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2018・11・10
京都 伏見
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7時半からホテル・レストランで朝食をとった後、8時半過ぎにホテルを出発し、
地下鉄烏丸線九条駅から竹田駅へ出て近鉄京都線に、丹波橋駅で京阪本線に乗り換えて、
9時20分過ぎに中書島(ちゅうしょじま)駅に到着しました。
文禄年間に中務(=中書)少輔の脇坂安治が宇治川、濠川、宇治川派流に囲まれた地に屋敷を構えたことに由来する中書島駅では、
「名酒のまち伏見」「幕末のまち伏見」という看板と、私達の第4小学校校区内に龍馬生家があったことに因ったのか、
小学校講堂にも掲げられていたお馴染みの龍馬像が出迎えてくれました。
日本初の路面電車として明治26年(1893)に京阪電気鉄道(株)によって東洞院~油掛町間に敷設された伏見線は、
大正3年(1914)に中書島まで延長された後、昭和45年(1970)に廃線となっています。
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中書島駅を出て最初に立ち寄った長建寺は、元禄12年(1699)に中書島を開拓した建部政宇(たけべまさのき)が、
深草大亀谷の即成就院の塔頭多聞院を分離して創建した真言宗醍醐派のお寺で、寺名は建部氏に由来、
朱塗りの竜宮門が女神の弁財天を本尊とする「島の弁天さん」らしい雰囲気を見せていました。
土地に豊饒をもたらす河川の神、インドの聖典に登場するサラスヴァティを起源とする弁財天は、
次第に音楽で衆生を救済する神として発展し、七福神の一尊になったと言われています。
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末社:飛龍大権現 摩利支尊天 |
賓頭盧尊者 |
仏が日本の神として現れたとされる権現、中世以降、武家の信仰を受けた武芸の神である摩利支天、
釈迦の弟子の十六羅漢の一人のなで仏の賓頭盧(びんずる)尊者など、境内には様々な神仏が祀られていました。
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みくじ舎 |
福富稲荷 |
願かけごま木
かつて三十石船に時を知らせ、戦時中に金属供出となった鐘を復元した鐘楼は200円の和歌のおみくじを引く「みくじ舎」、
水天、山伏のお堂前には願いごとを書く「願かけごま木」・・・と、どのお堂でも「おさい銭」の口が目立っていましたが、
現世利益を求めるお寺と参拝者の利害が一致すれば有難いことは間違いなし、としておくことにしましょう。
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月桂冠大倉記念館 |
十石舟 |
明治41年(1908)建造の酒蔵を改造し、昭和57年(1982)に開館した月桂冠大倉記念館も少し覗いた後、
明治期まで伏見と大阪間を運行していた三十石船を模した観光船、十石舟の乗り場へ下り、
龍馬の足跡巡りを今回の旅のテーマとし、この日も一足早くホテルを出発して伏見散策をして来た合田君とも合流して、
予約してあった10時発の十石舟に乗り込みました。
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宇治川派流
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秀吉が天正19年(1591)に天下統一を果たした後、政庁の役割を果たしていた伏見城は江戸時代前期に廃城となり、
伏見の町は荒廃しますが、高瀬川が開削されて京都と大阪が結ばれると、内陸の河川港としての重要性を増し、
伏見城の外堀であった濠川沿いに問屋、宿屋、酒蔵が建てられ、城下の遊郭が移転した花街も出来て、繁栄を極めたそうです。
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船内 |
三栖閘門(みすこうもん) |
月桂冠大倉記念館裏の乗船場を出た十石舟は、宇治川派流から濠川を経て宇治川と合流する三栖閘門で折り返しという、
わずか往復50分のミニクルーズでしたが、旅にちょっとしたアクセントを与えてくれました。
乗船後、水準器を確認した船頭さんの判断で、左席の私は右席のピンクのセーター女性のご主人と席を代わったのですが、
外人夫婦と見て、「どこからいらしたのですか」と英語で尋ねると、「ミズーリからです。」と一言、二言返ってきた後、
「英語が上手ですね」と日本語の返事に、「日本語が上手ですね」とオーム返しに答えると、
「私は日本人です」と返って来て、びっくりな一コマがありました。
太っちょアメリカ人ご主人は帰路でも、合田君のビール腹というからかいをくやし気に?夫人に言いつけていました。
昭和4年(1929)建造の閘門の手前で下船し、昔の操作室を復元した三栖閘門資料館を見学しましたが、
閘門の構造や港町として発展していった伏見の歴史が紹介される中、特に秀吉が行った土木工事に興味を覚えました。 京都府最大の湖沼であった周囲16km、面積8km2の巨椋池の干拓、河川の流路変更という秀吉着手の開発事業は、
慶長3年(1598)の秀吉没後340余年を経た昭和16年(1941)に完成をみますが、
地図の右端、今回の旅で訪れることになる宇治橋近くなどに、今も秀吉時代の遺構の発見が伝えられています。
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宇治川を展望
