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2018・11・9
品川 〜 京都 < 仁和寺・広隆寺 >

                 

昨年11月の高知での第4小学校同窓会の後、高知、東京、高知と続いたので次は京都で?という話が浮上、
幸いにも京都在住の森君が快く幹事を引き受けて下さって、
高知・森木君、関東・坂井君の幹事団で、1年近くをかけて京都同窓会計画が進められていきました。
やがて計画が具体化し、参加を決めた関東の4人は延泊して、同窓会前日の11月9日に京都入りをすることを決めました。

迎えた当日9日は東京(7:33)から坂井君、品川(7:40)から速水、新横浜(7:51)から川崎さんが順次、ひかり503号に乗車し、
小学校の頃の遠足のように、きっと前の晩はよく眠れないでしょうから、新幹線の中では寝て行きましょうね、と
予め決めていたことを忘れたように、顔を合わせた途端に2人席の女性達のおしゃべりが始まり、
小雨模様で富士山は見えない、あれ?もう浜名湖・・・と言っている中に、あっという間に京都へ到着と相成りました。
途中、始発の新幹線で一足早く京都入りした合田君に「名古屋へ着きました。京都のお天気はどうですか?」とラインを入れると、
「8時に着いた時は曇っていただけ、双ヶ岡山頂近くに来てポツポツ降り出して、麓へきてザーッとなり傘をさしています。
しかし、昼頃には止むとの予報です。」と返信があり、お天気の好転を祈りつつ、10時11分に京都駅ホームに降り立ちました。


宿泊する九条のホテル アンテルームへ荷物を預けるために京都駅とホテル間をタクシーで往復した後、
JR嵯峨野線で太秦まで行き、京福電鉄、通称嵐電の北野線に乗り換えて、
11時40分頃に御室仁和寺駅に到着しました。

第58代光孝天皇が仁和2年(886)に国家の安泰を願って西山御願寺の建立を発願後、翌年に崩御した遺志を受けて、
仁和4年(888)に宇多天皇が造営、元号に因んで名付けられたのが真言宗御室派総本山の仁和寺です。
寛平9年(897)に譲位、出家した宇多天皇が仁和寺第1世法皇となって以降、
皇室出身者が代々門跡(住職)を務め、平安から鎌倉時代には門跡寺院として最高の格式を誇った仁和寺は、
応仁元年(1467)に始まった応仁の乱によって一山をほとんど焼失という悲運に見舞われましたが、
寛永11年(1635)に仁和寺第21世覚深法親王が上洛中の徳川第3代将軍家光に再興を申し入れて受諾され、
慶長の造替と重なった御所から紫宸殿、清涼殿など多くの建造物の下賜を受けて、金堂、御影堂などが再建され、
正保3年(1646)に創建時の姿を取り戻すことが出来ました。
その後、慶応3年(1867)に第30世純仁法親王が還俗したことにより、皇室出身者が門跡を務める歴史を終えましたが、
明治20年(1887)の御殿の焼失などを経て、大正時代に再建され、
いまなお宮殿建築の面影を留める仁和寺は、平成6年(1994)にユネスコの世界遺産に登録されています。


  
仁和寺二王門

御室仁和寺駅を出ると、入母屋造りの高さ18.7mの二王門が堂々と立ちそびえる姿が目に飛び込んできました。
威容を誇る門を負けず劣らずの力強さで守る金剛力士像や狛犬は、
江戸時代の再建で作者は分からないそうですが、角を持った狛犬が珍しく、ネット検索をしてみると、
天皇の玉座を守る霊獣として登場した狛犬像は、当初、「獅子・狛犬」像と呼ばれる「阿吽(あうん)」2像でしたが、
平安時代後期から単に「狛犬」と呼ばれるようになっていったそうです。
想像上の霊獣としての獅子(阿像)と狛犬(吽像)の違いは耳やたてがみを見ると明らかなことも分かりました。


