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2017・10・1 (日)
湯布院~別府~宇佐神社~耶馬渓~浄璃光寺~大分~羽田


旅の最後の日の朝は、6時過ぎに宿を出て、流れ込む温泉と湖底からの湧水の作用で湯気が立ち上がるという
秋から冬の朝方に見られる幻想的な風景を見るために、金鱗湖まで早朝散歩をしました。
絵に描いたような景色が広がる中、餌をねだってツーッと近付いて来た太っちょガチョウだけが現実感を漂わせていました。



餌を諦めて、身づくろい



7時半からの朝食では、温かなおかゆが少し出始めた旅の疲れを和らげてくれ、
ビュッフェ・スタイルではない和朝食に心地よさを感じる世代に突入したことが実感されました。

血の池地獄 (国指定名勝)

8時半に山灯館を出発して、別府温泉へ向かいました。
伊予国で病に倒れた少彦名命のために大国主命が別府の湯を運ばせて湯あみをさせたら病が癒えたという古えからの伝承を持つ
日本有数の温泉地が最も発展したのは、掘削技術が進んだ明治時代中期以降と言われています。
源泉数が2300カ所以上という別府温泉では観光の目玉のひとつ、「べっぷ地獄めぐり」をすることにしました。

9時15分頃、「自ら早紅葉したる池畔かな  虚子」という石碑の立つ血の池地獄に到着しました。
奈良時代に編纂された「豊後国風土記」に「赤湯泉」と記された血の池は、日本最古、別府唯一の天然地獄で、
明治以降、昭和初期までの爆発記録が残り、爆発の高さが220mに達したという昭和2年9月の記念碑が建てられていました。
広さ1300㎡、深さ30m、温度78度、酸化鉄、酸化マグネシウム等を多く含んだ粘土は、皮膚病の軟膏薬や染色に使われています。



龍巻地獄 (国指定名勝)

次に行った龍巻地獄は別府市の天然記念物にも指定されている間欠泉で、
30~40分毎に6~10分ほど、105度の熱湯を30m以上の高さに噴き上げています。
地下の水圧と沸騰温度の微妙な関係で起きると考えられている噴出ですが、
イエローストーンやアイスランドに見られる間欠泉に比べ、噴出周期が短いことが龍巻地獄の特徴とされています。


  

すぐ近くの民家で、温泉を分けあっている様子が見られました。
温泉街ならではの光景ですが、10月25日の読売新聞に「別府温泉 お湯を配達へ」という記事が掲載されていて、
昨年の熊本地震で被災した別府市が支援を受けたお礼として、各地に温泉を提供する「恩泉配達」が
都内で初めて立川市などで行われ、立川市では配達される3000リットルの温泉を11月1日に市民に開放するそうです。
「別府温泉の恩返し」専用トラックが運ぶ写真を見て、温泉は分け合えるものだということを改めて認識しました。


 
湯けむりが立つ別府の街


鬼の高鼾(たかいびき)

鬼石坊主地獄

3つ目に立ち寄った鬼石坊主地獄の一画に、鶴見颪(おろし)の寒さに震えあがった鬼達が石の布団にくるまって高鼾のうたた寝、と
見立てられた音量98dBの噴出が見られました。

「泥を躍し、湯を起こし」(「函海魚談」脇欄室)と形容した地獄が田畑の所々に点在し、熱泥によって稲も育たず、
人々の暮らしを成り立たせなかった自然現象が逆に注目を浴び、畦道を見て回る見物客が出て来たのが地獄見物の最初の光景で、
日露戦争以後、人気に拍車がかかり、明治43年(1910)に入場料を取る地獄見物が海地獄から始まったそうです。
最大数十か所までに発展した地獄遊覧は、時勢による閉鎖などがあり、現在組合に加盟している地獄は7カ所となっています。




天平5年(733)に書かれた豊後国風土記も出てくる鬼石坊主地獄は、最古の地獄の一つですが、
現在の地獄は平成14年(2002)に再開園したもので、灰色の熱泥が球状になったり、飛び跳ねたりする光景が愉快でした。

地獄を3カ所回った後、10時過ぎに別府を出て、宇佐別府道路に乗って、
安心院のiichikoワイナリー(飲食、見学できず・・・)に立ち寄ったりしながら、11時過ぎに宇佐神宮に到着しました。



宇佐神宮本殿

全国に4万6百余社ある八幡宮の総本社とされる宇佐神宮は、
八幡大神こと誉田分命(ほむたわけのみこと)=応神天皇、その母神の神功天皇、宗像女神の比売大神(ひめおおかみ)の
3神を御祭神とし、神仏習合の信仰形態を先導する存在として、伊勢神宮に次ぐ皇祖神として信仰を集め、
九州最大の荘園領主ともなって、栄華を極めた歴史を持っています。