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三栖閘門と資料館 |
20人乗り十石舟 |
同じコースを辿って乗船場まで戻り、10時50分頃下船した後、川沿いの秋景色の散策路を楽しみながら、
伏見京橋に慶長2年(1597)に開かれた船宿の寺田屋へ向かいました。
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薩摩藩の定宿であった寺田屋
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元・配膳場 |
史跡博物館 |
薩摩藩士の急進派と鎮撫使が同士討ちをした文久2年(1862)の寺田屋騒動、
対立していた薩摩藩と長州藩の同盟の仲立ちをしていた坂本龍馬が伏見奉行所の捕史に囲まれたものの、
後に妻となったお龍の機転で逃げ出すことができた慶応2年(1866)の寺田屋事件の現場であった寺田屋は、
龍馬没後150年を経ても衰えない人気そのままに、個人や団体観光客で大にぎわいをみせていました。
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宿泊客室 |
龍馬が愛用した梅ノ間 |
江戸幕府最後の征夷大将軍となった徳川慶喜が大正2年(1913)11月に急逝する前の5月に、
伏見桃山の明治天皇陵墓参の後に会食し、鳥羽・伏見の戦いを回想したと伝えられる寺田屋の2階は、
梅ノ間以外の5部屋が現役の客室とされていて、「今も泊れる維新の旅籠」とパンフレットにうたわれていました。
梅ノ間の掛軸は寺田屋の女将お登勢が嫌がる龍馬に奨めて街の画家に描かせた龍馬遭難直前のもので、
絶後となった絵像は丸山公園の銅像のモデルとされたそうです。
柱に残った刀痕や寺田屋騒動で上意討ちされた薩摩藩士を供養する「薩摩九烈士遺蹟表記念碑」など、
激動の時代を語り継ぐ現場をみて、幕末史への興味も新たにしたひと時となりました。
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寺田屋を出て、龍馬通り商店街を通り、11時半に予約のランチ・レストランに到着しました。
第一候補としていたレストランが満席だったため、次に選んだGAFU HOSTEL&DINERでしたが、
メイン料理の魚(ぶり)が物流、文化の交差点に位置した伏見の歴史を物語るようでもあり、
1600円というコスパの良さにも全員満足のランチとなりました。
大手筋通
ゆっくり寛いで、予定より少しタイムオーバーした昼食後、12時半過ぎに合田君は再び龍馬の足跡巡りへ、
他の3人は御香宮(ごこうのみや)神社へ向かいました。
高知の帯屋町によく似たアーケード街、大手筋通を通って、京阪線、近鉄線を抜けた先に御香宮神社がありました。
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御香宮神社 表門 |
桃山天満宮 |
明治元年(1868)に開戦した鳥羽・伏見の戦いの時、旧幕府軍は旧伏見奉行所を本陣にし、
新政府軍は御香宮神社を中心に布陣を敷きましたが、本殿などの建物は戦火を免れたと言われています。
元和元年(1622)に徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したと伝わる御香宮神社の表門から境内に入ると右手に、
1390年頃、御香宮神社の東にあった蔵光庵の僧の夢枕に菅原道真が現れたことを始まりとする桃山天満宮が
独立した神社といえるほどの規模で鎮座していました。
菅原道真に因む牛像 伏見城跡残石
境内を進むと、神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る御香宮神社がありました。
神社創建の由緒は不明ですが、境内から香りのよい水が湧き出たので、
貞観4年(862)に清和天皇より「御香宮」の名を賜わったと社伝に残されています。
明治以降、涸れていた水を昭和57年(1982)に復元、伏見七名水と称えられる御香宮神社の湧水は、
昭和60年(1985)に環境省より「名水100選」の認定を受けています。
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御香宮神社 拝殿 |
向拝 |
寛永2年(1625)に紀州徳川家初代、徳川頼宣が寄進した拝殿では、七五三参拝用の準備が整えられ、
親子や3代揃った家族連れの姿が数組見られました。
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本殿 |
絵馬堂 |
慶長10年(1605)に徳川家康の命により建立された五間社造りの本殿は、
細部にわたる豪壮華麗な装飾が桃山時代の特色を表しているという評価により、昭和60年(1985)に重要文化財の指定を受け、
平成2年(1990)より着手された修理によって極彩色が復元されて、皇后を祀る神社らしい趣きを見せていました。
宝暦5年(1755)建造の絵馬堂には、かつては100面以上が奉懸されていたと伝えられていますが、
遠目にも退色が進んでいるのが見受けられたことが気掛かりでした。
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東照宮 |
松尾社 |
広い境内には多くの境内社がありましたが、瓦屋根の社殿の多さが珍しく感じられました。
1時20分頃、御香宮神社を出て、JR奈良線の桃山から稲荷へ向かいました。
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