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10 Jul.2013
Santa Margherita Ligure〜Barolo〜Torino〜Cervinia

5時半頃起床して、朝の支度をする部屋の窓からジェノヴァ湾が段々明るくなっていくのが見られ、
6時半には山の間から太陽が顔を見せ、この日も良いお天気でスタートです。
「PARK HOTEL SUISSE」は丘の中腹に位置し、大型バス用の駐車場が離れていましたので、
少し早めに7時にバッゲージダウンした後、朝食を取って、8時に出発しました。



リグーリア海岸に沿って西へ走った後、サヴォナから北へ向かい、バローロまで約120kmが午前中の行程で、
ジェノヴァのベッドタウンを過ぎた頃から、田園風景が増えて行きました。



リグーリア州を離れ、ピエモント州に入ると、Piedi di Mont(山の足)という言葉の通り、緑豊かな景色が続きました。
ぶどう畑の丘の上に城館や教会が建つ風景は絵のように美しく、いつまでも見飽きることがありませんでした。

ピエモンテ州のタナーロ川の両岸には「ランゲ・エ・ロエーロ」と呼ばれる丘陵地帯が広がっていて、
右岸のランゲ地区はバローロやバルバレスコなど著名なワイン産地を有する他、中心の街アルバは白トリュフで有名で、
左岸のロエーロ地区はフルーツ類の有数の産地で、中心地ブラはスローフードの発祥地と言われています。



11時に人口700人ほどのバローロ村に到着しました。

先史時代にリグーリア系ケルト人が住み、ローマ時代にはカエサルがローマへワインを持ち帰ったと伝えられるバローロは、
ロンゴバルト王国、アルバ伯領、トリノ侯国の支配の後、ジェノヴァ共和国時代に銀行業で頭角を現したファネッティ家が居城を置いて、
基礎を築いたと言われています。
丘の麓の駐車場でバスを降りて、ファネッティ家の居城まで上って行きました。



居城前のバローロの見晴台と呼ばれるテラスから、どこまでも続くぶどう畑を見渡すことができました。
石灰質の土壌、雪が多く、寒さが厳しい冬、乾燥した夏、それと秋の収穫期に発生する霧が、
バローロのぶどう品種「ネッピオーロ種」(Nebbia=霧)の栽培に適していて、
ここから生み出されるDOCG(=Denominazione di Origine Controllatae Garantita:規格統制保証付原産地呼称ワイン)ワインは
「王様のワイン ワインの王様」(Re dei Vini Vino dei Re)と称されています。


      


今回は1761年からワイン造りをし、1848年に正式設立、1961年のイタリア建国祝賀晩餐会で公式ワインのひとつとされたワイナリー、
「BORGOGNO」(ボルゴーニョ)で試飲をしました。


  

バローロ・ワインは長期熟成によって本領を発揮するタンニンの強さを特徴としていますが、
今回試飲した比較的新しい2008年のワインは当たり年ということで、ほど良く調和がとれ、洗練された味わいに感じられました。
「気を使いながら持って帰らなくても、日本でもそれ程の値段差なしで手に入るよ。」と夫からは言われましたが、
せっかくですから、試飲した30ユーロものよりワン・ランク上のものを1本だけ買って帰ることにしました。
(夫には「買うのを反対した人は飲まないでね。」と釘を刺しましたが、「飲まない訳ないでしょ」と・・・。)
試飲をした9人はほとんどの方がお買い上げのようでしたが、中に1ダースも買われた方がいて、
何と試飲代の5ユーロが返金されることになりました。




12時まで買物をしたり、散策をしたり、小さな素敵な村の中でフリータイムを過ごした後、
ランチ・レストランへ向かいました。




「RESTORANTE BREEZA」

  

ワイン・リゾット、温野菜添えローストポーク、ヌガー・アイスケーキのランチを、無論、バローロ・ワインと共にいただきました。
リゾットにさらにワインをかけるという食べ方を試していた方も見られました。




食後にレストランのテラスへ出ると、地上の楽園とはこのような所ではないかと思われるような素晴らしい景観が広がっていました。
ワインだけでなく、景色にも酔ってしまいそうでしたが、産地を訪れるというこの上ない機会に恵まれて、
我が家でしばらくバローロ・ワイン・ブームが続くことは間違いないと思われました。

2時にバローロを出発、ピエモンテ州の州都トリノまで約70km、1時間半余りのバス車中は、
I添乗員さんのトリノの歴史話、シエスタ半ば・・・といった所でしたが、街へ入る前に、もう一度、歴史のおさらいをしておきましょう。

ケルト系のタウリニ族(=山の方から来た人)が住んでいたことを街名の由来とするトリノは、
古代ローマ時代には北方防備と交通の要衝として発展、その後、ロンゴバルト、フランク各王国が支配した後、
11Cにレマン湖南岸のフランス領サヴォアから発展、イタリア東北部へと領土を拡大したサヴォイア家の支配下に入り、
1416年に伯領から昇格してサヴォイア公国となり、
1562年にエマヌエル・フィリベルトがフランスのシャンベリーからトリノに公国の首都を遷都したという歴史を持っています。

