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                   早春の高知旅                    

ANAマイレージの一部が3月に失効することを受けて、国内旅を思い立ち、レンタカーでの高知県横断を計画、
高知龍馬空港から安芸経由室戸で1泊、翌日高知で1泊した後、足摺まで足を延ばして1泊、再び高知へ戻って1泊という
4泊5日の旅を組み立てました。
故郷高知への5年振りの帰省は夫、次女と3人での「観光旅行」となりました。
早春の高知のdigi−tabiをご一緒にどうぞ!


2015・2・15 (日)
高知〜安芸〜大山〜室戸

朝6時15分頃に自宅を出発して、羽田空港へ向かいました。
品川から京浜急行に乗って、7時半に空港に到着、早目を心掛けましたので、
空港の端っこに位置する遠い出発ゲートまで、余裕を持って辿り着くことが出来ました。



2次元バーコードをチケットとして使うようになったのは何年前だったか、記憶も定かではありませんが、
ガラ携帯でも通用することが分かって、今回からはプリントアウトした紙持参からも解放され、
今更ながら、端末機に「チャリーン」とかざすだけの簡便さを初体験しました。



扇島

箱根

少し春霞がありましたが、海ほたるを過ぎると神奈川の海岸線、箱根の外輪山などを眼下に見ることができました。
よい年になっても?外を眺めるのが好きで、チケット予約と共に翼にかからない席を押さえていたのですが、
当日朝になって機種変更があり、ズームをしなければ、画面の翼率が高い席となってしまいました。
北陸など雪国から戻って来られない機体があり、B737(167人乗り)からB767(270人乗り)に変更された機内はがら空きでしたが、
窓席同好の士の多さというより機内の重量バランスの関係でしょうか、窓側の席はそれなりに埋まっているようでした。




視界に入ってから段々と近付き、正面を通過、そして見返りという富士山堪能のひと時は毎回繰り返す儀式のようなものですが、
今回も美しい姿に出会えて、旅の幸先の良さを感じました。



高知県東部

高知龍馬空港

今回はこの日に泊まる室戸岬の写真を撮ることを楽しみにしていたのですが、
かなり北の山側から四国上空に入り、残念ながら、岬を見ることはできませんでした。
上空から見ると山がちな高知県の地形が一目瞭然です。


 

定刻の9時40分に高知龍馬空港に到着し、兄夫婦の出迎えを受けました。
車を取りに行った日産レンタカーでは予約してあったノートが出払っていて、キューブにランクアップされていました。
この日は今年で3回目となる「高知龍馬マラソン」が開催されていて、その影響を受けたのかもしれませんが、
ユニークな外観のキューブはコンパクトカーながら、天井が高く、ゆったりとしていて車内は快適でした。
因みに昨年より1700人近く増え、6540人余りが参加した龍馬マラソンは、
公務員ランナーとして有名な川内優輝さんが2時間15分6秒で優勝したようです。

10時過ぎに高知龍馬空港を出発し、先ずは高知市と室戸市の中間に位置する安芸市を目指しました。
昨年から始まった「高知家の食卓」県民総選挙で、高知県東部の食の店1位に選ばれた安芸「廓中ふるさと館」は
リニューアル閉鎖中と分かって、安芸市の西端に位置する安芸漁港の「安芸しらす食堂」で昼食をとることにしました。



偶然、旅の数日前にNHK「昼オビ」という番組で中継放送をしていたちりめんじゃこ工場併設の「安芸しらす食堂」では、
やなせたかし氏の「ちりめんドンちゃん」が出迎えてくれました。


    

開店と同時の11時からの早目の昼食には、安芸育ちのいとこ達、Rちゃん夫妻とTちゃん兄妹にお相伴してもらいました。
ウィーンへ一緒に行ったTちゃんは私達に合わせての週末お墓参り帰省です。
日替わり定食と釜揚げちりめん&かき揚げ丼に挟まれたお皿は、「のれそれ」と呼ぶ今頃の時期だけに収穫されるアナゴの稚魚で、
ちりめんじゃこを加工する前の生のカタクチイワシの稚魚「どろめ」と共に高知の海産珍味とされています。
どれだけ大量の稚魚を消費しているのか・・・という思いもかすめながら、大々盛の釜揚げちりめんをたっぷりと堪能しました。


  

12時頃、「安芸しらす食堂」を出発してまもなく、「日本一高い防波堤 海面より16.0m」という安芸漁港の標識を見つけ、
車を下りて写真を撮りましたが、ウィーン以来、私のカメラ習性を知っているTちゃんは、
察し良く、3台連ねた先頭の車を止めて、待機してくれました。
ネット検索してみますと、静岡県東部の富士海岸に海抜17mの日本一高い防潮堤があるそうですが、
海中に設置したのが防波堤、陸地とつながっているのが防潮堤と分類されるようです。



