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2018・11・12
京都 < 宇治 > 〜 品川
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今回、旅の情報雑誌から選んで延泊組が利用したホテル アンテルーム京都は、
築23年の学生寮を2011年にリノベーションしたアート&カルチャーをコンセプトとするホテル&アパートメントで、
anteroomは次の間、待合室を意味し、京都の街へ出掛ける支度をする場ということだそうです。
スタンダードルームの他に、蜷川実花、木村舜、宮永愛子、ヤノベケンジなどアーティストによるコンセプトルームと呼ぶ客室、
名和昇平のオブジェがあるエントランスにつながって、九条と十条の間にホテルが位置することからGALLERY9.5と名付けられた
展覧会やイベントを開催するフリースペースなどもあり、
少しとんがった若者向けのホテルかと思ったのですが、心地のよいシンプルさがあって、よい選択だったと思われました。
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中でもうれしかったのは、旬の食材を使った朝食の豊かなラインアップで、
朝食開始の7時に集合して、奥まった素敵な6人席を確保して、ゆっくりと朝食タイムを楽しむことができました。
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8時過ぎにホテルをチェックアウトし、京都駅までタクシーで行き、JR八条東口コインロッカーへ荷物を預けて、
コインロッカー難民もでるという京都駅事情も無事にクリアして、宇治遠足へ向かい、
8時37分のJR奈良線に乗って、黄檗駅で京阪宇治線に乗り換え、9時20分過ぎに三室戸駅に降り立ちました。
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宇治駅へ直行せずに、一駅手前の三室戸駅で下車したのは、
宇治川太閤堤跡と菟道稚郎(ウヂノワキイラツコ)皇子の御墓を見ることが目的でした。
宇治川太閤堤跡は秀吉が伏見城築城と同時期に行った宇治川・淀川付け替えの大規模な治水工事の遺跡で、
発掘調査によって2007年に発見されたものです。
宇治橋下流から2筋に分流して巨椋池(おぐらいけ)へ流れ込んでいた宇治川は、
北方へ流れる流路1本にまとめられて伏見城下へ導入されましたが、
その時の護岸、水流を調節するための石出しと杭出しという水制工事の跡が良好な状態で見つかったのは、
16世紀末の築造の後、氾濫のため埋没、近代になって新堤防が築かれた時には河川範囲から外れていたためと考えられ、
当時の施策と土木技術を知る上の重要な遺跡とされています。
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菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)は5世紀初頭に宇治に住んでいたホムワダケ(応神天皇)の末子で、
父ホムワダケはウヂノワキイラツコ(以下イラツコと表記)を後継ぎにしたいと考えていたのですが、
皇位につきたいと考えた異母長兄のオホヤマモリはイラツコの殺害を図って、逆に宇治川へ落とされて溺死、
その後、異母次兄のオホサザキ(仁徳天皇)とイラツコは皇位を譲り合った末、イラツコは夭逝と古事記は伝えています。
それが病死、自害、または毒殺であったかは見解が分かれるようですが、
その背景に、奈良盆地の北から東にかけて勢力を持つ丸迩(わに)氏一族のイラツコと、
奈良盆地の西から難波にかけて勢力を伸ばしたオホサザキの権力争いが隠れていることは間違いないと考えられています。
宇治川近くで宮内庁が「應神天皇皇太子菟道稚郎子尊 宇治墓」として管理しているのは、
浮舟の杜と呼ばれていた円丘をイラツコの墓と治定し、
宮内省が明治22年(1889)に80mの前方後円墳に仕立てたもので、考古学的痕跡はないようです。
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御墓がある緑地の一画に立つ「浮舟宮跡」という石碑、
宇治橋架け替え工事の折に移転したという東屋観音と呼ばれる鎌倉時代の聖観音菩薩坐像石仏など、
「源氏物語 宇治十帖」や宇治の歴史に因む建造物が点在していました。
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三韓征伐から帰還した神功皇后に反旗を翻した第14代仲哀天皇の子、忍熊王をだまし討ちにしたと伝わる地には、
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代天皇に仕えた伝説上の忠臣、武内宿祢ゆかりの「武内 彼方(おちかた)神社」があり、
同じ場所が宇治十帖の舞台ともされて、椎本(しいがもと)之古蹟という石碑も立てられていました。
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宇治川
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宇治橋
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10時少し前に、宇治橋東詰の茶屋「通圓」に到着しました。
通圓は源頼政の家臣、古川右内が隠居をした晩年、平安時代末期の永暦元年(1160)に結んだ庵に始まる茶屋で、
後に治承の役(1180)の折に主君の元にはせ参じ、平家軍と戦って討ち死した右内は、自害した頼政と共に平等院の庭に眠り、
その後、子孫代々が通園の姓を名乗って、宇治橋の橋守(守護職)を務めるようになったそうです。
日本初の茶屋といわれる通圓の現在の建物は、寛文2年(1672)に建てられたもので、
江戸時代の町家の遺構を残す建物として、京都府の貴重な文化財とされています。
その由緒ある茶屋の前で同級生達が熱心に覗き込んでいるのは・・・。

