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2014・2・26
松阪~伊勢(豊受大神宮・月夜見宮・倭姫宮・月讀宮・猿田彦神社・皇大神宮)
~天の岩戸~伊雜宮~横山展望台~賢島

                           

外宮表参道 火除橋(ひよけばし)

清盛楠

旅の2日目、お伊勢参りの日はまずまずのお天気に恵まれました。
レンタカーは9時に予約をしていたのですが、8時前に電話をすると早めても大丈夫ということで、8時にホテルを出て、
松阪駅前でレンタカー会社の出迎えを待ち、営業所で手続きをして、8時35分には伊勢へ向けて出発することができました。

国道23号線を南下して、外宮先祭(げくうせんさい)というしきたりに従って、先ずは伊勢神宮外宮を目指しました。
30分余りで外宮に到着、併設の広い駐車場に車を止めて、表参道から参拝に向かいました。
火除橋を渡ると、左手に手水舎、右手に天皇に代わって参拝した平清盛の冠にさわったために枝が切られたといういわれを持ち、
昭和34年(1959)の伊勢湾台風で中央が裂けて二又になった清盛楠がありました。

  
第一鳥居                  鳥居に飾られた榊                  第二鳥居


神楽殿

九丈殿と五丈殿

第一鳥居、第二鳥居を抜けて、神楽殿や雨天時のお祓いや外宮の摂社・末社の遥祀(ようし)に用いられる九丈殿や五丈殿を見ながら
参道を進むと右手に御正宮が見えて来ました。




外宮の正式名称は豊受大神宮で、天照大御神に食事をお供えする御饌都神(みけつかみ)である豊受大御神を御祭神として、
今から1500年ほど前、雄略天皇22年に伊勢に遷座されたと伝えられています。
昨年の第62回式年遷宮で、地図の右上、新御敷地(しんみしきち)に新しい御正宮が建てられていました。



木の香がにおい立つような清々しい御正宮は、板垣、外玉垣、内玉垣、瑞垣という四重の御垣が巡らされていて、
板垣を入って、外玉垣南御門の白絹の御幌(みとばり)の前で一般参拝を行うようになっていました。
大地の神、豊穣の神である豊受大御神は、衣食住をはじめ、すべての産業の守り神といわれ、
ご神前では個人的なお願いではなく、感謝を捧げるのがよいとされています。


古い御正宮

持統天皇4年(690)に始まり、戦国時代の130年の中断を経て、20年ごとに行われて来た式年遷宮は昨年62回目を迎えました。
社殿の尊厳を保ち、技術を伝承するために合理的な年数が20年である、19年7か月に一度訪れる朔旦冬至という暦学による、
稲の最長貯蔵起源が20年であるなど、式年遷宮の由来には諸説あるようですが、
原初を繰り返すことによって、永遠性を得るという思想や祭り事は日本人の心情に適う要素があるのだろうと思われます。 

茅葺屋根や素木で造られた社殿が20年間で古び果て、神が遷座された後の空虚さが漂っている様子には、胸を衝かれるものがありました。
天皇・皇后陛下が今月(3月)25日から参拝された後、古い御正宮は取り壊されますが、
御正殿の棟持柱を削り直して宇治橋の二つの大きな鳥居にするなど、古材は全国の神社で再利用されていくのだそうです。

式年遷宮のご用材や、江戸時代には年間数百万人が訪れたというおかげ参り参拝者などによって消費された薪や炭によって、
神宮の背後は禿山となり、水害も起きるようになったことから、大正12年(1923)に学識者を交えて、
景観の保全、水源の涵養、ご用材の育成を目的とした森林再生計画が立てられたそうです。
その成果もあって今回の御遷宮では鎌倉時代から7~8百年振りに、ご用材の24%が神宮林から供給できたと言われています。
神宮所管の5500haの広大な敷地の3000haに檜を植林、広葉樹も混ぜて保水力を高めた混交林が神宮の森を形成しています。


三ツ石

亀石

遷宮の時にお祓いをする三ツ石や天岩戸伝説のある高倉山(外宮の山域の総称)古墳の入口にあったという亀石と呼ばれる石橋など
御正宮前の御池周辺にはいわれのある石が置かれて、万物に神が宿るという神域らしさを見せていました。



多賀宮(たかのみや)

全国の約8万の神社の頂点にある日本人の総氏神である伊勢神宮は、
内宮、外宮がそれぞれに持つ別宮、摂社、末社、所管社125社を合わせた総称で、正式名称を「神宮」としています。