寺村家住宅

寺村家住宅西塀

安芸の町で墓参用の花を買ってから、安芸駅の北2kmに位置する土居廓中(どいかちゅう)へ行きました。
「土居廓中は、戦国期に築かれた安芸城を中心とした町割を基本として、関ヶ原の合戦後、ここに配された土佐藩家老五藤氏が
整備・発展させていきました。市の史跡にも指定されている安芸城跡を含んだ土居廓中は、武家屋敷が整然と並ぶ町割とともに、
江戸時代末期から昭和戦前期にかけての建物が残り、狭い通りに沿って生け垣や塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を
今日によく伝えていて、平成24年7月には、国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました」と
安芸市発行のパンフレットに記されています。

廓中の南西部の寺村家住宅の場所には、江戸時代に山内一豊の重臣五藤為重に従って土佐へ入国し、
幕末には漢学者の小牧天山、米山を出した尾張小牧出身の小牧家があり
ここから北西1.5kmほどに生家がある三菱の創業者・岩崎弥太郎も米山の所に通ったと伝えられています。
明治半ばに寺村家が医院を開設、その時建てられた待合所や診療所がある母屋や入院施設として使われた長屋門(左写真)は、
近代初期の医家の屋敷構えを伝える住宅として登録有形文化財の指定を受けています。
土佐漆喰で塗り固めた屋根をつけた河原石や割れ瓦を積み重ねた練り塀も、瓦の産地である安芸の地域性を持つ塀として、
貴重な歴史的景観のひとつとされています。


寺村家の北側に隣接するのが一般公開されている野村家住宅です。
野村家は財政や人事などの惣役を担っていた五藤家家臣で、門を入ると家屋横にもうひとつ見られる「塀重門」、
立ち回りが出来ないように狭く造られた3畳の玄関、槍の間などに武家形式が見られる住宅です。



実はこの野村家というのは私の母方の祖父母の家で、私にとっては懐かしい「おばあちゃんの家」なのです。
右の「居間」と立札が立っている北側の部屋は、半世紀をはるかに超える昔に私が生まれ、
その5年後に従弟のRちゃんが生まれた時には「お猿さんみたい!」と言った思い出が残る部屋です。

祖母の没後、35年以上無人となっていて、普通なら廃屋となって朽ち果てていてもおかしくない木造家屋を
ここまで安芸市が管理、保存して下さっていることには感謝の一語しかありません。




いつの間にか取り付けられていた「登録有形文化財」のプレートが気恥ずかしいような質素な家屋ですが、
百数十年の歴史に免じて、ご容赦いただくことにしましょう。



祖父が丹精していたツバキの下で集合写真を撮った後、廓中を少し歩きました。
土用竹(ホウライチク)の生け垣、狭い道の両側に造られた玉石で囲んだ雨水排水用の浅い溝などは、
江戸時代の絵図にも描かれていて、当時を伝える貴重な遺構と言われています。
生け垣を両側から押さえている半割のモウソウチクの押縁は、
現在でも8〜10年毎に地区住民総出で交換を行って景観を保っているそうで、
このような地元住民や行政機関の長年にわたる保存活動への評価が国の保存地区選定につながったようです。



安芸城跡の内部には明治24年建造の五藤家安芸屋敷、五藤家の先祖を祀る藤崎神社、
安芸市立歴史民俗資料館、全国初の公立書道美術館などがありますが、今回は立ち寄らず、先を急ぐことにしました。
お堀にハスの花が美しく咲き誇っていた夏休みが思い出される一画です。


廓中から少し南へ歩いた所に火の見やぐら、地主の畠中源馬氏が明治20年頃、独習で手作りした野良時計(登録有形文化財)がある
近代日本の原風景のような一画もあります。
道路が整備され、昔とはかなり様子が変わっていますが、それでも懐かしい面影を留めているのがうれしい風景です。




道端では「良心市」というのをよく見かけました。「無人販売所」よりも、少しひねりがある所が高知らしさでしょうか。
土佐文旦の季節でした。


母方の祖父母・叔父夫婦の墓 両親の墓
母方叔母家の墓 母方叔母家(RちゃんTちゃん兄妹の両親)の墓

安芸へ立ち寄った一番の目的はお墓参りで、今回は初めて母の2人の妹、叔母達の墓参も果たすことが出来ました。
祖父母の墓は従弟の代になって造り替えられ、親類からは賛否両論の今風の墓石になっていました。
両親の墓も2001年の父没後に建てたもので年季が感じられませんが、父は末っ子でしたのでこんな所でしょうか、
5年前には墓室からモウソウチクが伸びていて驚かされたものでした。
左の叔母家はクリスチャン家系で、それが墓形に表れているのかどうかは分かりませんが、
神道の我が家、仏教の同行のいとこ家と、姉妹の婚家の宗教がそれぞれである所にも、改めて、興味深いものを感じました。

2時過ぎにいとこ達と分かれ、兄夫婦と私達はさらに東へ向かいました。




  

