした翌年の12歳(1741)から母弟妹と共に生涯を過ごした住居です。
医学を修めるために23歳で京都に上った宣長は、姓を商家である小津から武家時代の本居に改め、
26歳で名を栄貞から宣長に、号を春庵として、28歳で松阪へ戻って医者を開業しました。

右写真の2階に見えるのが、「古事記伝」の執筆が半ばを過ぎた53歳の宣長が物置を改造して増築した4畳半の書斎で、
茶室風の床の間に赤い糸で結んだ36個の鈴をかけた「柱掛鈴」(はしらかけすず)を飾ったことに因んで、
「鈴屋」(すずのや)という呼称が、宣長の学業と共に全国的に喧伝されていったと言われています。
書斎内部に入ることは出来ず、旧宅に面した高台から旧宅の全容を展望するようになっていて、
忌日に恩師を偲んだという自筆軸「縣居大人之霊位」(あがたいのうし=加茂真淵)が床の間に掛かっているのが見られました。
「松阪の一夜」の後、賀茂真淵から通信教育や蔵書の借覧を受けて、宣長は「古事記」研究の基礎を築いていったそうです。



元々は隠居屋敷として建てられた住居は、「中の間」の前に坪庭を配しているところが当時の商家とは趣きを異にしていて、
宣長は通りに面した「店の間」で医業を行い、夜は「奥中の間」で古典解釈や歌会を開いたと伝えられています。
客人の待合室としても使われた「中の間」横の格子戸を身体をかがめて入ると台所へと続いていました。



「鈴屋」へ上る箱階段のある「3畳の間」やかまどが往時のままに残され、江戸時代の町家の様子を実感することができました。
現在地への明治42年の移転以来、鈴屋遺蹟保存会が「本居宣長旧宅」の保存に関わっていて、
昭和45年(1970)に本居宣長記念館が開館するまで、郷土資料室や松阪市史編纂室として使われた鈴屋遺蹟保存会の旧事務所も
国登録有形文化財として残されていました。



鈴屋遺蹟保存会の旧事務所「桜松閣」

鎌倉時代初期の大仏建築の細部意匠を基調に作られた旧事務所の唐破風玄関や正門の建築には、
名古屋高等工業学校教授の土屋純一、神宮司庁営繕事務嘱託の奥野栄蔵の両氏が関与したと言われています。
昭和63年(1988)に茶席「桜松閣」として開所した旧事務所は、現在は土・日・祝日の営業となっているようです。



本居宣長六十一歳自画自賛像


本居宣長記念館展示室

国重要文化財 「古事記伝」再稿本

「古事記伝」と版木

収蔵品総数16000点を超えるという本居宣長記念館へ行き、展示室を見学しました。
草稿本や板本に近い美しい文字で書かれている再稿本、ヤマザクラの版木など「古事記伝」のオリジナル品を見て、
35年の歳月を費やして古事記注釈書全44巻を完成させた宣長の業績に改めて目が開かれるようでした。
最初は長男の春庭、春庭失明後は宣長、宣長没後は門下生や一族によって版下(版木下書き)が作られ、
後に宣長門下となる名古屋の植松有信によって彫られた版木は、現在も、一枚残らず保存されているそうです。
日本書紀の「からごころ」(漢意)を退け、古事記の「やまとごころ」を称揚した宣長の功罪は今も議論を残す所のようですが、
そのことが宣長の研究の偉大さを損ねることにはならないことは言を俟たないことと思われます。


薬箱、薬匙、乳鉢などの医療品

文机

柱掛鈴

宣長の著書、蔵書、医療品、文机、蒐集した古鈴などの遺品の数々も数多く展示されていました。
また、2013年冬の企画展として「やちまた−父と子の旅−」が開催されていて、
「松阪の一夜」と同じ年、宝暦13年(1763)に生まれた長男・春庭と父・宣長をテーマにした展示も見ることが出来ました。
後継者として英才教育を受けた春庭は、29歳で患った眼病で32歳の時に失明してしまい、
宣長が迎えた養子に家督を譲るという境遇に陥ってしまいますが、針医のかたわら、妻や妹に支えられて歌や詞の研究に打ち込み、
動詞活用の研究書「詞の八衢」(ことばのやちまた)などの業績を残すことになりました。
春庭の業績は、屏風の下貼りから「詞の八衢」の稿本を発見した足立巻一氏によって、小説「やちまた」に描かれているそうで、
足立巻一氏の創作ノートなどの資料も見ることが出来ました。