御正宮についで特別とされる別宮が外宮には宮域内に3宮、宮域外に1宮ありますが、
豊受大御神の荒御魂(あらみたま=行動的な神格で、穏やかな和御魂と対比される)を祀る多賀宮は外宮第一の別宮とされています。
石段を100段ほど上った高台に祀られていることから、明治時代以前には高宮と書かれることが多く、
このお宮に鳥居がないのは御正宮とつながっているからとも言われますが、正確な所は不明とされています。


風宮(かぜのみや)

風宮は風の神、級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀る別宮で、
農業にかかわりの深い風雨を司る神様です。
鎌倉時代の2度の元寇の折、神風で国難を救ったのがこの風宮と内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)と言われています。
また伊勢湾台風の時、大木の倒木によって風宮だけ屋根が折れたことを、自ら被害を引き受けて神宮を守られたと
当時の人々は語り合ったと伝えられています。
社殿横に小さな覆屋が置かれた古殿地と呼ぶ敷地があり、同じ形の社殿が建てられる場所であることが分かります。

土宮(つちのみや)

外宮一帯の土地の守り神、大土御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀るのが土宮です。
平安時代末期に宮川の氾濫におびやかされた時、堤防の守護神として信仰され、末社から別宮に昇格したそうです。
他の別宮は南向きですが、土宮だけ東向きに建てられている理由は分かっていません。


下御井神社(しものみいのじんじゃ)

神宮には高天原の天の忍穂井(おしほい)から種水をいただいたと伝わる御井があり、
御正宮の森の奥にある一般参拝の出来ない上御井で毎朝、大御神にお供えする水を汲むそうですが、
万一の時に備えている御井が下御井で、神社は双方とも同じ形をしていると思われます。


北御門鳥居を抜け、時には神馬が見られるという御厩(みうまや)前を通って、裏参道から北へ向かい、
宮域外の別宮である月夜見宮(つきよみのみや)へ行きました。



神様の通い路であったと伝えられる神路通りは、両側に民家や小学校が並ぶ整備された直線道路で、
古い麹味噌造りのお店や古民家が懐かしい風情を見せる一画でした。


  

軒先に注連縄を飾る家が多く見られ、伊勢を訪れた素戔嗚尊が快く宿を貸してくれた蘇民へのお礼として渡した子孫繁栄、厄除けの
「蘇民将来子孫家門」(同様の伝承が全国各地にあるようです。)という門符が伝統的なもののようですが、
それを略した「将門」が平将門を連想させるため、また笑う門には・・・の意味を込めた「笑門」や「千客萬来」など、
バリエーションのある縁起物の注連縄は、1年中飾っておくのがこの地方の風習のようです。



月夜見宮入口

祓所と手水舎

月夜見宮は天照大御神の弟神である月夜見尊と月夜見尊荒御魂を御祭神とし、
太陽にたとえられる姉神に次ぐ威徳を持つ夜之食国(よるのおすくに)をおさめる月になぞらえた神とされています。
クスノキ、ケヤキ、スギなどの深い森の中の神社は、神域らしい静けさに包まれていました。



月夜見宮

高河原神社

月夜見宮には月夜見尊と月夜見尊荒御魂が合わせて祀られていて、
伊勢市の中央に位置し、古くは高河原と呼ばれた地に鎮座し、農耕と深いかかわりを持つ摂社の高河原神社も並んで立っていました。



外宮へ戻り、外宮から5kmあまりに位置する内宮まで車で向かう途中、御幸道路沿いに点在する神社にも立ち寄りました。

最初に立ち寄ったのが内宮の別宮である倭姫宮(やまとひめのみや)です。
第11代垂仁天皇の皇女であった倭姫は、第10代崇神天皇皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の後を継いで、
皇大御神(すめおおみかみ)に御杖代(みつえしろ)として奉仕され、大和から伊賀・近江・美濃などを経て、伊勢の国に入り、
御神慮によって皇大神宮(内宮の正式名称)を創建されたと伝えられています。
神嘗祭とはじめとする年中の祭り、神田や各種ご料品を奉る神領の選定、神職の職掌規定、所属の宮社制定など、
神宮の祭祀と経営の確立に寄与された功績をたたえる倭姫宮が創建されたのは、
大正初年から始まった創立の請願が許可された後のことで、大正12年(1923)11月5日に御鎮座祭が行われたそうです。