欧州列強を巻き込んだ30年戦争の後、スペインに代わってルイ14世のフランスが欧州の覇者となり、
もともとフランスの影響が強いサヴォイア公国は、いっそうフランスからの圧力を受けることになりますが、
カルロ・エマヌエレ2世(1634−1675)、ヴィットリオ・アメデオ2世(1666−1732)の時代に、
フランス、スペイン両大国の対抗関係をうまく利用しながら国益をはかると共に、
首都トリノの整備、貴族階級の解体、中産階級の活用、農業の育成など社会の近代化を進め、
1713年のユトレヒト条約ではシチリアを獲得し、公爵家から王家へ昇格を果たすことになりました。

その後1720年のハーグ条約でオーストリア領有のサルデーニャとシチリアとの交換を余儀なくされ、
ナポレオン統治時代にはサルデーニャへ逼塞せざるを得なかったサヴォイア家ですが、
ナポレオン没後、ヴィットリオ・エマヌエレ1世(1759−1824)がトリノの支配者として復帰、
2代後のカルロ・アルベルト(1798−1849)が内政を充実させた後、
ヴィットリオ・エマヌエレ2世(1820−1878)の時代に、政治に外交に辣腕を発揮した名宰相カブールを得て、
イタリア統一運動の要となり、王国樹立を勝ち取って、1861年から3年間はイタリア王国の首都となりました。
現在は自動車産業を中心とする工業都市として発展、ローマ、ミラノ、ナポリに次ぐイタリア第4の都市となっています。
              (参考:「物語イタリアの歴史 解体から統一まで」藤沢道郎著 中央公論新社刊)



3時20分頃、ポー川沿いの道に出ると、王国軍に加わってイタリア統一の力となった赤シャツ軍団ガリバルディ将軍像や
歴史あるトリノの街並みが車窓に見られるようになりました。




マダマ宮殿

レージョ(王立)劇場

カステッロ広場に3時40分に到着し、徒歩で街の観光に向かいました。


ガイドのパウロさん

最初に目に入ったのは古代ローマ時代のデクマーナ門の一部を要塞とし、城砦化していった歴史を持つマダマ宮殿の東面でした。
1740年に開場し、名声と凋落の時代を経た後、1936年の火災で外壁を残して消失、1965年から再建工事を始め、
焼け残った外壁をそのまま残し、ガラスとコンクリートを加えて設計された1973年再開場のレージョ劇場の外観を見ながら、
カステッロ広場の中心の王宮へ行きました。


 

トリノの語源タウロと雄牛のイタリア語トロが似ていることから、雄牛がトリノのシンボル・マークとされています。


16Cから建築が始められた王宮は、17Cのカルロ・エマヌエレ2世の時代にほぼ原型が出来上がり、
改築を加えながら、イタリア初代王ヴィットリオ・エマヌエル2世の時代までサヴォイア王家の正式な宮殿とされたそうです。




左右対称のすっきりとした外観を見せる宮殿は、窓枠などにピエモンテ・バロック様式と呼ばれる要素が見られました。
内部と同様に見学はしませんでしたが、北側の庭園はフランスの造園家サンドレ・ル・ノートルの手になるもので、
トリノとフランスの関係の深さが窺われます。



マダマ宮殿

マダマ宮殿はヴィットリオ・アメデオ1世の未亡人マリア・クリスティーナ(=カルロ・エマヌエレ2世の母)や
カルロ・エマヌエレ2世の未亡人ジョヴァンナ・バッティスタ(=ヴィットリオ・アメデオ2世の母)が住んだことで
マダマ(=マダム)宮殿と呼ばれるようになった宮殿で、
西側のファサードはヴィットリオ・アメデオ2世の時代にフィリッポ・ユヴァラによって造られた傑作の誉れ高いバロック建築になっています。

子供達が水遊びする噴水がある宮殿広場に建つ大きな大理石像の台座には、
「I MILANESI ALL ESERCITO SALDO IL DI 15 GENNAIO 1857」と書かれていて、
知人を巻き込みながら調べた結果、宰相カブールが同盟国の好意を得るために派兵したクリミア戦争の時の
サルデーニャ陸軍の旗手のモニュメントであるらしいというあたりまでは分かったのですが、確定することは出来ませんでした。




マダマ宮殿を側面から見ると、ローマ時代の面影を残す東面とバロック時代の西面の構造がよく分かります。
18年の修復期間を経て、2006年にアンティーク・アート市立美術館として再スタートしたマダマ宮殿は、
2006年のトリノ冬季オリンピックの時には国際オリンピック委員会のクラブとして使用されたそうです。


 

カステッロ広場の南側に高くそびえ立つのは、ムッソリーニの設計と言われるファシズムを象徴する建物で、
「ムッソリーニの指」と呼ばれて市民から嫌われていますが、現在は高級マンションとなっているそうです。



