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Feb 10 2004

Ragusa〜Noto〜Siracusa
   
++ラグーサ・スペリオーレ地区の街並み++
ラグーサは深い峡谷に囲まれた二つの丘で出来ている街です。
1693年にシチリア史上最大の地震が(この辺りの揺れはロサンゼルスと連動するとか。)
シチリアの南東部一帯を襲った時、復興計画を巡って東西の丘は対立し、
今世紀初頭まで市の機能が分裂したままだったそうです。
しかし石油やアスファルト、タール石が採れ、経済的に豊かなことから、
ラグーサはとても治安が良く大らかな街だと説明されました。

 写真は西側の大きい方の丘、スペリオーレ地区の宿泊ホテルからの景観です。
この地区は震災後、街路が整然と碁盤の目のように張り巡らされたそうで迷うことはなさそうですが、
ホテル周辺で少しの買物をする時間の余裕しかなかった為、確かめることは出来ませんでした。

 

++ラグーサ・イブラ地区++
ラグーサ東側の丘にあるイブラ地区です。
こちらはアラブの迷路のような街並みが残っていて、右上のような階段坂が生活の移動手段になるようです。
人一人通るのがやっとというような抜け道もありました。

 震災後ローマ・バロックの影響を受けて生まれ変わった街には、
ロザリオ・ガリアルディの代表作と言われる(1739年)サン・ジョルジョ大聖堂(左下写真・正面)や、
右下のようなバロック彫刻のバルコニーを持つ貴族の館がありました。
バルコニーの金属部分の曲線は女性のドレスのふくらみに合わせているのだそうです。

 




++ノート市街++
ノートは1693年の震災後、瓦解した旧市を見限って、東南に10キロメートル程離れた場所に、
都市計画されて作られたバロックの街です。建設には100年が費やされたそうです。

左側は学校のようで、建物の中から生徒が数人ずつ下校して行きました。
右側は‘家事をしない’といわれるシチリア男性の井戸端会議のご紹介ではなく、S.P.Q.Nのご説明。
紀元前509年に共和制が打ち立てられて以来、元老院とローマ人民という意味のS.P.Q.Rという文字が
交通標識からマンホールに至るまでローマの公共物にはすべて刻まれているそうですが、
そのRをNと変えているところがNOTO市民のプライドを意味しているのだろうと、
ツアーでご一緒だったイタリア留学経験を持っていらっしゃる方から教わりました。
 
++ノートのバロック建築++
イタリア本土より200年遅れて登場したノートのバロック様式は(西欧ではロココや新古典主義の時代)、
ローマのような反宗教改革の思想を持たない自由さ、軽快さが見られると言われています。

 左下の貴族の館、ニコラチ館のずらりと並んだバルコニーを支える石造りの持送りは(左上)、
怪人や怪獣などをモティーフとしていて(人種、歴史、権力などの寓意とか)
怪奇趣味のように見えましたが、この遊び心のようなものが宗教的でないといわれる所以でしょうか。
5月にはこのニコラチ通りが花のカーペットで埋め尽くされるお祭があるそうです。
右下はラグーサのサン・ジョルジョ大聖堂と同じく、
ロザリオ・ガリアルディによるバロック建築のサン・ドメニコ教会です。
 

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