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2015・2・18 (木) 
高知~東京

高知を発つ朝は荷造りを済ませた後、9時にホテルを出て、遅めの朝食に出掛けましたが、
結局、ローカルな「喫茶店モーニング」ではなく、当たり外れのなさそうな「カフェ・モーニング」を選んでしまいました。
クロック・ムッシュは知っていましたが、卵を載せたクロック・マダムというカフェ・メニューは初めてでした。



ホテルへ戻り、宅急便を出した後、10時半頃にチェックアウトして、はりまや橋へ向かいました。
『「日本三大がっかり名所」のひとつ、はりまや橋。その短さ、物体としてのなんでもなさに、確かにがっかりするが、
「本当にがっかりできた」という意外な感動が。「話のネタになるでしょう?それでいいんです!」』と有川浩のいうはりまや橋です。
江戸時代に播磨屋と櫃屋の往来用に堀川に掛けられた私設橋が竹林寺僧の純信とお馬の恋物語伝説によって有名になったようですが、
現在は国道32号線と土佐電鉄の路面電車が走る道路橋と、
車道脇に1998年(平成10)に人工水路と共に造られた歩道専用の太鼓橋のふたつのはりまや橋があります。
はりまや橋(地元では場所名としても使用)のコインロッカーに旅行かばんを預けた後、路面電車で上町5丁目まで行きました。



上町5丁目の新月橋

新月橋から鏡川下流の眺め

上町5丁目で電車を降りて南へ向かうと、土佐藩5代目藩主・山内豊房が清流をたたえて名付けたと伝えられる鏡川に、
明治31年に鏡川で3番目に架けられた新月橋があり、現在は漫画家はらたいら氏のアイデアによって1989年に架け替えられ、
高知市都市美デザイン賞を受賞したモダンな姿を見せています。
長さ31km、流域面積170k㎡の鏡川は高知市を東西に横切った後、浦戸湾へと流れ込んでいきます。


 
 1950年代初め                             1960年代初め 

唐突な古い写真ですが、新月橋から下流を見た写真の左岸に舟が見えるあたりの1950~60年代の景色です。
ここに実家があった私は、10代の終わりまで鏡川の「川ガキ」として過ごしました。


  

左写真のようにタイヤチューブの浮輪に浮いているだけの軟弱系の川ガキだったともいえそうですが、
子供時代に最も多くの時間を過ごしたのが鏡川であったことは間違いありません。
左写真の上に写っている森は、新月橋の南詰め、鏡川右岸にある氏神様の「石立八幡宮」で、
アオバズクの鳴き声、6月30日のお祭り「輪抜け様」の夜店のアセチレン・ランプの色やにおい、こっそり拾ったシイの実など、
思い出が限りなく詰まっている鎮守の森です。
右写真は小学校6年の夏に近所の子供達が集まってキャンプをした時のものです。
何も家の前で・・・という感じもしますけれど、おそらく中学生の姉達が主導していたものと思われます。

このような川も1970年代から水源開発が進み、上流には多目的ダムが作られ、下流域には強固な護岸が造られて、
すっかり景観が変わってしまいましたが、それが私が故郷を離れた時期とすっかり重なり合っていますので、
変化の経過はほとんど記憶に刻まれないことになってしまいました。

 

石立八幡宮



次女を里帰り出産した時に、長女の七五三と一緒にお宮参りをした石立八幡宮に、久し振りに立ち寄ってみることにしました。
神社の創建は不明ですが、第15代天皇・応神天皇を御祭神とし、
長宗我部元親が岡豊城から現在の高知城がある大高坂山へ移った時、この社が大高坂城の西南の裏鬼門に当ることから、
居城鎮護の神社として尊崇を受けたと伝えられています。
規模は大きくありませんが、土佐の古い神社のひとつとされる佇まいを残していました。




観音堂内部

再び、新月橋を渡り、橋の北詰を下りた所にある「土佐西国三十三番加納院観音堂」にも足を止めました。
1862年(文久2)に武市半平太の意を受け、吉田東洋の首をとった那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵が仲間に首を渡したと伝わる観音堂は、
本町5丁目の思案橋近くにありましたが、1968年(明治元年)の廃寺を受け、馬頭観音を合祭して現在地に再建されたそうです。
2009年(平成21)に新しくされた観音堂の側に「龍馬居眠りの堤と観音堂」という案内板が立ち、
「姉の乙女より水練を教わった坂本龍馬が疲れた身体をこの付近の堤に横たえて休めた」と説明されていました。




観音堂のほど近くの実家に寄って、両親の神棚に挨拶をした後、兄夫婦と一服入れながら居間から見た鏡川には、
昨年の台風の爪痕がまだ残っている様子が見られました。
昨年の夏、高知市は1920年からの観測史上最大、平年の5.5倍の1561mmの降水量を記録し、
市内全域に避難勧告が出される事態となり、「2014高知豪雨」と名付けられた特別な災害年になったようです。
災害国日本には安全だけの土地はないということでしょうか・・・。



12時半頃、実家を出て、歩いて県庁前(鷹匠町)の木曜市へ行きました。
高知市では日曜市が有名ですが、場所を替えて、‘曜日’市が立ち、地方独特の風物詩ともいえる景観を見せています。
フルーツトマトを箱買いすると、おまけの一袋をさりげなく入れてくれる、などという所が露店市の楽しさです。



木曜市が開かれる鷹匠町は、江戸時代に御鷹部屋がおかれて鷹匠が住んでいたことに由来し、武士が多く住む町でしたが、
幕末以降は山内家の本邸が置かれ、現在残る下屋敷長屋が国の重要文化財の指定を受け、三翠園ホテルの一部となっています。




鷹匠町から鏡川へ抜け、鏡川に最初に架けられた橋、天神橋を渡って、姉の家へ行きました。
この日の昼食は、「田舎寿司を食べたい」という次女のリクエストに応え、売り切れない中に姉が木曜市で買っておいてくれた
高知の山間部で作られる田舎寿司、竹輪、市名物のさつまいも天麩羅など故郷の日常食堪能となりました。

3時頃、姉の家を出て、再び歩いて、はりまや橋方面へ戻り、次女のどこまで続く?というお土産買物に付き合った後、
リムジンバスで早目に高知空港へ向かいました。
早く着いた空港でショップを覗いた後、夫達はビールと共に軽い夕食、私は荷物番をしながら姉兄達にメールをして出発を待ちました。



高知龍馬空港を6時20分に離陸したB737機は、定刻より少し早く、7時25分に羽田空港に着陸しました。
預けた荷物を受け取った後、少し待ち時間がありましたが、電車よりも楽なリムジンバスで帰ることにして、8時10分発の渋谷行きに乗車、
渋滞に会うこともなく順調に走り、渋谷でタクシーに乗り換えて9時に帰宅することが出来ました。

室戸から足摺まで高知県制覇(かなり大袈裟!)ともいえるドライブ旅を終えた後、1ヵ月余りかけて、ゆっくりと5日間を辿り、
時代の変化はあっても、故郷は変わりなく存在することを再認識することができたこと、
これこそが今回の旅の大きな収穫のひとつだと思えます。
また、小さな旅、大きな旅で、故郷再発見の機会が訪れることを願いつつ・・・!

                                              (2015.3.28)


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