お店のメニューでした。
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店内には、23代目当主の通園亮太郎氏によって、平成24年(2012)に修復に出されて、
往年の姿を取り戻した7代目通圓と親交のあった一休の作とされる初代通圓の木像、
秀吉が千利休に命じて作らせた茶の湯に使う水を汲み上げる釣瓶(つるべ)、数百年を経た茶壷などが並べられ、
足利義政、秀吉、家康など諸大名が立ち寄った記録が残る茶屋の長い歴史を伝えていました。

抹茶と茶団子
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橋寺放生院 |

宇治橋断碑 |
11時頃、通圓を出て、推古12年(604)に聖徳太子の発願によって、秦河勝が建立したと伝わる放生院に立ち寄りました。
境内に残る日本三大古碑の宇治橋断碑が、大化2年(646)に元興寺の道登が架橋したと伝え、
その橋を管理していたことによって橋寺、しばしば流出する橋を西大寺の僧、叡尊が弘安4年(1281)に再興し、
宇治川の中州に十三重石塔を建立するとともに大放生会を営んだことにより、放生院とも称される真言律宗のお寺です。
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摩尼車 |

十二支守本尊 |
文明11年(1479)の兵火の後、室町幕府の援助により復興、寛永8年(1631)に火災で焼失など、
繰り返された災難を語り継ぐように新旧の建造物が入り混じった境内で、 回転させて厄除し、招福を願う般若心経が刻印された摩尼車、
諸仏を守り本尊として十二支にあてはめた御堂(戌と亥年は阿弥陀如来像)など、新しい建造物が目立っていましたが、
本堂に安置されている本尊の地蔵菩薩坐像は鎌倉時代中期の作と伝えられています。
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宇治市源氏物語ミュージアム |

總角古蹟 |
仏徳山(大吉山)へ通じる緩やかな上り坂を進むと、宇治市源氏物語ミュージアムや總角(あげまき)古蹟石碑があり、
かな文化に代表される国風文化の成立、貴族社会から武家社会への移行、雅や禅文化の発祥など、
平安時代から室町時代ゆかりの一帯が近畿地方の貴重な歴史観光資源となっていることが覗えました。
源氏物語ミュージアムへは立ち寄らず、宇治上神社へ向かいました。
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さわらびの道 |

宇治上神社入り口 |
「この春はたれにか見せむ亡き人のかたみにつめる峰の早蕨」
宇治上神社までは、宇治十帖に因み「さわらびの道」と名付けられた雅な雰囲気を残した道が続いていました。
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宇治上神社の創建は明らかではありませんが、
平安時代に現在の宇治上、宇治神社を合わせて、宇治鎮守明神、離宮明神、離宮社と称されていたのは、
イラツコの離宮の桐原日桁(ひけた)宮や天皇の離宮があったこと、平等院の鎮守社とされたことに由来すると考えられていて、
今も「離宮祭」と呼ぶお祭が5月に斎行される古社で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録されています。

宇治上神社拝殿
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寝殿造拝殿 |

桐原水 |
年輪年代測定法により、建保3年(1215)頃の建造と判定されている拝殿は神社建築でありながら、
住宅建築が伝わっていない平安時代の住宅様式と見られる寝殿造が注目されると共に、
その優美な姿から、離宮の宇治院から下賜された建物であった可能性も考えられています。
室町時代に宇治茶が隆盛を極めるようになってから、茶園の象徴として「宇治七名園」が作られ、
それに合わせて「宇治七名水」が伝えられてきましたが、
六名水が失われて現存する唯一の名水となった桐原水が、境内の一画に建屋に守られて残されていました。

