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2018・11・11
京都 < 永観堂・南禅寺・知恩院 > 
                 
       

7時半頃、全員が揃って、昨夜とほぼ同じ席に着いて、朝食が始まりました。
小学校の修学旅行で高松に泊まった時も、このようにお行儀のよい生徒達だったかどうかは分かりませんが
60年後のみんなはとても良い元・生徒達でした、と記録しておきましょう。


御殿荘の玄関前で集合写真を撮って、早帰りの岡林君、別会出席の山脇君をお見送りした後、
9時前に京都遠足に出発しました。
当初、この日は鞍馬、貴船方面へ行く計画でしたが、9月の台風21号による鞍馬寺被害の回復の目途が立たないことが判明し、
行き先変更やむなしとなり、1.銀閣寺〜哲学の道〜南禅寺 2.比叡山方面の2案を候補に、昨夜決定する筈でしたが・・・。
お酒が入った宴席ではまとまりきらず、1.に近いプランになったようですが、
定かなことを把握できなかった私にとっては、行き先知らずのこれも一興というミステリーツアーとなりました。



永観堂参道

唐門

聖護院から丸太町通へ出て、岡崎神社前を通って、鹿ケ谷通を右折、徒歩25分ほどで到着したのは永観堂でした。
これは全く予備知識がなかったお寺で、拝観料が秋には600円→1000円となるのは紅葉の鑑賞料と勘違い、
「秋の特別寺宝展」という部分を見逃していたことに気付いたのは、帰京してしばらくたった後、
写真を整理し始めてからのことでした・・・。

ともあれ、総門から中門まで端正な佇まいを見せる参道やそれを彩るモミジの紅葉を鑑賞しながら、
中門脇で拝観券を買って境内に入り、大玄関から諸堂見学に向かいました。
修復中の唐門(からもん)は文政13年(1830)に建築された天皇の使いが出入りする勅使門で、
釈迦堂との間に敷いた勅使が身を浄めるための盛り土が物々しさを醸し出していました。


釈迦堂

御影堂

貞観5年(863)に弘法大師の高弟・真紹(しんじょう)僧都が清和天皇から寺院建立の許可を得て創建されたのが、
「浄土宗西山禅林寺派総本山 永観堂 禅林寺」で、
中興の祖とされる第7世永観律師(1033−1111)に因み、永観堂と通称されています。
真言密教寺院として始まった禅林寺は、鎌倉時代に法然上人の浄土教の教えに帰依した第12世静遍僧都によって
浄土宗の基礎が作られ、後に浄土宗西山禅林寺派の根本道場となって今に至っています。

室町時代建立と伝わる釈迦堂や法然上人を祀る大正12年(1912)建造の御影堂の回り廊下を、
由緒ある古刹の風格を感じながら、人の流れに沿って歩いて周りました。



渡り廊下と三鈷の松

鐘楼

斜面地になっている境内に点在する御堂をつなぐ長い渡り廊下にも古趣が感じられました。
境内の東南端に建てられた鐘楼は宝永4年(1707)建造と伝えられています。


悲田梅

葉先が3つに分かれ、知恵、慈悲、真心を表すという三鈷(さんこ)の松や、
永観律師が貧しい病人に実を施したと伝わる悲田梅(ひでんばい)など、いわれのある古木も残されていました。



御影堂(大殿)

阿弥陀堂(本堂)

慶長2年(1597)に大阪の四天王寺に建立された曼荼羅堂を慶長12年(1607)に移築した阿弥陀堂は、
首を左にかしげて「永観、遅し」と慈悲の眼差しを永観へ向けていると伝承される「みかえり阿弥陀」を本尊としています。



見損ねた阿弥陀如来像 (永観堂HPより借用)


多宝塔

放生池

境内に3000本あるといわれるモミジと昭和3年(1928)に建立された多宝塔のコンビネーションや、
放生池の水面に映る紅葉が永観堂の人気の写真スポットであることも後で知りましたが、
それらをカメラに収めていたことが分かって、レポーターとしてはちょっと安堵というところでした。
放生池では弁天社の守り鳥を任じているような1羽のアオサギが人気を集めていました。


  
    童地蔵                   お持ち帰り自由の三鈷の松


10時半に永観堂を出て、南へ10分ほど歩いて、大寂門から南禅寺の境内に入っていきました。

文永元年(1264)に後嵯峨天皇が造営した離宮の禅林寺殿を、
皇子の亀山法皇が正応4年(1291)に無関普門禅師(大明国師)を迎えて開創したのが龍安山禅林禅寺、
後に寺号が太平興国南禅禅寺と改められた臨済宗南禅寺派大本山の南禅寺です。
明徳4年(1393)と文安4年(1447)の火災や応仁の乱の戦火で荒廃しましたが、
慶長10年(1605)に以心崇伝が入寺した後に復興が進められたと言われています。