 
血管までリアルに表現された仁王の足と金箔が残る狛犬


本坊表門

勅使門

二王門をくぐった先には広大な境内が広がり、左手に宮殿や庭園がありましたが、
今回は拝観せず、途中を右折して、御室会館へ向かいました。



松林庵

御室会館

檀家を持たない門跡寺院は拝観料を主な収入源としていますが、
少子化による修学旅行客減などで減少の一途をたどる財源確保のために、
仁和寺が今年5月に開業した海外富裕層向けの宿泊施設が古い建物を改築した松林庵です。
木造2階建て160u、1泊100万円の体験型宿坊事業は成功するでしょうか、
5月の客人1号はヨーロッパの有名な経済人だったそうです。

松林庵に隣接する御室会館で合田君と合流し、和食処「梵」で昼食をいただきました。
仏教伝来と共に日本へ伝わり、不殺生を戒めとして、肉や魚の動物性食材を用いない精進料理ですが、
五辛と呼ぶネギ、ニラ、ニンニク、タマネギ、ラッキョウも用いないことも知りました。
精進という言葉には衆生救済の不退転の決意の意味が込められているとも言われます。


  
精進御膳                            御室御膳


中門

正面に金堂

昼食後、1時前に御室会館を出て、伝統的な和様様式がすっきりと美しい朱塗り、八脚門の中門を上って、
金堂などの伽藍が建つ区域へ向かいました。



五重塔

鐘楼

徳川家光の寄進によって寛永21年(1644)に建立された五重塔は、
大日如来を本尊とし、総高36.18m、東寺と同様に各層の幅に差がみられないことを特徴としています。
本寛永18年(1641)から正保元年(1645)にかけて建造された瓦葺き屋根、腰袴付き、横幅4m、奥行6mの鐘楼は、
江戸期によく見られる様式と見受けられました。
和様建築に紅葉がとてもよく似合っています。(春ならば、桜が、となるありきたりフレーズですが。)



金堂

御影堂

仁和寺で最も重要な金堂は、下賜された慶長18年(1613)造営の御所内裏紫宸殿を、
寛永19〜21年(1642〜44)にかけて移築したもので、現存する最古の紫宸殿として国宝の指定を受けています。
かつて檜皮葺であった屋根は瓦葺に替えられましたが、黒漆塗の柱や白壁など紫宸殿の外観を残したことにより、
門跡寺院としての雅びな佇まいを見せていました。

金堂の西側、境内の西北端に下賜された清涼殿の一部から再建された御影堂(みえどう)がありました。
10m四方の小堂ですが、弘法大師が住まう落ち着きを見せていると評される檜皮葺屋根の御堂には、
大師像の他、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像が安置されています。



Webサイトから借用した五大明王の壁画

今回の京都旅で仁和寺を最初の訪問場所としたのは、今年6月に第51世門跡が就任したことを記念して、
372年振りに金堂の須弥壇背面の木製の壁(高さ2.2m 幅15m)に描かれた五大明王の壁画が、
10月13日から12月16日まで一般公開されるという情報を得たことによるもので、
稀有の機会というだけの動機ながら、わくわくとした期待感と共に裏側探索へ向かいました。

平安時代初期に空海や最澄によって日本へ持ち込まれた密教の思想から生み出された大日如来の化身とされる明王は、
煩悩が強すぎるものを力づくで教化するための武器と怒りが必要とされていて、
不動明王を中心に金剛薬叉明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳明王が、
猛々しく、圧巻の迫力を見せて、描かれていました。
紫宸殿移築後に絵師木村徳応が手掛けられたとみられる壁画は、
通常は僧侶さえ蝋燭の薄明りの中でしか見られず、部屋に光が入らないことによって、
制作当時の鮮やかさが保たれたと言われています。
表の仁和寺の本尊、阿弥陀三尊の裏側に描かれた個性豊かな明王達という対比にも興味深いものがありました。



御室八十八カ所

西門

明王拝観を終えて仁和寺の西門を出ると、約3kmの山道に本尊と弘法大師を祀るお堂が88箇所点在し、
結願すると四国八十八カ所霊場巡礼と同じご利益が得られるという成就山がありました。
四国への巡拝が困難であった文政10年(1827)頃に、第29世門跡済仁法親王の本願によって、
四国八十八カ所の砂を持ち帰って裏山へ埋めたことを始まりとする御室八十八カ所の2時間歩きも一興と思ったのですが、
もう一カ所、広隆寺へ行きたい思いがあり、最後の結願所と表示された札所にお参りをして、仁和寺を後にしました。



