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  Apr 13 2005
Alexandria〜Borg El Arab〜El Alamein〜Marsamatruh〜Tubrug 
 
 

アレクサンドリアのホテルを7時に出発し、リビアのトゥブルグまで600kmバスを走らせました。
地中海沿いに延々と続く土漠を走る車窓に、ニュータウンやリゾートタウンがしばしば見られましたが、
作りかけのまま放置されたような建物が沢山ありました。住宅政策の失敗なのかもしれません。
右画像の穴がいっぱいのドーム状の物体は、市街地でも砂漠地帯でもよく見受けられた鳩小屋です。
一つの小屋に100羽ほどが食用として飼われているようです。

 
 
アレクサンドリアから40km程のボルグ・エル・アラブ(アブシール)に、数年前にハンガリー人によって
発掘されたというタワーがありました。古代灯台構造の外見から、初めは灯台跡と言われたようですが、
祭のシーンのモザイク画から墓地であることが分かったそうです。

このバス移動には、ガイドの他、セキュリティ・ポリスやリビア国境からカイロまで引き返す時の運転手など
いろんな人が同乗していました。まだまだいろんなものが出て来そうな広大な砂漠地帯のこのあたり、
セキュリティの目を盗んでちょっと掘ってみたい人がいてもおかしくありませんが、
団体旅行ではとうてい無理ですね。(興味のある方は個人旅行で、とそそのかしたりはしないですよ。)
右端はアシスタント・ガイドの22歳のモーメン君。日本語ガイドの資格を取るために勉強中だそうで、
Kガイドさんの説明をメモを取りながら熱心に聞いていました。 (もしかしたら私達以上に?)
 

   
   
第2次世界大戦ヨーロッパ戦線の激戦地エル・アラメインに寄りました。
最初に立ち寄ったのがイギリス軍戦没者墓地で、ニュージーランド、オーストラリア、インドの兵士も合わせて
名前が刻まれているそうです。1942年10月23日から11月4日までの戦いの戦死者は13500人とか。
16世紀以来続いた植民地戦争の終焉、大英帝国最後の花火と言われるこの戦いによって、
イギリスはアメリカ、ロシアと対等になれたと言われています。
自ら主導した戦いを、「北アフリカの開放は戦争の終わりの始まりではない。単に始まりの終わりである。」と
チャーチルは回顧録に誇り高く書き表しているそうです。
   
 

第2次世界大戦から、中東戦争までを展覧する国立軍事博物館にも寄りました。
庭には戦闘機、戦車、自走砲などが並べられ、館内はイギリス、ドイツ、イタリア、エジプトと国別に、
様々な軍事品、説明パネルなどが展示されていました。
左側のドイツ軍ロンメル将軍の写真の上の勲章、双眼鏡、軍帽、マフラーは本物だそうです。
右側のモンゴメリ司令官率いるイギリス軍が、ドイツ軍の暗号を解読していたという事実は
1970年代まで秘密とされていたそうです。
戦後60年を経た今、ドイツが第2次大戦の再検証をしているという新聞記事もつい最近読みました。

 
 

「もう一箇所、ドイツかイタリアの慰霊地に寄ることが出来ます。」という添乗員Hさんの提案に
多数決の挙手をした結果、イタリア慰霊地の方に寄ることになりました。
大きなアーチのゲートを入り、両側に夾竹桃などが咲く長い並木道を進んだ奥に慰霊廟が建っていて、
内部の壁一面に戦没者名を刻んだプレートが貼られていました。
やはりデザインの国、イタリアのお国柄を感じさせる作り方でした。

 

   
 

左はマルサマトルーハの浜辺で、その昔にはクレオパトラも訪ねて来たと言われる所です。
今はアラブ人のリゾート地というこの浜辺に面したレストランでの昼食後、白い砂浜を少し歩きました。
右はKガイドさんご推奨の景勝地、アギーバの断崖です。
砂漠続きの道中の気分転換にとエジプト最後の寄り道となった所です。

それにしてもこの海の色を信じていただけるでしょうか。本当にこのような色をしていたのですよ!
トルコブルーとコバルトブルーの海、とでも表現するのでしょうか。
これは何!?と驚嘆する地中海の色との出会いでした。

 
 

オスマントルコの時代にはマルサマトルーハから50km地点がエジプトとリビアの国境だったそうですが、
1938年にイギリスとイタリアの間の合意で決められた230km地点のサルームが現在の国境となっています。
左の写真の海抜137mの段丘の上が国境ということですから、平坦な砂漠の中より警備も楽ですし、
分かりやすいと考えるのは他国人の無責任さでしょうか。リビアは日本の4.6倍もの国土面積を持っています。
(エジプトとリビアの国境がまっすぐな直線であることにも驚かされます。)
右は段丘を登る途中にエジプト側を振り返って撮った写真です。

国境ゲートでKガイドさん達と別れ、無事エジプトを出国。彼らは同じ道を10時間走ってカイロまで戻ります。
リビア入国はちょっとドッキリする荷物検査などありましたが、手続が比較的順調に進み、
韓国製の観光バスに乗り換え、120kmの夜道を走って、9時前にトゥブルグのホテルに到着しました。
電気がつかないかもしれない、エレベーターは故障の可能性ありとおどかされていたリビア最初のホテルは、
立派な外見がかえって侘しさを誘うような寒々しい館内でしたが、
諸々の設備は一応、普通に機能してくれました。

 

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