宇治上神社本殿
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康平3年(1060)頃の建造と判定されている宇治上神社本殿は、大きな覆屋を葺いて1棟としている特徴的な様式を持ち、
神社建築としては日本最古の遺構とされています。
不謹慎ながら、格子にカメラを差し込んで撮った左右の内殿の菱格子欄干上に見られる蟇股(かえるまた)は、
棟木や天井桁を受ける構造材としてではなく、小木片を二つ合わせて装飾用として造られたもので、
刳抜(くりぬき)式蟇股の発生を示す重要な実例として、
京都醍醐寺薬師堂、平泉中尊寺金色堂と共に藤原時代の三名蟇股として称賛を受けています。

「週刊 世界遺産」(講談社刊)の掲載写真を借用
左殿にイラツコ、中殿に父の応神天皇、右殿に異母兄の仁徳天皇が祭神として祀られている内殿三社は、
簡素で美しい一間社流造りになっていました。
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摂社:春日神社 |

末社:住吉社 香椎社 |
学業成就のイラツコ、勝負運の応神天皇、良運の仁徳天皇、縁結びの春日神社、安全・安産祈願の住吉社・香椎社など、
全方向対応の様子がうかがわる神社でしたが・・・

武本稲荷社
商売繁盛の稲荷社もしっかりと鎮座していて、
新しさが気になるものの、秘物の巻物をくわえたきつねにも出会えて、コンプリート!気分をいただきました。
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清め砂 |

社跡 |
拝殿前に置かれている清め砂は、神の依代(よりしろ)ではなく、9月1日の八朔祭の時に氏子が奉納し、
お正月や大事な日に境内にまき散らして境内地を浄める1年間盛られ続ける砂で、
社跡というのは、もとお社があった場所を人が踏んだりしないように大きな石などを置いて敬う神聖な場所を示しています。

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宇治上神社を後にして、宇治神社へ向かいました。
上社(本宮)と下社(若宮)の2社で平等院を鎮守していた宇治明神は、明治16年(1883)に宇治上神社と宇治神社に分立し、
イラツコのみを祭神とする宇治神社は、産土神、学問の祖神として地元の信仰を集めています。
本殿前には稲穂のように多くの知恵を授かり、実りある人生を過ごすようにとくぐり抜ける「智恵の輪」が置かれていました。
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宇治神社本殿 |

末社:住吉社 日吉社 春日社 |
鎌倉時代初期に建造された三間社流れ造り檜皮葺きの本殿は国の重要文化財とされ、
本殿中央にはイラツコの木造神像が奉安されています。
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宇治神社拝殿
宇治上神社からゆるやかな坂道を降りて、さわらびの道から横入りしたせいで、
軒に唐破風を持つ「桐原殿」と扁額が掲げられた建物が何であるか分かっていなかったのですが、
帰宅後に写真や境内配置図を見て、拝殿建物であったことが分かりました。
桐原殿という別名はかつての地名に由来しています。

こちらが朝霧橋前から延びる宇治神社参道で、左側の建物が参集殿、階段を上ると桐原殿へ至るという位置関係を
明確に把握することができました。
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朝霧橋
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屋形船を浮かべる塔の川
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河川改修中の宇治川
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橘橋
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昭和47年(1972)に架けられた朝霧橋を渡り、桜の春や鵜飼の夏の風情はさぞかしと思われる塔の川や
河川改修中の宇治川を見ながら、中ノ島(宇治公園)を15分ほど歩きました。
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平等院表参道の町並み
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中村藤吉平等院店

12時25分に宇治川べりの嘉永7年(1854)創業のお茶の老舗、中村藤吉平等院店に到着して、
記名をして少し順番を待った後、和風の店内に案内されて、
にしん茶蕎麦をいただきながら、ゆっくりと昼食時間を楽しみました。

平等院鳳凰堂
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昼食後、1時20分過ぎに平等院表門に到着し、40分待ちという鳳凰堂内部拝観は見送って、
庭園+平等院ミュージアム鳳翔館のチケット(600円)を買って阿字池(=極楽浄土の宝池)へ向かいました。
藤原頼道が父 道長より譲り受けた別業に永承7年(1052)に大日如来を安置して仏寺を開創して始まった平等院に、
翌年、天喜元年(1053)に落慶したのが、平安時代最高の仏師、定朝の手になる阿弥陀如来像を安置した阿弥陀堂(鳳凰堂)です。
釈迦の入滅後、時の経過と共に教えを実行して悟りを得るものが少なくなり、
仏法が衰滅するという末法思想が平安貴族の間に浸透していたことが、頼道に別荘を仏寺に改めることを思い立たせ、
極楽往生の願いを込めて、阿字池の中島に阿弥陀堂が建立されたと言われています。
その後、建武3年(1336)の南北朝の争乱や度重なる災害によって平等院の堂塔は荒廃してしまいましたが、
奇跡的にこの鳳凰堂だけが残り、平安時代の貴族が残した唯一の寺院として、世界文化遺産に登録されています。