倭姫宮は倉田山と呼ばれる4haの広々とした森を宮域とし、御神楽やお札などの取次ぎをする宿衛屋、祓所、手水舎、祭器庫を
御社殿のまわりに配した佇まいは、建造は新しくても、古い由緒を感じさせるものでした。


倉田山の一画には明治30年代に有栖川宮を総裁に国家事業として進められ、迎賓館なども手掛けた片山東熊の設計による
明治42年完成の日本初の私立博物館「神宮徴古館」がルネサンス様式の端正な姿を見せていました。
現在は「おおみやうつし」展として、式年遷宮の撤下御神宝や祭祀にかかわる展示がされていたようですが、
隣接する神宮美術館、神宮農業館、神宮文庫とともに観覧は割愛しました。



次に訪れたのが月夜見宮と御祭神を同じくしていますが、月讀尊と別文字を用いる内宮別宮の月讀宮(つきよみのみや)で、
向かって左から、伊佐奈弥宮、伊佐奈岐宮、月讀宮、月讀荒御魂宮と4宮が並び立っていました。
古くは一囲いの瑞垣に祀られていた4宮が、現在見られるようにそれぞれに瑞垣が巡らされたのは明治6年のことで、
月讀尊、月讀尊荒御魂、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が一般的な参拝順と言われています。



前面の古殿地に新しい社殿が造営されている様子も垣間見られました。
遷宮の造営順は神社の格によって定められ、古材が全国に行きわたるまでにはかなりの数年を要することと思われました。


猿田彦神社

佐瑠女神社

天照大御神の孫、邇々杵命(ににぎのみこと)が地上へ降臨した時に道案内をした導きの神である猿田彦大神を御祭神とする
猿田彦神社にも立ち寄りました。
猿田彦大神は昨年の春に訪れた島根県の新潜戸で生まれたという伝説が懐かしい神様です。
境内の一画には神楽を舞って、天岩戸にこもられた天照大御神を誘い出した天宇受賣命(あめのうずめのみこと)を祀る
佐瑠女神社(さるめじんじゃ)もありました。


  
車輌修祓所                             本居宣長の石碑

導きの神として交通安全を祈願する車輌修祓所や、寛政11年(1799)に本居宣長が伊勢参宮の折に、
猿田彦大御神の子孫である宇治土公家に逗留した時に当主の定津神主に贈った歌、
「神世より神の御末とつたへ来て 名くはし宇治乃土公わが勢」と刻んだ石碑もあり、神宮とは違う趣きを持った神社でした。


  
岸信介                  吉田茂

12時過ぎに猿田彦神社を出て、御幸道路を内宮へ向かいました。
沿道には昭和30年(1955)頃、民間団体「伊勢三宮奉賛献灯会」が寄付を募って建立したという400基を超す石灯篭が設置され、
参道らしい景観を見せていましたが、道路の占有、耐震性など、解決をみない問題が浮上しているようです。
猿田彦神社の周辺で駐車場の呼び込みがありましたが、それにのりたくない気分があり、内宮併設駐車場にこだわったため、
駐車待ち55分という憂き目にあってしまいましたが、とろとろと車を動かす車窓から、
石灯籠に刻まれた政財界の法人や個人の名前を読むことができました。



1時過ぎに駐車して、本来なら、参拝後に直会(なおらい)というのが正しい順序のようですが、
少々失礼して先に昼食をすませようと、おはらい町通り(旧参道街道)へ行きました。
2月の週日とは思えない人出に驚きながら、通りの中ほどにある「すし久」で伊勢地方の漁師料理「鰹のてこね寿司」を頂きました。
明治2年(1869)の式年遷宮時の宇治橋の古材で建てられ「すし久」の建物は、民間唯一の神宮古材の下賜例と言われています。



「平膳てこね」


一生に一度は訪れたい庶民の憧れの地といわれて来た伊勢では、
御師(おんし)と呼ばれる神職が全国から集まる参拝者のお祓いや御祈祷を行い、御師が紹介または経営する宿が
最盛期には800軒あったと伝えられています。
内宮前の門前町にも多くの御師が神楽殿を構え、お祓いなどを行っていたため、
「おはらい町」と呼ばれるようになった一帯は、宇治橋から五十鈴川沿いに800mほど続く石畳の通りに
神宮司庁(祭主職舎)、神宮道場などの歴史的建造物や、切妻や入母屋屋根、妻入り様式の商店が並び、
賑わいの中に歴史を感じさせる独特な風情を見せていました。