三門

法堂

西園寺実兼が寄進し、永仁3年(1295)に創建された南禅寺三門は文安4年(1447)の火災で焼失、
現在の三門は大坂夏の陣で戦死した一門の武士達の冥福を祈るために嘉永5年(1628)に藤堂高虎が寄進したもので、
歌舞伎「楼門五三桐」の「絶景かな!絶景かな!」という石川五右衛門の科白で有名な高さ22mの堂々たる楼門です。

法堂(はっとう)は公式の法要が行われる寺院の中心の建物で、創建当時のものは応仁、文明の乱で焼失後、
文明11年(1479)に復興、慶長11年(1606)に豊臣秀頼の寄進によって大改築がなされた後、明治26年(1893)の火災で焼失、
現在ある建物は明治42年(1909)の再建という歴史を紡いでいます。

観光客にあふれる三門、法堂の外観を見た後、庭園の美しい紅葉を見ながら、水路閣の見学へ向かいました。



琵琶湖から京都市内へ引かれた明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水水道橋の水路閣は、
高さ9mの威容を見せながらも、古色を帯びた赤煉瓦が周りの景観と馴染んでいるようでした。
明治22年(1889)には疏水を利用した発電所も蹴上に建設され、営業用としては日本初の水力発電による電力が
日本初の電車(京都電気鉄道)や工業用に利用され、京都の近代化に大きく貢献することになったそうです。
その後、明治41年(1908)から45年(1912)まで電力需要と上水道事業への対応を目的として行われた第2疏水の開削工事も、
京都第2代市長の西郷菊次郎が推進した明治時代の京都市三大事業のひとつとして高い評価を受けています。

 

南禅寺を出て、タクシー3台に分乗して円山公園へ向かい、11時半に長楽館に到着しました。

たばこ王として財をなした実業家、村井吉兵衛の別邸として、明治42年(1909)に円山公園の一画に建てられた洋館は、
完成直後に滞在した伊藤博文が「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長しえなり」と称したことに因んで長楽館と名付けられ、
国内外の賓客をもてなした由緒ある建物として、昭和61年(1986)に京都市指定有形文化財の登録を受けています。
アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの設計、清水満之助(清水建設4代目店主)によって建てられた長楽館は改装を経て、
現在はレストラン、カフェ、ホテルとして利用されています。


  

そのような歴史あるカフェに日曜日に予約なし、では難しいのではないかと思われましたが、
幸いにも2階の「喫煙の間」に席が用意されて、京都市指定有形文化財の螺鈿の椅子などが置かれた中国風の部屋で、
1時間ほどのティータイムを過ごすことが出来ました。

 

マロンショートケーキ

朝食にしっかりとボリュームがあったこと、高知組が夕方のバスで帰高するため夕食時間が早めに設定されていることが、
ランチではなくティーブレイクとなったということの次第で、
女子席は全員がケーキセットを頼みましたが、男子席にはアルコール派もいたと漏れ聞こえていましたが・・・?
お茶の後、たまたま開催されていた「大倉陶園創業100周年展」も覗いたりしながら、長楽館で1時間ほど過ごした後、
知恩院行きの10名と龍馬足跡巡りの続きで霊山方面へ行く合田君・仁井田さんと南北2組に分かれた午後の部となりました。



知恩院三門

元和元年(1621)に徳川2代将軍秀忠の寄進によって建立された知恩院三門は高さ24mで、
現存する国内の三門の中で最大、また、仁和寺の二王門、南禅寺の三門、知恩院の三門を京都三大門と称するそうで、
今回の短い旅の中で、図らずもその三つの門に出会えたことは幸運のひとつに数えられることでした。

 
三門

女坂

浄土宗開祖の法然上人(生年1133−1212)が念仏の教えを説いた禅坊の跡に、
高弟の知恩院第2世源智上人が建立したのが、知恩院と通称される浄土宗総本山の華頂山知恩教院大谷寺です。
京都東山三十六峰のひとつ、華頂山のふもとの広大な境内は、三門や塔頭寺院がある下段、
本堂や阿弥陀堂など中心伽藍がある中段、勢至堂、法然廟など開創当初の御堂がある上段に分かれていて、
中段と下段の伽藍はほとんどが浄土宗徒であった徳川家の全面的援助によって江戸時代に造営されています。



