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                      高知〜西宮         May26-29 2007    
明石海峡大橋
 
高知へ帰省した帰りに西宮の姉の家に寄り道をしました。
5月26日午後3時40分発のバスで高知を出発、高速道路を快調に走って、四国山脈を抜け、
鳴門海峡を見ながら淡路島に入り、夕暮れの明石海峡大橋を渡って、7時半に三宮駅に到着しました。
このルート初めてのバス旅でしたが、変化のある車窓風景に4時間飽きることがありませんでした。

翌日27日は六甲高山植物園へ行ったのですが、デジカメの予備バッテリーを忘れ、
上りのケーブルカー途中で写真はおしまい。
エンコウソウやクリンソウの見事な群落、スイス・フェアで植えられていたエーデルワイスなどを
撮ることは出来ませんでしたが、風薫る5月の植物園散策は爽快な気分を誘ってくれました。



高野山        May28 2007
     
    
               高野山駅

ケーブルカー

 28日はちょっと遠出して高野山まで足を延ばしました。
高野山までは南海電鉄難波駅から特急で1時間10分、快速急行で1時間30分ですが、
姉夫婦と3人の出たとこ勝負の気儘な日帰り旅で、電車の時刻も調べずに出掛けましたので、
終点の極楽橋駅まで3時間ほどかかって到着しました。
そこから1930年に開通したケーブルカーに乗ると、5分で標高900mの高野山駅に到着です。

藤原道長が治安3年(1023)に貴人として初めて高野山へ参詣して以来、
白川・鳥羽上皇や後宇多法皇も詣で、高野山は信仰、経済両面で安定した時代を迎えたそうです。
その後、17万石の荘園領主にまで勢力を拡大したため、信長や秀吉と対峙するという時代もありましたが、
時の権力者の庇護も受けるようになって、ゆるぎない信仰の山としての地位を固めていったようです。

歩いて登らなければ功徳が少ないと信じられていた時代には、
高野詣の折には貴人であっても、高野山麓の政所、慈尊院までは乗り物に乗り、
町石道(ちょういしみち)にかかると、草履を履いて歩いて登ったそうですが、
今回の私達は歩行(ぶぎょう)は省略、ただの物見遊山を決め込ませていただきました。

駅前から奥の院前までバスに乗ったのですが、
熊野古道につながる深山の山寺だろうという漠然とした思い込みが見事に外れ、
山上の大きな宗教都市という町の佇まいに先ず驚かされました。町の人口は約5000人だそうです。
奥の院入口に立ち並ぶ観光レストランの一つに入って、
柿の葉寿司と胡麻豆腐の定食ランチの後、奥の院へ向かいました。


   
高野槇
 
     
弘法大師御廟のある奥の院へと続く石畳の参道は、
樹齢数百年と言われるうっそうとした杉林に取り囲まれ、霊場らしい雰囲気に満ちていました。
参道入口には悠仁親王のお印という高野槇の苗木が展示されていて、
コウヤマキはこの地のものだったと改めて気付かされました。

大師廟へ入る御廟橋から奥は聖域ということで写真撮影は禁止になっていました。
おびただしい数の燈籠が飾られた燈籠堂、即身成仏の空海は今なお生きて人々を救い続けているという
信仰によって、日々生前と同じお給仕が行われているという御廟を見て回りました。
参拝者の中には四国八十八カ所結願のお礼参りのお遍路さんらしき姿も見受けられました。



高大師腰かけ石 法然上人墓所 織田信長墓所 石田三成墓所
           豊臣家墓所                                    伊達政宗墓所
 
墓原(はかはら)と呼ばれる奥の院参道一帯には鎌倉時代から現代までの供養塔が
20万基以上も建てられています。
芭蕉や与謝野晶子の句碑や関東大震災供養塔、阪神淡路大震災物故者慰霊碑なども見られました。

江戸時代には永遠の安楽を求めて、大名達が競って供養塔を建てたと言われていますが、
敵対していた大名同士も仏の宇宙では同じように包み込まれ、浄化されるということのようです。
時代を超えた人々の信仰の地、高野山は3年前にユネスコ世界遺産に指定されましたし、
平成27年には開創1200年の記念大法会が開かれるそうで、国内外の巡礼ブームの波にも乗って、
参拝者、観光客が増加の一途を辿るのは間違いないだろうと思われました。


        
   
   金剛峯寺
   
本殿 鐘楼
         
真言密教の奥義を極めて唐から帰朝した空海(774-835年)は、
嵯峨天皇より勅許を得て弘仁9年(816)に高野山に伽藍建立を始めましたが、
完成する前の承和2年(835)3月21日に奥の院に入定、
弟子たちに引き継がれた根本大塔を始めとする檀上伽藍が完成をみるまでには
数十年を要したと言われています。
空海の偉業を讃えて、醍醐天皇が「弘法大師」の諡号を与えたのは延喜2年(921)のことだそうです。

奥の院散策の後、再びバスに乗って、
全国に末寺を持つ高野山真言宗の総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)へ向かいました。
金剛峯寺は空海が「修禅の一院」を建立したことに源を発する寺院で、
後には豊臣秀吉が亡母の菩提のために文禄2年(1593)に建立した青厳寺となり、
明治時代に入って金剛峯寺と改められました。
創建当時の様式を伝えると言われる大主殿や鐘楼は文久3年(1863)に再建されたものだそうですが、
ゆるやかな石段を上り、表門をくぐって先ず目に入ってくる大主殿は、
桧皮葺き屋根の大らかな曲線が印象的で、壮大な歴史を物語るかのような趣きを見せていました。

奥の院と並んで高野山の2大聖地と言われる檀上伽藍見学は今回は割愛して、
4時半ごろ帰途に着きました。
次回は巡礼道を歩き、宿坊に泊まって精進料理を食し、
「山の正倉院」と称される文化財の数々もゆっくり見学してみたいと思いました。


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