当初は吉良川まで行く予定でしたが、眺望のよい大山岬の上のカフェ「カーサ・アド」で一休みをしていると3時になり、
程よい解散時間・・・と兄夫婦は高知へ、私達は室戸へと東西に分かれることになりました。


[第26番]  竜頭山 金剛頂寺 光明院

室戸には四国八十八カ所霊場の中、24〜26番の寺院があり、それらに立ち寄っていくことにしました。

最初に寄ったのが「東寺」と呼ばれる室戸岬の最御崎寺に対し、「西寺」の別称を持つ行当岬の上にある金剛頂寺です。
大同2年(807)創建、また一伝には弘法大師が開いた最初の寺とも言われる金剛頂寺は、
平安時代には現在の室戸市の大部分を領有する大寺院で、文明11年(1479)の火災によって堂宇を焼失、同18年に再建、
江戸時代には藩主山内家の篤い帰依を受けて整備されましたが、明治32年(1899)の火災で再び焼失、再建を繰り返し、
今ある本堂は近年の改築によるものと言われています。
巨大わらじが目立つ山門を抜けた先の本堂には弘法大師が彫った薬師如来坐像が本尊として祀られていて、
宝物館には大師の金銅旅壇具など国の重要文化財も含む多くの仏教美術品が納められているそうです。
再建された鐘楼、大師が一粒の米をいれて炊くと万倍に増えたという一粒万倍の釜、大師堂などを見て回りましたが、
県の天然記念物に指定されている自生のヤッコソウが花の時期ではなかったことが少し心残りでした。


剛頂寺より室戸岬を遠望 室津港
[第25番]  宝珠山 津照寺(しんしょうじ) 真言院

金剛頂寺から室戸岬方面を遠望した後、山を下って、室津港のほど近くの小高い山上にある津照寺へ行きました。
大同2年(807)に弘法大師がこの地を訪れた時に、海で働く人々の無事と豊漁を祈って延命地蔵尊を彫り、
堂宇を建立して安置したことがこの寺院の始まりとされています。
長宗我部氏、山内氏の帰依を受けて栄えた後、明治時代の神仏分離令で一時廃寺とされましたが、まもなく再興されたそうです。
慶長7年(1602)に藩主山内一豊が室津沖で嵐にあって遭難しかけた時、1人の僧が現れて船を操り、難を逃れて無事帰還、
翌日津照寺を訪れると延命地蔵菩薩はびしょぬれだったと言われ、大師作と伝えられる「舵取り地蔵」の異名を持つ延命地蔵像が、
土佐藩主の厚い庇護を受けた秘仏となり、現在は50年に一度、次回は2025年に開帳されるそうです。



3つ目に訪れたのが[第24番]室戸山 最御崎寺(ほつみさきじ) 明星院です。



参道の山道を上って行くと、見たことがあるような、ないような・・・という黄色の花が群生していて、帰宅後、調べてみると
インド東部から中国南西部原産で、日本へ明治初期に入って来たというキバナアマと分かりました。
中国では「迎春花」と呼ばれ、園芸店では「雲南月光花」という名前で出回っているようです。


  
山門の中の仁王像

慶安元年(1648)竣工の鐘楼堂

本堂

最御崎寺は大同2年(807)に唐から帰国した大師が嵯峨天皇の勅願を奉じて室戸岬を再訪し、
虚空像菩薩の像を彫って本尊とし、伽藍を建立して安置したことが始まりとされています。
大師が一夜建立の岩屋に納めたと伝わる大理石丸彫りの石造如意輪観音半跏像、木彫りの薬師如来像、月光菩薩像などが
国の重要文化財の指定を受けて宝物館に納められています。
本堂前には熱心に読経する親子お遍路さんの姿が見られました。

                                          (参考:「四国八十八か所めぐり」 JTBキャンブックスなど)



星野リゾート ウトコ オーベルジュ&スパ

最御崎寺を出て10分余り、5時過ぎにこの日宿泊する「星野リゾート ウトコ オーベルジュ&スパ」に到着しました。
ここでも45uのスーペリアルームから53uのラグジュアリールームへのランクアップがあり、
ローシーズン旅行ならではのランクアップ恩恵に恵まれた初日となりました。


平素はホテルのプールを利用することはないのですが、「海の恵みを体内に取り込む」とうたう海洋深層水プールを
話の種に・・・と体験してみました。
「2000年の間、地球の奥深くを旅して室戸の地に辿り着いた海洋深層水は体液とほぼ同じ成分を持ち、
体温近くに温めた海水に浮かぶことは羊水の中の赤ちゃんと同じ」とのことですが、
数十年振りのプールでは泳ぎを忘れかけていたことの方に気を取られ、リラグゼーションとはいきませんでした。


    

    

7時半からのホテル・レストランでの夕食のラインナップです。
地元産の魚介類(帆立貝、牡蠣、真鯛など)、野菜を中心としたイタリアン・メニューをワインや日本酒と共にゆっくりと味わい、
充たされた思いと共に初日が暮れて行きました。



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