宇佐神宮が始まりとされる切妻造、平入りの建物を連結した八幡造の本殿は、
神亀2年(725)に創建、現在の建物は安政6年(1859)~文久元年(1861)の再建と伝えられる国宝の建物です。
本殿は部分的にしか見ることができませんでしたので、神社発行の由緒記から写真を拝借しましたが、
M字型屋根の雨仕舞いを「宇佐の黄金樋(きんのとひ)」で対処している所が見どころのひとつとされています。


呉橋駐車場に車を止めて、寄藻川沿いの道へ出て、先ず目に入ったのが呉橋でした。
鎌倉期以前の創建で、現存するのは元和8年(1622)細川忠利の修築と伝わる檜皮葺屋根の華美な呉橋は、
弥勒寺の仁王門へと続き、昭和初期までは表参道とされていましたが、
現在は10年に1度の勅使祭の時だけ扉が開けられる県の有形文化財となっています。
呉橋の少し下流に架けられたコンクリート橋を渡り、西参道から宇佐神宮境内へ入って行きました。

春宮(とうぐう)神社

上宮鳥居

宇佐鳥居 西大門

応神天皇から皇位を譲られながら悲劇の最期をとげた菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)を祀る春宮神社(摂社)の前を左折、
階段上に見られた鳥居は、丹塗、笠木に檜皮葺の屋根、額や額束がなく、柱の上部に黒い台輪、根元に腰ばかまを置くことを特徴とする
宇佐鳥居と呼ばれるもので、宇佐神宮境内の鳥居は全てこの様式で整えられているそうです。
宇佐神宮を代表する建造物のひとつ、県文化財指定の桃山様式の華麗な唐破風の西(さい)大門を入ると、
国宝や有形文化財の神殿が立ち並ぶ豪奢な神域が広がっていました。



南中楼門 (勅使門)

    

一般参拝は二拝四拍手一拝の作法で、皇族や勅使が通る南中楼門のある向拝から行うことになっていました。
参拝後、少し不謹慎ながら、三つの御殿や春日神社、申殿などを、土間回廊の間からカメラに収めて来ました。


祈祷殿 大元神社遥拝所

宗像三女神が降臨したと伝えられる豊前と豊後の国境の大元山(御許山)の山頂には古代から三体の磐境(いわさか)の石躰が祀られ、
全山が神籬(ひもろぎ)とされ、宇佐神宮奥宮として大元神社遥拝所が設けられていました。


西中門

神札授与所

西大門と神井 若宮神社

左側に勅使松、右側に大きな自然石の水鉢が置かれた神輿が出御する西中門や、
応神天皇の若宮の仁徳天皇と4人の皇子を祀った檜皮葺丹塗流造の若宮神社(摂社)などを見ながら、下宮へ降りていきました。
若宮神社の拝殿では神事や豊穣、国の大事を決する時の神意を占う亀卜(きぼく)が対馬の卜部によって行われ、
御祭神の5体の神像は国の重要文化財となっています。



下宮への坂道

下宮

810~820年創建の下宮も上宮と同じ御祭神で、古くは御炊殿(みけでん)と呼ぶ神様へ捧げる食事を調理する場所で、
昔から「下宮詣らにゃ片詣り」と言われ、上・下宮の両方をお参りするのがしきたりとされています。

  
兆竹(サマシダケ)                      イチイガシ 

下宮の境内の一画に卜占に用いた焼いた亀甲の熱を「冷まし」た兆竹(サマシダケ)が植えられていました。
神社全域を包む森はイチイガシ、クスノキを優先種とするほぼ自然の常緑広葉樹林と言われています。


高倉 下宮鳥居

神具を納めた有形文化財の高倉の前を通り、下宮鳥居を抜けて、表参道から帰路に向かいました。


能舞台

木匠祖神社

  
アオサギ                             コウホネ

境内の一画にある菱形池の島に建てられた能舞台は、元和元年(1615)に神能を再興した細川忠興が舞台・面・衣裳などを奉納、
それらが社宝として現存するそうです。
池の脇には聖徳太子を御祭神とする木匠祖神社が鎮座していました。


    
大鳥居


黒男神社

神武天皇東遷顕彰碑

黒男神社(末社)は八幡様養育の神、武内宿祢(たけのうちすくね)を祀り、今も宇佐神宮の門前で守護奉仕を務めていました。
多くの伝説を伴った参拝を1時間ほどで終え、12時15分頃、宇佐神宮を後にしました。



  

30分程で中津に到着し、神楽やライブ・コンサートで賑わう「道の駅 なかつ」のレストランで、
大分名物のだんご汁、中津名物のからあげ定食など、地元の味を賞味しながら、
すいとん、ほうとう、だんご汁など小麦粉を使ったお料理は、
米より麦の栽培が盛んな地方の郷土料理であることを納得したランチタイムとなりました。