平等院HPから借用した鳳凰堂中堂内部
明治35年(1902)から40年(1907)に半解体修理、昭和25年(1950)から32年(1957)に解体修理、
平成24年(2012)から26年(2014)に屋根葺替、柱塗り直し修理が行われた高さ13.5m、南北幅47mの鳳凰堂は、
悠久の時を告げて、端然と佇み、現代に生きる者をも魅了してやまないようでした。
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六角堂 |

鐘楼 |
境内には昭和の解体修理の折に交換し、廃材となった古部材を利用した六角宝形造りの東屋、六角堂や、
奈良の東大寺、大津の三井寺(園城寺)と共に日本三名鐘と称えられる鐘楼もありました。
鐘楼には昭和47年(1972)から復元された2代目の梵鐘が懸けられています。

昭和40年(1965)建築の初代宝物館に代わって、平成13年(2001)にオープンした平等院ミュージアム鳳翔館では、
国宝として保管されている初代梵鐘が入り口で出迎えてくれました。
11〜12世紀に造られた高さ199cm、口径123cm銅鋳製の梵鐘には天人、獅子、唐草などの文様がくまなく施され、
ゆったりとした裾広がりの見事な造形を見せていました。

ミュージアム鳳翔館内には、鳳凰堂内を彩色再現したコーナーや、
多くの国宝が含まれる絵画、美術工芸品、文書が展示され、平安文化の真髄を伝えていました。
阿弥陀堂中堂の屋根に据えられた鳳凰堂の名前の由来となった全身に魚鱗文が施された高さ1mの金銅製の鳳凰や、
同じく屋根を飾る国内最古で最古級の龍頭瓦など、
千年近く鳳凰堂を守り、今はミュージアム鳳翔館に保管、展示されている霊獣達のオリジナル品(図録写真)と、
今回撮ってきたレプリカ品を並べてみると、細部は不鮮明ですが、
日本人のDNAが現代の匠たちにも受け継がれていることは間違いないと思われました。
住職も途絶えてしまう中世の時代を経た平等院は、元和元年(1681)の寺社奉行の裁定により、
15世紀の明応年間に創設された浄土院、承応3年(1654)創始の天台宗系の最勝院の共同管理となって現在に至り、
特定の宗派に属さない単立の寺院と位置付けられています。
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縣神社
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橋姫神社
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降り始めた小雨の中、2時10分頃、平等院の南門を出て、
藤原頼道が平等院建立にあたって鎮守とした縁結び・安産のコノハナサクヤヒメを祭神とする縣(あがた)神社や、
水害・水難を防ぐとして信仰された時代を経て、神鬼になった姫を祀り、縁切りの御利益があるとされる橋姫神社を覗きながら、
JR宇治駅方面へ向かいました。
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懸崖仕立て?の推定樹齢200年の黒松 |

伊藤久右衛門 宇治駅前店 店内 |
予定の観光を終えて、時間に余裕がありましたので、伊藤久右衛門宇治駅前店のカフェで抹茶スイーツで一服、
食の宇治も堪能することが出来ました。

盛沢山なパフェ
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宇治駅前の茶壷型ポスト
3時20分にお店を出て、JR線で京都駅へ戻り、コインロッカーから荷物を出して、
高知の山崎さんと兵庫の森本君とお別れした後、駅弁やお土産を買い込んで、帰路に着きました。


ジパング倶楽部メンバーの2人に合わせて、みどりの窓口2箇所とネットでライン連絡を取り合いながら、
ほぼ同時にひかり指定4席を入手、無事に連席を確保していた座席を向かい合わせにして、夕刻の東海道新幹線で帰京、
延泊同窓会を楽しく、成功裏に締めくくることが出来ました。
最近読んだ黒井千次の新聞エッセイに、「70代は老年期の青春時代」とありました。
後期青春時代のスタートを切り、これから迎える最盛期を、共にゆっくり、楽しく、歩んでいけますように!
(2018.12.14)
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