仁和寺の北塀に沿って歩き、「きぬかけの路」へ向かいました。
宇多天皇が真夏に雪見をするために衣笠山に絹を掛けたという故事に因んで、
金閣寺から龍安寺、仁和寺を結ぶ約2.5kmの衣笠山山麓に、公募によって平成3年(1991)に名付けられた「きぬかけの路」は・・・。



名前の風雅さとは違い、ちょっと期待外れな車道でしかありませんでしたが、それも旅の一見として、
坂井君の綿密な計画通りの「きぬカフェ」でティタイムとなりました。
こだわりの豆を自家焙煎した珈琲だけを出す珈琲店での一服は、
お菓子処の京都へ行くのだからと、おやつをバッグにしのばせなかったことを残念に思っていたら、
「お客様からの頂きものですが」と和装の店主から小さなお菓子を特別に珈琲に添えていただくことができ、
「私達は高知の小学校の同窓会」と話すと、「父も高知出身です」という偶然もあって、
お見送り記念撮影へと盛り上がっていきました。

 

3時15分頃、「駅室御」と古い看板が掲げられた駅へ戻ると、上方に標高100mほどの小高い双ヶ岡が見え、
嵐山方面行きの嵐電ホームからは、駅舎を通して二王門を見ることが出来ました。



始発の新幹線で京都入りをして、午前中に双ヶ岡へ登った合田君から仁和寺、嵐山方面の写真をいただきました。
特に仁和寺の景色が素晴らしく、正に三文の得(今流に言えばいくら・・・?)の早起きと思われました。



再び嵐電に乗り、北野線から嵐山本線に乗り換えて、太秦広隆寺で下車しましたが、
下りた時に目にした広隆寺楼門周辺の景観は、明治初期の神仏分離令の混乱そのもので、失望を禁じ得ないものでした。
以前は中門であったものが現在の南大門とされ、総門はもっと南にあったと伝えられていますから、
領地没収の憂き目にあったことは疑いなさそうです。


  

それでも境内に入ると、推古11年(603)年に建立された山城最古の寺院の落ち着きや風格を感じることができました。
廻縁をめぐらせた和様にわずかに唐様を加味、同時代建造の中では最も美しいと賞される楼門は元禄13年(1702)に再建、
両脇に安置された仁王像は楼門よりやや古い室町時代の制作と考えられています。

第15代応神天皇の時代に日本へ渡来し、養蚕機織を主業としながら、大陸や半島の先進文明を輸入、
農耕、醸酒など地方産業の発達に貢献したのが漢民族系の秦氏と言われ、
「十一年十一月己亥朔 皇太子謂諸大夫曰 我有尊仏像 誰得是像以恭拝 時秦造河勝進曰 臣拝之 便受仏像 因以造蜂岡寺」
と日本書紀に記述があるように、聖徳太子から仏像を譲り受けた秦河勝が推古天皇11年(603)に建立に着手、
推古30年(622)に完成したのが、古くは蜂岡寺と呼ばれた広隆寺の始まりと伝えられています。
法隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、葛木寺と並び、聖徳太子建立七大寺の由緒を持つ広隆寺は、
弘仁9年(819)の火災後、弘法大師の弟子、秦氏出身の道昌僧都が再興、その後、久安6年(1150)にも炎上しますが、
永万元年(1165)に復興など、度々の災禍を潜り抜け、国宝20点、重文48点という多くの寺宝を守り、今に伝えています。



薬師堂

能楽堂

太秦殿

講堂

阿弥陀三尊立像、薬師如来立像、弘法大師、道昌僧都を祀る薬師堂や、
秦氏の太秦明神、漢織女(あやおりめ)、呉秦女(くれはとりめ)などを祀る太秦殿、
永万元年(1165)に再建された赤堂とも呼ばれる京洛最古の講堂などの外観を見ながら、参道を進みました。


