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6 Jul.2013
Cortina d'Ampezzo〜Pordoi〜Lago Carezza〜Bolzano
トファーネ山塊の朝焼け
ファロリア山(H2327m) 旧市役所と教区教会

朝5時50分頃、「朝日が出てる」という夫の声に起きて窓の外を見ると、山肌が赤く染まっているのが見えましたので、
大急ぎで着替えて、ホテル正面の宿泊階と同じ2階のバルコニーへ写真を撮りに行きました。
6時には朝日の鮮度は落ちていましたが、山の朝の清々しい空気が素敵な一日を予告してくれるようでした。

早目にバッゲジダウンをして、夫より一足早く、7時半前にレセプションへ降りて行くと、「朝食は8時からですって。」と旅仲間から教えられ、
それならばと一人で街歩きに出掛け、8時前にレストランへ戻ると、「何をしてたんだ」と夫がおかんむり・・・。
どうやら昨夜のインフォメーション通りにレストランは7時半から開いていて、
心配の後の怒り心頭の夫は、さっさと朝食を済ませて、一人で先に部屋へ戻ってしまいました。
それでもコルティナの美しい景色に浄化されて?気分転換が早かったのは幸いでした。




ヨーロッパを横断するアルプス山脈の南側の分峰ドロミテ山塊は東西180km、南北120kmにわたっていますが、
この日は東の中心地コルティナ・ダンペッツォから西の中心地ボルツァーノまで、ドロミテ街道を110kmほどバスで走りました。
コルティナを出発して、ファルツァレーゴ峠で写真ストップ、ポルドイ峠のロープウェイで展望台まで上り、
ドロミテの最高峰を擁するマルモラーダ山塊などを展望した後、麓の町カナツェイで昼食、
その後カレッツァ湖へ立ち寄ってからボルツァーノまで、というのが一日の行程でした。



9時にポスト・ホテルを出発して、20分余り走った頃、チンクエ・トッリ(=5つの塔 H2137m)が車窓に見えて来ました。
麓を通過した頃は雲がかかっていましたが、つづら折りの山道を上る途中に、名前の由来が分かる全容を遠望することができました。
この辺からラガツィイ山(H2752m)にかけてはロック・クライミングのメッカとされていて、
また大戦の塹壕が数多く残るため野外博物館ともなっているそうです。



ラガツィイ山へ上るロープウェイが行き来しているファルツァレーゴ峠(H2105m)で写真ストップを取りました。
側にはイタリア軍演習場があり、峠の駐車場ではトレッキングに向かう準備をしている人達の姿がたくさん見られました。




2日目のベネツィアから10日目のストレーザまで、9日間のスルー・ドライバーのサンティーノさんは、
旅の後半からたまに遅刻するというローマっ子の本領発揮?の場面もありましたが、
暑い時はエアコンを早目に入れたり、ボトル水の在庫補給など気を配りながら、概ね安全運転で私達の旅を支えて下さいました。




ポルドイ峠までの1時間のドライブの車窓には岩と緑のコントラストが美しいドロミテの景観が続き、
トレッキングや自転車で夏のレジャーを楽しむ姿が見られましたが、例年6月中旬から始まるシーズン開始が今年は遅れ気味で、
7月に入ってようやく観光客が増えて来たそうです。
春の花も残る草地には黄色や白やピンクのバスストップしたいような花畑が続き、
結果的には今回は車窓でしか見ることができなかったヤナギラン群落の素通りが、とりわけ、残念に思われました。



11時前にドロミテ街道で最も標高の高い峠、ポルドイ峠(Sasso di Pordoi H2239m)に到着しました。
ここからサッソ(=岩)・ポルドイ(H2950m)までの711mを1962年に開通した65人乗りロープウェイ(フニクラ Funivia)で
4分ちょっとで引き上げてもらいました。
この時、今回の旅の最年長、80歳でお一人参加されていたAさんの姿がないというハプニングがありましたが、
I添乗員さんの往復10分で問題なく解決したようでした。




到着したセッラ山塊(Gruppo Sella)の頂上は、5km続くという岩山に雪が残り、また格別の景観で出迎えてくれました。
歩いている途中に膝まで足を取られても、延々と続く残雪ではありませんから、笑っていられる余裕が見られます。



サッソ・ポルドイの断崖とマルモラーダ山塊

サッソ・ポルドイの断崖の南側にはドロミテの最高峰(H3343m)を擁するマルモラーダ山塊が広がっていて、
万年雪と氷河を抱くアルプスらしい山容と迫力のある荒々しい岩山の競演に圧倒されるばかりでした。




                                     −T.I−

1時間ほどのフリータイムを満喫して、はるか眼下に見えるポルドイ峠まで、再びケーブルカーで降りました。


 

ケーブルカーの車窓に断崖斜面を歩いて登っている人の姿が見えて驚きましたが、
サッソ・ポルドイには伝説的な登山家たちによって開拓された歴史あるルートがあるそうですので、
ケーブルカーがあるのに・・・と思う方が山知らず、と言えそうです。
もう一つ、残雪のサッソ・ポルドイの岩の割れ目にひっそりと咲いていたイワツヅリの花にも驚かされましたが、
これも岩を割るという意味のSaxafragaという学名を持っていて、サッソにこそ相応しい花と分かりました。


  

12時10分にポルドイ峠を出発して、サッソ・ポルドイから眼下に遠望したカナツェイ(H1450m)までつづら折りの道を下り、
「Le Perle」で地元名物カズンツィエーイ(ほうれん草とチューダーチーズ入りラビオリ)、仔牛ソテー、アイスクリームで
1時間のランチ・タイムを楽しみました。


