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9 Jul.2013
 Cinqueterre〜Portfino〜Santa Margherita Ligure

パルマのホテル「STARHOTEL DU PARC」を7時40分に出発、エミリア・ロマーニャ州からトスカーナ州を経て、
リグーリア州のラ・スペツィアへ向けて90kmほど南下しました。
高速道路の車窓にアルペン山脈の山景色を見ながら、中心に教会を抱く街をいくつか通過した後、
9時30分にイタリア最大の海軍工廠があるラ・スペツィアに到着しました。



                        (地図「地球の歩き方」)

フランス国境からトスカーナ地方まで大きく弧を描いて延びる約250kmのリグーリア海岸(イタリアン・リヴィエラ)は、
ジェノヴァから西は砂浜、東は山が海岸に迫る険しい地形となっています。

ツアー6日目はリグーリア海岸東端のラ・スペツィアからレヴァントまで電車移動の途中、マナローラ、ヴェルナッツァで下車観光、
その後、サンタ・マルゲリータ・リグレまでバスで行き、船でポルトフィーノ見学という行程になっていました。


                             


小舟が唯一の交通手段であったこの地方に鉄道が敷かれたのは1874年のことですが、今も大型車両が入れる道路が少なく、
観光客の多くが鉄道を利用するため、ラ・スペツィア駅はバカンス客で賑わいを見せていました。




添乗員さん任せの旅では確認不要ですが、時刻表に見入るツアー仲間の姿も見られました。
ローマへは4時間ちょっとで“通じている”ようで、列車の旅への旅情を誘われるようでした。
夏期にはスリ多発で要注意と言われるリグーリア路線ですが、幸い、私達は10時6分発のラ・スペツィア駅始発電車に乗車、
周りを気にすることもなく、ゆっくりと座って行くことができました。
発着とも少し遅れて、時刻表では10時17分となっているマナローラに10時半前に到着しました。



垂直な断崖が10kmほど続くチンクエテッレは「5つの土地」が意味する通り、モンテロッソ・アル・マーレ、ヴェルナッツァ、コルニーリア、
マナローラ、リオマッジョーレという5つの村が点在、その類を見ない海浜景観が1997年に世界遺産に選定されています。

その村のひとつ、マナローラのトンネル駅を抜けて商店街を通り、海へ出ると、ちょうどボートを海へ下ろす場面と出会うことが出来ました。
港が小さい上に波が荒いため、岩盤の上に駐挺場があるというちょっと珍しい光景です。



マナローラの絶景

岩山に貼りつくように建てられたパステルカラーの家々とエメラルドグリーンの海は観光ポスターなどでお馴染みですが、
地中海の風を感じながら見る景色はまた格別のものでした。



5つの村は崖に阻まれてそれぞれ孤立しているのですが、部分的には海沿いに整備された小道があり、
私達は歩きませんでしたが、マナローラとリオマッジョーレ間の「愛の小径」と呼ばれる有名な散策路もあるようです。
右写真の石を結びつけた釣り竿のような物は、実用品ではなく、オブジェのようなものと見受けられました。


      

30分程のフリータイムに丘の上まで登ってみました。
マナローラはチンクエテッレでぶどうの生産量が最も多く、急斜面に開墾、過酷な条件で育てたアルバローラ種とヴェルメンティーノ種の
デザート・白ワイン「シャケトラ」は、生産量が少ないこともあり、幻のワインとも称される希少品だそうです。



地中海世界の歴史を物語る上で欠くことができないのが7Cに始まり、18Cまで1000年以上続いた
北アフリカから来襲してくるイスラムの海賊の存在です。
1740年にトルコが「海賊禁止令」に調印、1816年にトリポリ、チュニス、アルジェでも海賊禁止法実施、
あらゆる海賊行為を厳禁する「パリ宣言」が1856年に成立して、ようやく海賊は地中海世界から姿を消したと言われます。
                          (参考:「ローマ亡き後の地中海世界」塩野七生著 新潮社)

しばしば海賊の来襲を受けたマナローラが発展したのは、ジェノヴァ共和国の傘下に入った13C頃からで、
良質なワイン生産や内陸から移り住む住民が増えて蓄えた富によって、
1338年にゴシック様式で建設したサン・ロレンツォ教会が丘の上にありました。
海賊時代の要塞の石を宅地造成やぶどう畑の石垣に利用、小型の車であれば自由に往来できるようになり、
観光客が多く訪れるようになった・・・というのがマナローラをはじめとする現在のチンクエテッレの姿なのだろうと思われました。



10時20分頃、降り立ったマナローラ駅のホームから村をつなぐ船の姿が見えました。
ヴェルナッツァまでの電車内は噂に聞く混雑ぶりで身動きも出来ないほどでしたが、10分ほどの短時間で救われました。
ヴェルナッツァの入口には2011年10月25日の集中豪雨で起きた土砂崩れの様子がパネル展示されていました。





復興した街並みには観光客があふれていて、活気を取り戻した様子が見られました。
14C建造のサンタ・マルゲリータ・ディ・アンティオキア教会が立つ港沿いの広場で20分程ほどフリータイムを過ごした後、
12時過ぎから広場に面した「IL GAMBERO ROSSO」でランチになりました。


  

 

タコとじゃがいものマリネ、ムール貝とアサリ蒸し、エビのパスタ、イカとエビのフリット、フルートサラダと海の幸を堪能しました。
この後、「シャケトラ」をゆっくり楽しむのが王道かもしれませんが、
1時半から2時20分までのフリータイムを、私達はまた丘の上までのハイキングで過ごしてしまいました。


                   

日陰でくつろぐ村の人達を見ながら上って行くと、眼下にヴェルナッツァ駅が見えました。
2年前の災害の時に土砂は入り込んでも、崩壊した家はなかったそうですから、地盤の堅牢さは確かなようです。