  
何でもない草木でも、ところ変われば・・・?ふとカメラを向けたくなる風情がありました。


霊宝殿

霊宝殿前の庭

   
弥勒菩薩半跏思惟像      弥勒菩薩半跏思惟像        不空羂索観音立像           十一面千手観音立像      

広隆寺のお目当ては、ご多聞に漏れず、弥勒菩薩半跏思惟像という訳でした。
昭和57年(1982)に建立された霊宝殿はコンクリート造りですが、内部の天井や壁面は桐張りとなっていました。

6〜7世紀頃に大陸から日本へ伝えられた弥勒信仰と共に飛鳥、奈良時代に多くの弥勒菩薩像が造られたと言われますが、
広隆寺には宝冠弥勒と宝髻(ほうけい)弥勒と通称されるいずれも国宝指定の2体の弥勒菩薩像があります。
左端のアカマツ材の宝冠弥勒(像高123.3cm)は秦河勝が聖徳太子から譲り受けた仏像にあたると考えられ、
推古31年(623)に新羅から伝来したとする説が有力でしたが、
朝鮮半島には自生しないクスノキ材が背板に使われていることが昭和43年(1968)に判明し、由来の確定はできず、
右隣の百済からの貢献仏と伝えられる宝髻弥勒(像高90cm)もクスノキ材が使われているために異説を持つようです。
宝冠弥勒菩薩像の例えようのない優美さは、ドイツ哲学者ヤスパースの讃辞、
「人間実存の最高の理念が、あますところなく表現され尽くされています。」に異論の余地なく、
べそをかいた表情で「泣き弥勒」ともよばれる金箔を残した宝髻弥勒菩薩は人間に近寄ったような親しみを見せていました。
その他、国宝の天平時代の不空羂索観音像(像高313.6cm)や弘仁時代の十一面千手観音立像(像高266cm)、
重文の聖徳太子十六歳孝養像、十二神将像など優れた仏像の数々を、
人の少ない堂内でゆっくりと拝観することが出来て、静かで心充たされた時間を過ごすことが出来ました。


上宮王院太子殿

弥勒菩薩拝観を終えて、広隆寺の本堂、聖徳太子立像を本尊とする上宮王院太子殿の前で写真を撮っている頃に、
雨が少しぱらついて来ましたが、薬師堂前の階段に座ってやり過ごし、4時半に広隆寺を後にしました。



高瀬川

団栗橋からみた鴨川

太秦広隆寺から嵐電嵐山本線、阪急京都線と乗り継いで、5時頃に河原町に到着しました。
高瀬川や鴨川の川景色、京都の風情が色濃い、とはいえど、海外観光客にあふれる夕暮れの祇園をぶらぶらと見物しながら、
夕食処に決めていた「いづう」へ向かいました。





天平元年(1781)創業の老舗「いづう」でいただいた昆布で締めた鯖と鯛のお寿司は、
京都駅やたまに出会う東京の物産展で購入したものとはどこか違う味に落胆を隠せない同級生もいましたが、
お店で作ったばかりの新鮮な味に馴染みがなかったこと、期待が大きすぎたことを納得し、
大方は古都の味として、京都最初の夕食を楽しみました。



歌舞伎発祥の京都四條 南座

「いづう」を出たのが7時前で、ホテルへ戻るにはすこし早いし、少しお腹が物足りないし・・・とお茶の場所を探して、
夜の祇園をすこしさまよった後、丸井ビルの甘味処に行き着きました。


   

最近、札幌のすすきのでブームになっているのがシメパフェ、
お酒を飲んだ最後にパフェを味わうことが流行っていると新聞記事で読みましたが、
お酒の後ではなかったにしても、悪くないシメパフェとはなりました。



河原町から地下鉄烏丸線で九条へ出て、9時過ぎにホテル アンテルームにチェックインし、
翌日からの1泊同窓会に向けて、リュックサック荷造りをして、
望み通りのものに出会えた満足感と共に、一日の終わりを迎えました。



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