本居宣長ノ宮

常夜灯

松阪城跡に隣接する四五百森(よいほのもり)に「本居宣長ノ宮」がありました。
本居宣長が眠る山室山の奥墓の隣に明治8年(1875)に作られた「山室山神社」が、
明治22年(1889)に殿町へ遷座、大正4年(1915)に現在の四五百森に遷され、昭和6年(1931)に「本居神社」、
平成7年(1995)に「本居宣長ノ宮」と改められたという変遷を辿った神社です。
松阪の誇り「宣長さん」が祀られている神社は、遥拝して?写真だけを撮ってきました。

城跡の裏門近くの石垣に沿って、安永9年(1780)、文政6年(1823)に作られ、昭和に入って移設された常夜灯2基があり、
城跡に歴史的景観を添えていました。



常夜灯が設置されている場所のほど近くに、「御城番屋敷」と呼ばれる一画がありました。
「松阪御城番」という役職の紀州藩士20人が家族と住んだ武家屋敷は文久3年(1863)に建造されたもので、
道路をはさんで2棟、各棟10戸ずつの長屋となっていて、一戸あたりの建坪は約32坪とのことです。
切り揃えられたマキの生け垣と石畳が美しい類を見ない景観は、平成16年(2004)に国指定重要文化財となり、
平成20年(2008)より3年の歳月をかけて保存修理工事が行われたそうです。



現在も子孫の方々が維持管理を行い、13戸は借家として利用されていますが、その中の1戸を松阪市が借り受け、
内部が平成2年(1990)より一般公開されています。



明治35年(1902)に全国に先駆けて開校した応用化学専攻の5年制工業学校は、
実験に使用する硫化水素によって建物の塗料が黒変すると考えられ、変色しない朱色の硫化水銀で外壁が塗装されて、
赤壁(せきへき)という愛称で呼ばれていたそうです。
写真は現存する唯一の赤壁校舎で、明治41年(1908)竣工の旧三重県立工業学校の製図室です。

歴史的建造物や少し入り組んだ道沿いにマキの生け垣を持つ古い住居が点在する同心町(現在は殿町)を散策しながら、


松阪散策の最後に立ち寄ったのが、本居宣長一族の菩提寺である樹敬寺(じゅきょうじ)です。
建久6年(1195)に松ヶ島町に不断念仏寺という号で建立、享禄元年(1528)に再建されて樹敬寺と改称し、
天正16年(1588)に現在地へ移転された樹敬寺は、
享保元年(1716)、明治26年(1893)に大火で消失、明治35年(1902)に再建された浄土宗のお寺です。


  
宣長夫妻の墓                                         春庭夫妻の墓

本堂裏の墓地に国史跡指定を受けた宣長夫妻と春庭夫妻の墓が背中合わせに立っていましたが、
宣長の遺骨は山室山の奥墓に葬られていて、ここにあるのは墓石だけと言われています。

観光案内所で「2時間あれば回れます」と聞いた通り、3時半頃には「本居宣長コース 国学の道」周遊を終えて、
ホテル「エース・イン松阪」へ向かいました。


予想よりかなり早いチェックインになり、「泊まるだけだから」と利便性、経済性を優先したビジネスホテルは
寛ぐには狭すぎ・・・という結果となってしまいましたが、
途中で買って来た松阪名物「天輪焼き」(今川焼に類似)で一服した後、昼寝をして旅の初日の疲れを休めました。


 

6時ごろホテルを出て、レセプションで勧められた近くの松阪牛焼肉店「千力」で夕食をとりました。
焼肉店事情に疎いため、お手軽に、ロース、上カルビ、赤身カルビとホルモン4種という「焼肉三昧」コースを頼みましたが、
何といっても松阪牛だから、と少し頑張ったホルモン初体験となりました。
やはり普通の部位がいいと思いつつ、一緒に焼いた野菜や追加注文したクッパの写真は撮り忘れてしまいました。



1時間余りで夕食が終わりましたので、街の中心を少し歩いてからホテルへ戻りました。
少し寂れた現代の顔と、歴史ある古い町の顔と、松阪の両面に触れながら、収まりの悪い思いも去来した夜でしたが、
それら両面に触れること、そのことが、「旅する」ことなのだとも思われました。



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