本耶馬渓 競秀峰

1時半過ぎに中津を出て、2時前に耶馬渓に到着しました。
英彦山(ひこさん)から流れ出る山国川とその支流が造り出す東西36km、南北32kmに及ぶ耶馬渓は、
深耶馬渓、本耶馬渓、裏耶馬渓、奥耶馬渓と4つに分けられる渓谷美の名勝ですが、
今回はその北端に位置する本耶馬渓に立ち寄り、競秀峰、青の洞門、耶馬渓橋を見学しました。

 山国川に沿って9つの岩峰が青の洞門上にそびえる競秀峰は、「いかに秀でているか競う」という名前の由来通り、
その美しさで大正12年(1923)に名勝耶馬渓として国の文化財指定を受けましたが、
経年で樹木が岩峰を覆いつくし、景観が損なわれたため、平成22年(2010)に修景を実施し、以前の姿を取り戻したそうです。


    
山国川                      禅海和尚                      菊池寛            
  

青の洞門

鎖を伝って渡る難所だったこの地の村人を助けるために、ノミと槌で30年かけて洞門を掘りぬいた禅海和尚と、
その話を「恩讐の彼方に」という小説に仕立てた菊池寛を顕彰する碑が、山国川の川べり、競秀峰のふもとに建っていました。
享保20年(1735)に完成した全長342mの青の洞門には手掘りのノミの跡を残す岩壁が部分的に残されていました。


耶馬渓橋

大正12年(1923)に建造された耶馬渓橋は日本で唯一の8つのアーチを持つ石橋で、
石橋としては日本一とされる長さ116mを誇り、長崎県の石橋に多い工法で造られているためオランダ橋とも呼ばれています。

耶馬渓見物を30分ほどで終え、2時20分頃、いよいよ旅の最終地、大分空港へ向かいました。
瀬戸内海に面する大分空港までは、国東半島を横断することが分かり、
時間が許す限り、六郷満山(ろくごうまんざん)のお寺に寄りたい、というのが旅前の願望的計画の一つでした。

神仏習合の平安時代、宇佐八幡宮弥勒寺の荘園であった国東半島では、
宇佐神宮を発祥とする八幡信仰と伝説的な聖僧・仁聞(にんもん)による山岳信仰が融合した独特な天台仏教文化が開花、
中心部の両子(ふたこ)山地から放射状に広がる谷に沿っておびただしい数の寺院が建立され、
当時、半島が6つの郷に分かれていたことから、これらを総称して六郷満山文化と呼ぶようになり、
その独特な山岳仏教文化が今に受け継がれて、六郷満山は平成30年(2018)に開山1300年を迎えるそうです。


熊野摩崖仏入り口

胎蔵寺

国東半島の山間に沿った田園風景を車窓にしながら、カーナビを頼りに1時間ほど走って、
国東半島の摩崖仏の代表的存在、熊野摩崖仏に到着しましたが、片道15分ほどの石段を往復するには時間が足りない・・・と、
全長8mの不動明王像、6.7mの大日如来像の拝観は入り口で断念、と相成ってしまいました。


瑠璃光寺

熊野を出て、もうひとつ立ち寄ってみることにした瑠璃光寺に4時前に到着しました。
養老2年(718)に仁聞によって開基されたと伝わる瑠璃光寺は、
建武3年(1336)に足利尊氏が祈願所として中興し、隆盛を極めた時代もあったという寺伝が残り、
釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来の最高位仏像3体をはじめ、日光・月光菩薩、不動明王像、十二神将像など
火災の難を逃れた木造仏像群で有名なお寺です。


    

右手に安置された茅の木一本造りの僅かに彩色の跡が残る阿弥陀如来立像は11世紀前半の特徴を見せるといわれています。
訪れる人も少なさそうなお寺に突然やって来たシニア隊を住職が親切に迎え入れて、
木造仏像群の写真撮影も黙認してくださいました。


    

笠の下の方形主体部に仏像を彫りこんだ石殿や日本一の大木と言われるサルスベりの木などを慌しく見学した後、
一路空港へ向かい、4時半にトヨタレンタカー会社に到着して、九州北部828kmのレンタカー旅が終わりを迎えました。


空港内でお土産の買物をしたり、ビューレストラン「スカイライン」で軽い夕食をとったり、旅の余韻と快い疲れの中で、
ゆっくりと6時25分の出発を待ちました。


    



A320機は定刻の8時に羽田に着陸し、8時40分の渋谷行きリムジンバスに乗って、9時半に帰宅することができました。

九州で出会った様々な神々と旅を共にした仲間たちへの感謝と共に、
多くの見聞がこれからの旅へとつながり、確かな指針となってくれる予感に充たされつつ・・・!

                                                 (2017.10.29)


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