2時15分に出発したカナツェイの町は何かのお祭り日だったようで、民族衣装を着た人達に出会いました。
建物と衣裳がよく似合っていますが、いずれもチロル風で、イタリアを旅行していることを忘れてしまいそうな光景でした。



草刈り作業などを車窓にしばらく牧草地帯を走った後、この日最後の峠、コスタルンガ峠(H1752m)を越えて、
3時過ぎにカレッツァ湖(H1519m)に到着しました。



ラテマール山(H2846m)を湖面に写すカレッツァ湖

エメラルドグリーンのカレッツァ湖の周りを一周する時間はありませんでしたが、
深く澄み切った湖を泳ぐ魚や湖畔の野草を楽しみながらモミの林に囲まれた湖周を30分余り散策して、素晴らしい景色を楽しみました。


   

カレッツァ湖はドロミテ街道でも人気の高い景勝地らしく、様々なタイプの観光客で賑わっていましたが、
私達と同じE旅行社主催の「アルプス・ハイキング25日間の旅」というパワフルなツアーとの出会いもありました。



3時40分にカレッツァ湖を出発し、ボルツァーノ(H262m)まで標高を下げていく車窓には、
木材工場、石切り場、水力発電所など人の営みが多く見られるようになりました。



4時20分頃、ボルツァーノに入ると、1786年9月11日にブレンナー峠を越え、ヴェローナへ向かう途中、
「山麓の丘はぶどう畑になっている。長い低い造り棚の上に蔓を這わせてあって・・・」(「イタリア紀行」ゲーテ著・相良守峯訳)と
ゲーテが書いたと同じ景色が広がり、ドロミテからの雪どけ水を集めたイザルコ川の急流も見られました。
4時半に街の中心部に到着し、1時間半ほど、ボルツァーノの街を観光しました。



先ず、立ち寄ったのは14〜5Cにゴシック様式で建てられたドゥオーモ(大聖堂)で、
ウィーンのシュテファン寺院やブダペストのマーチャーシュ教会に似た美しい緑や黄色のタイル屋根が特徴的でした。



屋根タイル拡大

繊細な細工が施された鐘楼は16C初頭に造られ、65mの高さを持っています。


 

正面入り口には教会創建当時の12Cのロマネスク様式の柱廊式小玄関が残り、柱を支えるライオンが歴史を語り継いでいるようでした。
北側外壁にはキリスト磔刑のフレスコ画も残っていました。


  

3廊式になっているドゥオモの内部は、天井はルネサンス様式、壁面には14Cのフレスコ画が残り、
ゴシック様式の説教壇や18Cバロック様式の大理石の祭壇があり、各時代の様式の重層が見られました。



次に南チロル考古学博物館へ行き、1991年にアルプスの山中で発見された5300年前のミイラを見ました。
45歳の男性で「アイスマン」(愛称エッツィ)と名付けられたこのミイラは、
たまたま3月にNHKで放映された番組「完全解凍!アイスマン〜5000年前の男は語る〜」によると、
左肩を矢で撃たれて大量出血した(血液型はO型)上に、顔を石斧でなぐられて死亡したこと、山の中を縦横に行き来し、
肉類のほか、小麦も食べていたことなど解凍によって多くのことが判明し、学問各分野に計り知れない貢献をもたらしたそうです。



本当は撮影禁止だったのですが、始めの頃、ノーフラッシュなら大丈夫という情報があり、アイスマンご本人と共に、
熊などの毛皮で作られた帽子や靴、想像図などの展示品も写して来ました。
縄文時代の日本人とどこかでつながっているのかもしれないアイスマンは、手の中を(あるいは身の中を)全て見せて、
今こそ、本当の眠りについているのかもしれませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 追記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ボルツァーノ欧州アカデミーなどの国際研究チームが胃からDNAを採取、解析して、
ヘリコバクター・ピロリ菌に感染していたことが判明、胃の粘膜の保存状態が悪く、実際に胃潰瘍などを患っていたかは不明であると
8日付の米科学誌「サイエンス」に発表したそうです。
                                        (2016年1月8日 「日本經濟新聞」朝刊)



ワイマルでの宰相生活から逃避したゲーテが、「集まった沢山の商人の顔つきはどれもこれも面白かった。
目的のきまった安楽な生活がいかにも生き生きと外面にあらわれている。広場には果物売りの女たちが陣取り・・・」と
一種、羨望すら含むような描写をした市場のあるエルベ広場で、5時半から30分のフリータイムが取られました。



エルベ広場のネプチューン噴水


人口10万人の都市である現在のボルツァーノにゲーテの時代を求めるのは無理ですし、
3方を山に囲まれた盆地のボルツァーノは蒸し暑く、冬から夏まで体感した一日の終わりは疲れが先に立つようでしたが、
16Cから第一次世界大戦が終わるまでハプスブルク帝国の支配下にあった時代の面影を残すポルティチ通りなどを散策して、
ドロミテ観光の締めくくりとしました。



エルベ広場に再集合し、ドゥーモや19C終わりに造られた詩人ヴァルター (1170頃−1230頃)像が立つヴァルター広場から
バスに乗り、街の中心から離れた産業地区にあるホテル「FOUR POINTS BY SHERATON」に6時半に到着しました。



ホテル正面の写真は夕食後の8時50分過ぎに撮ったものですが、まだ青空が残っている所にご注目ください!

  

南チロル風ほうれん草団子(イタリア語ではもっとしゃれた名前がありそうです)、蒸し焼き魚、アップル・シュトゥーデルが
夕食のメニューでした。
この日は長テーブルでしたので、ワインは横並びになった昨夜と同じYa夫妻とシェアし、
会話は向かい合った(アルコール派ではない)S夫妻、Yo夫妻とご一緒するというフリースタイルな?夕食風景となりました。


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