太鼓櫓

御木本真珠店

おはらい町の中ほどに、平成5年(1993)にオープンしたおかげ横丁がありました。
江戸末期から明治初期にかけた伊勢が最も賑わった時期の町並みを再現したといわれる横丁は赤福本店の経営になるもので、
2700坪の敷地に歴史館「おかげ座」や土産物店、味処が軒をつらねていました。



宇治橋


手水舎

御手洗場(みたらし)

2時過ぎに宇治橋を渡って、神路山と島路山、五十鈴川に囲まれた神苑へ入って行きました。



天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を御祭神とする内宮は皇大神宮を正式名とし、
垂仁天皇26年の御鎮座と伝えられています。
御鎮座の年代を神宮の概要は「およそ2千年前」としていますが、垂仁天皇期とすれば3世紀末とする説、
壬申の乱によって大海人皇子が皇位に就いた天武天皇期から次の持統天皇期の7世紀末が妥当とする説など諸説あるようです。



滝祭神(たきまつりのかみ)

神楽殿

四至神(みやのめぐりのかみ)

御贄調舎(みにえちょうしゃ)

五十鈴川の守り神である滝祭神や神楽殿を見ながら、表参道を御正宮へ進んでいくと、
宮の四方の境界を守る内宮の所管社とされる石神様の四至神や、
内宮のお祭りの時、豊受大御神をお招きして、鰒(あわび)を調理する儀式が行われる御贄調舎がありました。
御贄調舎には豊受大御神の御神座である石畳に石神が祀られている様子が見られます。



御正宮 外玉垣南御門

内宮の御正宮は階段上の板垣南御門を入って、外玉垣南御門前で参拝した後、一方通行で階段を下りるようになっていました。
階段上では写真撮影も禁止されていて、五重の御垣に囲まれた御正宮の神聖さを守っているようでした。



御稲御倉(みしねのみくら)

外幣殿(げへいでん)

米の稲魂(いなだま)を祀り、神宮神田で収穫した御稲(みしね)一年分を籾のまま保存する御稲御倉や御神宝を納める外幣殿は、
唯一神明造りと呼ばれる伊勢神宮独特の建築様式を間近かに見られる建物です。
弥生時代の高床式穀倉を原型とし、柱を直接地中に埋める掘立式、切妻造りの平入り、茅葺屋根、総檜の素木造り、
太い棟持ち柱が両妻を支え、屋根の両妻にある破風が屋根を貫いて千木となり、屋根の上に鰹木を置き並べていることを特徴とし、
神宮建築を初めて世界に紹介したドイツの建築家ブルーノ・タウトは「世界建築の王座」と讃えたと言われています。



御正宮近くの高台に天照大御神の荒御魂を祀るの荒祭宮(あらまつりのみや)がありました。
神嘗祭に並ぶ由緒を持つ神様の衣替えといわれる年2回の「神御衣祭」(かんみそさい)は御正宮と荒祭宮のみで行われること、
外宮の多賀宮と同じく鳥居を持たない神社である所に内宮の第一別宮とされる所以が潜んでいるようでした。


御酒殿(みさかどの)

由貴御倉(ゆきのみくら)

神宮の重要なお祭りの時にお供えする4種のお神酒、白酒(しろき)、黒酒(くろき)、醴酒(れいしゅ)、清酒を納める御酒殿や、
内宮の所管社のひとつとされる由貴(=限りなく尊い)御倉は、20年前の姿のままでこれからの造り替えを待っているようでした。



風日祈宮橋

風日祈宮(かざひのみのみや)

五十鈴川の支流、島路川にかかる風日祈宮橋を渡った静かな森の中に風日祈宮がありました。
外宮の風宮と同じ2神を御祭神とする神社で、「風日祈」は古来、7・8月の2か月の間、毎朝夕に風雨の災害のないことを祈る神事が
行われていたことに因み、現在は5月14日と8月4日に集約して風日祈祭を行なっているそうです。
お賽銭を回収する二人の神官の姿が見られました。



火除橋

外御厩

御池から五十鈴川への流れの上にかかる火除橋を渡り、毎月1・11・21日に神馬牽参が行われるという御厩を見ながら、
参拝者用無料休憩所となっている参集殿で一休止しました。