御影堂(本堂)

阿弥陀堂

寛永16年(1636)に徳川3代将軍家光によって建てられた御影堂は、
法然上人800年大遠忌にあたる平成23年(2011)から行なわれていた大修理が来年3月に完了する予定で、
建物のほぼ全容が姿を見せて、工事が終わりに近付いた様子を窺うことが出来ました。
三門と御影堂はともに平成14年(2002)に国宝の指定を受けています。

御影堂の西側に建つ阿弥陀堂は、源智上人によって勢至堂の前に建立されたものを宝永7年(1710)に現在地へ移転、
荒廃後に取り壊して、明治43年(1910)に再建した知恩院唯一の明治時代の建物です。
本尊は高さ2.7mの阿弥陀如来像で、堂正面に掲げている寺号「大谷寺」の勅額は後奈良天皇の宸筆と伝えられています。



納骨堂

宝佛殿

昭和5年(1930)造立の納骨堂、平成4年(1992)造立の宝佛殿は地下に遺骨を合祀している新しい寺院施設で、
共に阿弥陀三尊像を安置しています。



勢至堂

納骨堂を通り過ぎて、境内東の長い石段を登った先が法然上人が念仏の教えを広めた大谷の禅房の故地となっていて、
知恩院の名前の起源となった「知恩教院」という後奈良天皇宸翰(しんかん)の扁額が掲げられた勢至堂がありました。
現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建された知恩院最古の建造物で、建立当初は本堂とされていたものです。


    
影向石                法然上人像                    紫雲水

勢至堂の周りには延暦2年(1212)の法然上人の臨終に折に現れたとされる霊石、霊水などの石碑が立っていました。


法然上人御廟

拝殿から臨む御廟

勢至堂からさらに石段を上った所に門弟たちによって建てられた廟堂がありました。
現在の御廟は慶長18年(1613)に常陸国土浦藩主松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたもので、
豊栄7年(1710)に建て添えられた手前の拝殿では、法然上人の月命日である25日に毎月念仏会が行われ、
全国から参拝の檀信徒が訪れて、念仏の声を響き渡らせるそうです。
勢至堂の脇を抜けていくと、千姫の墓、縁結びの神として人気がある「濡髪さん」、濡髪大明神を祀った神社があり、
そちらへ向かう人たちも見かけましたが、そこまでは興を引かれず、来た道を戻って、
御影堂の西側の順路に沿って、集会堂(しゅうえどう)へ向かいました。



集会堂(法然上人御堂)

北門
                                           
寛永12年(1635)に建立された集会堂の堂内は、千畳敷と呼ばれるほどの広さを持ち、
明治5年(1872)には京都博覧会の会場ともされたそうです。
基本的には僧侶の修行の場ですが、御影堂の平成大修理の間は、御影堂本尊の法然上人が遷座し、
本堂の代わりとしての各種法要が集会堂で執り行われています。


黒門
   
北門を抜けて、さらに続く長い石段を下りて、伏見城から移設されたという黒い板塀の黒門から知恩院の境内を出て、
三門前で同級生達と落ち合って、2時頃、バスで京都駅へ向かいました。


30分足らずで着いた京都駅で、大坂へ向かう西内君とお別れした後、駅ビル地下でお土産買物時間となりました。
それぞれの買物をゆっくりと、楽しみつつ、迷いつつ、終えたのが3時半前で、
4時半の夕食予約までに時間がありましたが、お店と交渉して、早目に入店させていただくことになり、
「龍馬よさこい」の賑わいなどを見ながら、駅ビル内の「そば酒房 徳兵衛」で11名の打ち上げ夕食会を行いました




     
私が選んだカモと九条ネギの釜めしや近い席の天丼などの夕食レポート

    

5時40分頃お店を出て、高速バス乗り場へ向かい、
高知幹事の仁井田さん、森木君、遠足同窓会皆勤の岩崎君、山中君(直前の右足骨折をおして参加・・・)をお見送りしました。
6時10分発が遅れて、25分の出発となったバスは、予定通り、高知はりまや橋に11時過ぎに到着した模様です。



高知の山崎さん、関西の森本君と2人延泊組が増えた6人で京都駅からタクシーに乗って、
ホテル アンテルームに7時前にチェックインしました。
一息入れた後、7時半にホテル内のバーに集合して、1席から4席までもれなく揃っている所もうれしいメンバー達と9時過ぎまで、
60年後修学旅行ならではの大人時間を過ごしました。


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