10分余り上った所でヴェルナッツァの見事な眺望と出会うことが出来ました。
チンクエテッレの地形もはっきりと分かります。



岬の先端に立つのは、「トッレ・サラチェーノ」(=サラセンの塔)と呼ばれた監視塔で、
「海辺に立つ塔から、白煙をあげれば見える距離の奥地に、もうひとつの塔を建てる。そしてそこからまた内陸に、
白煙の見える距離をはさんで三番目の塔を建てる。これが、四番目か五番目の塔になった地が、
海賊の来襲が激しかった時代には、人々が隠れ住んでいた土地であった。このシステムが、海賊の来襲が減少していくにつれて、
ただ逃げるだけでなく、いつ海岸にもどれるかを知るためにも使われるようになる。」
と塩野さんが書く2番目の塔までを見ることが出来て、白煙の恐怖が追体験できるようでした。

「海の近くに住む人々は、こうして、山奥に安住の地を求めた住み方から、海辺と山地を往復する住み方に変わってきた。
夏期には山地に、秋から翌年の春までは海の近くに、というように。
以前ならば、海近くに居をかまえるのは堅固な城塞の中で大勢の兵士に囲まれて住む領主でもなければ不可能であったのが、
少しずつにしても、庶民にも可能になり始めたのである。」  (「ローマ亡き後の地中海世界」下巻372頁)

美しい景観に出会い、ヴェルナッツァが辿って来たであろう歴史も実感できて、納得&満足な下り道でした。



2時35分にヴェルナッツァ駅を出発、時間帯のせいか、再び空いた電車に乗って、15分程でレヴァント駅に着き、
3時にバスに乗り、山道を1時間ちょっと走って、サン・マルゲリータ・リグレに4時過ぎに到着しました。




古代ローマの植民都市であったサンタ・マルゲリータ・リグレは7C半ばにロンゴバルド、10Cにはサラセンの占領下、
13Cからはジェノヴァ公国の傘下、1813年からナポレオンの統治を受け、2年後にサルデーニャ王国の属国となった後、
1861年のイタリア統一を迎え、第2次世界大戦後は観光リゾートとして発展したという長い歴史を持つ街で、
海沿いのプロムナードにはジェノヴァ出身のコロンブス像が立っていました。



サンタ・マルゲリータ・リグレから定期船に乗ってポルトフィーノへ向かいましたが、出航してまもなく、
ジェノヴァ時代の要塞の廃墟が見えました。


 


帆柱を林立させるヨットや小型クルーザーの多さが高級ビーチリゾート地であることを物語るポルトフィーノに15分程で到着しました。
かつてはグレース・ケリーやソフィア・ローレンなどの別荘があったことでヨーロッパの特権的リゾート地として名を馳せたようです。




船を降りたマルティリ・デッロリヴェッタ広場で、4時40分頃から6時までフリータイムが取られましたので、
丘の上に見えるブラウン城やサン・ジョルジョ教会を見に行きました。



ブラウン城チケット売り場


せみの声を聞きながら、ゆっくりと山道をのぼって、15分ほどでブラウン城に到着しました。
駐ジェノヴァ領事のイギリス人ブラウン氏が1867年に購入し、ブラウン城と呼ばれるようになった15C建造の要塞は、
ジェノヴァ時代にはベネツィアから、ナポレオン時代にはイギリス艦隊から攻撃を受けた歴史を持ち、
ポルトフィーノ市が買収した1961年以降は展示場やイベント会場などとして使われています。

城内には政財界や映画界の人達がポルトフィーノを訪れた時の写真や軍人、外交官などの顔写真を展示した部屋、
ギャラリーなどがありましたが、かなり寂れた印象を受けました。




ラウン城の庭のテラスへ出ると、入り江深くに佇むポルトフィーノの素晴らしい眺望が眼下に広がっていました。
まわりを取り囲む山の深い緑が景観をさらに魅力的にしているようです。


ブラウン城から道を下ると、1154年創建のサン・ジョルジョ教会がありました。
どれだけの再建が繰り返されたか分かりませんが、ポルトフィーノの港からは見えない外海側の壁が石材のままに残され、
黄色に(タイル?)装飾されていない所が面白く思われました。



ローマ通り

港まで降りて、ジェラート・ブレイクを入れてから、名だたるブランドが店を構えるローマ通りを歩くと、
上階の洗濯物とのコンビネーションがリゾート地の味わいを見せるGUCCIのお店がありました。


6時過ぎにポルトフィーノを出航、サンタ・マルゲリータ・リグレへ戻りましたが、
船の屋上デッキで景色を眺めていると、波しぶき?と思ったのも一瞬、突然のシャワーに見舞われ、
私は操舵室の浅い軒下で雨宿り、ほとんどの人はクモの子を散らすように船内へ駆け込んで行きました。

サンタ・マルゲリータ・リグレに6時20分頃に到着、降りやまない雨をやり過ごしたりしながら、徒歩でホテルへ向かい、
「PARK HOTEL SUISSE」に6時40分にチェックインしました。




丘の上に建つホテルの部屋からサンタ・マルゲリータ・リグレの街や海を眺望することができました。
と言っても、デッキ・チェアでのんびりとはいかず、夕食までの小1時間の間に、
シャワーを浴び、荷物を整理して・・・と慌ただしく過ごしました。


  
 
8時からのホテル・レストランでの夕食はラビオリ、カジキマグロ、プディングというメニューでした。
「ツアーも後半になると進むのが早い」などと話ながら、お酒に強くない(ご主人が?)S夫妻がボトル・ワインにお付き合い下さった夜でした。



9時45分に部屋へ戻ると、ようやく日も暮れて、外は夜景色に変わっていました。

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