式年遷宮の山口祭などでは白い鶏が籠に入れてお供えされ、祭典後に域内に放たれるそうです。
かってはたくさんいたという神鶏もまた、式年遷宮によって復活していくのかもしれません。



大山衹神社(おおやまつみじんじゃ)

子安神社

内宮参拝の最後に、神路山の入口を守る山の神、大山衹神社と大山衹命の娘神、木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る
子安神社にお参りしました。いずれも内宮の所管社となっています。

なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる          西行
Here,in this holyplace,I feel the underlying unity of all religions.      Arnold Toynbee  29 November,1967

伊勢神宮とは何かを知ることにエネルギーを使い過ぎて、感じる力の足りないお伊勢参りになってしまいましたが、
残された先人の言葉や見聞したことを記憶に留めて、いつか再訪することがある時には、静かに心からの参拝をしたいと思いました。



3時半に内宮を出発して、伊勢道路を南へ向かい、カーナビには表示されなかったために、迷って後戻りしたりしつつ、
結局、道路標識に助けられて、30分程で天の岩戸に到着しました。
天照大御神が素戔嗚尊の悪事をいさめるために姿を隠された伝説の天の岩戸が全国にいくつあるのか分かりませんが、
かっては裏の五十鈴川と呼ばれた神路川(現在は神路ダム)へ注ぐこの地の天の岩戸の湧水は、
日本名水百選として人気を呼んでいるそうです。
日本人らしい自然信仰の典型例のひとつと見受けられました。



天の岩戸を出て、15分で磯部町にある内宮別宮の伊雜宮(いざわのみや)に着きました。
倭姫命が御贄所(みにえどころ=皇大神宮へ奉る御供物を採る所)を定めるために志摩国を巡行された時に、
伊佐波登美命(いざわとみのみこと)が奉迎して、天照坐皇大御神の御魂をお祀りするために創建したと伝えられる神社です。
人けのない社殿前でお会いした神職から、これから始まる御遷宮のお話などを伺いました。
この日一日で、伊勢神宮の別宮14か所のうちの12か所を回りましたが、
伊雜宮と共に遥宮(とおのみや)と呼ばれる瀧原宮、瀧原竝宮は少し離れた場所にあるために、今回は行くのを諦めました。



伊雜宮の南側に住吉大社、香取神宮と共に日本三大御田植祭が行われることで有名な御神田がありました。
毎年6月24日に行われる「磯部の御神田」は志摩地方随一の大祭で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
神殿のない所で神事を行う時に用いるという木皮を残した珍しい黒木鳥居が作付面積1643㎡のご料田を見守っていました。

                                             参考:「伊勢神宮」(楽学ブックス 神社1 JTBパブリッシング)
                                        「伊勢神宮」(所 功 著 講談社学術文庫)
                                          「古事記を旅する」(三浦 佑之 著 文春文庫)



さらに30分程南下して、標高203mの横山展望台に立ち寄りました。
日本最古の地質が年代順に規則正しく並んでいるという志摩地方のリアス式海岸の景観は素晴らしいものでしたが、
お天気が今一つだったことが残念に思われたミシュラン・グリーンガイド一つ星の展望でした。


横山展望台からも遠望することが出来た「志摩観光ホテル・クラシック」に5時45分にチェックインしました。
昭和天皇をはじめ、多くの賓客を迎え、「華麗なる一族」(山崎豊子作)でも有名になった昭和26年開業のホテルは、
設備は新しいとは言えませんが、ゆったりとした風格が感じられ、真珠養殖を行う英虞湾を見下ろすロケーションも良かったのですが、
曇っていたために評判の高い美しい夕日に出会うことは出来ませんでした。

6時半からレストラン「ラ・メール クラシック」で夕食、実は今回の旅の「宿泊招待券」(近鉄伊勢志摩ボンド)をいただいたのがこのホテルで、
ご招待食事には期待をしていなかったのですが、名高いフランス料理のラインナップを充分に堪能させていただくことができました。


  

  

伊勢海老・鮑のテリーヌ、伊勢海老クリームスープ、黒鮑ステーキ 2色ソース、牛フィレ肉ステーキ きのこのシャスールソースを
お口直しの生野菜やシャーベットをはさみながら、フルコースでいただきました。
開業間もないころから作り続けられているという伊勢海老クリームスープや黒鮑ステーキをゆっくりと賞味し、
1時間半の豊かで、幸せなディナータイムを過ごさせていただきました。


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