トリノの都市計画の見事さを端的に示す、街を18kmも取り囲むポルティコ(=アーケード)を通って、
サン・カルロ広場へ行きました。




17Cに造られたサン・カルロ広場はイタリアで最も美しい広場のひとつと言われ、「トリノの応接間」と称されています。
二つの教会、貴族の館、歴史あるカフェが均整を見せて並ぶ中、ポルティコがよいアクセントとなっていました。


   


広場に立つ大きな騎馬像は、トリノに遷都したサヴォイア家中興の祖、エマヌエル・フィリベルトを称えるために、
1838年にカルロ・マロケッティが造ったものです。


  
サン・クリスティーナ教会とサン・カルロ教会

4時15分から45分までフリータイムには、先ず1630年代に建てられた二つの教会を覗きました。
サン・クリスティーナ教会のファサードはマダマ宮殿と同じフィリッポ・ユヴァラの手になる華麗なものでしたが、
教会建築に心地よさが感じられるのは初期ゴシックあたりまでという気がします。



カフェ・トリノ

コンフェッテリア・ストラッタ

フランスやハプスブルグに支配された19Cのイタリアで、唯一イタリア王を抱いていたサルデーニャ王国の首都トリノは、
自然発生的にイタリア統一運動の志士達のたまり場となり、それによってカフェ文化が発達したと言われています。


   

国王ウンベルトがケーキを食べながら政治談義をしていたと伝えられる1903年創業の「カフェ・トリノ」で
ホットチョコレート、エスプレッソ、スチームミルクを層にしたビチェリンを飲んだり、
1875年創業の老舗「ストラッタ」でピエモンテ名菓「ジャンドゥイオッティ」(ヘーゼルナッツ入りチョコレート)などを買ったり、
広場の中で思い思いに過ごしたフリータイムでした。
(たまに車酔いをする私は、これから先の山道ドライブに備えてコーヒーは控えましたので、ビチェリンは借り物画像です。)

因みにイタリアでよく目にする細長いスティック状のパン、グリッシーニは、
病弱であったヴィットリオ・アメデオ2世を心配した母ジョヴァンナ・バッティスタが食生活の改善をお抱え医師に指示し、
王家御用達のパン屋に消化の良い粉で作らせた発酵パンが誕生物語と言われています。


 
成田いろんなトロ達


カリニャーノ宮殿

5時前にサン・カルロ広場を出て、来た時とは別の道を通って、カステッロ広場へ戻りました。
カリニャーノ広場に立つのはイタリア統一運動の主要人物の一人、聖職者ヴィンチェンツォ・ジョベルティで、
像の後方にエジプト博物館やサバウダ博物館があり、向き合っているレンガ造りの建物がカリニャーノ宮殿です。




カリニャーノ宮殿の屋根にヴィットリオ・エマヌエーレ2世の文字が飾られているのが見られますが、
この宮殿はカルロ・アルベルト、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世父子が生まれ、
サルデーニャ王国の国会、イタリア王国最初の国会が召集された場所で、
1997年に世界遺産に登録されたサヴォイア王家の王宮群のひとつとなっています。
内部は国立リソルジメント博物館となっていて、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世、カヴール、マッツィーニ、ガリバルディの自筆文書など
イタリア王国誕生時の貴重な資料が数多く所蔵されているそうです。



アールヌーボーのガレリア・スバルピナや1816年開場の映画館などを見ながら、5時ごろバスへ戻りました。


今回は短いトリノ観光で、トリノのランドマークと言われるモーレ・アントネッリアーナの塔も車窓から建物の間に見るだけに終わり、
ちょっと物足りなさを感じつつ、ヴァッレ・ダオスタ州のチェルヴィニアへ向かいました。
産業で食べていけるトリノ市自体も、今までは観光にそれ程の力を入れていなかったようですが、
見所の多いトリノをもっと訪れてほしいというのがガイドのパウロさんのお話でした。
サヴォイア家の支配の下、イタリアの中で独自な歴史を紡いできたトリノの魅力は奥が深そうです。



1時間も走るとまわりはすっかり山景色に変わって行きました。



道中のおやつとしてI添乗員さんから配られたストロー付きの小さな容器に入ったエスプレッソ・コーヒーを
トイレ休憩に寄ったSAで見つけた私達の旅仲間は、5個、10個と買い占めて、ショップの棚を空っぽにしてしまい、
I添乗員さんのこの日の日誌には「コミッションもらいたい・・・」というつぶやきが添えられていました。



途中、雨が降ったりしましたが、7時半に着いたチェルヴィニアではモンテ・チェルヴィーノ(=マッターホルン)が完璧な姿で出迎えてくれ、
ホテルへ入る前に写真を撮るのに忙しいひと時を過ごしました。



「SERTORELLI SPORT HOTEL」

ホテルの部屋からの眺め

  



「SERTORELLI SPORT HOTEL」ではくじ引きで決めたコルティナ・ダンペッツォのホテルの格差是正というI添乗員さんの配慮で、
私達はリラックス・ルーム(ホテル側の表現)とジェット・バスが付いた部屋に恵まれました。
リラックス・ルームのテーブルの上に置かれている大きな袋の中味は木くずで、
木を多用した室内と共にフィトンチッド効果がありそうでした。


  

8時15分からのホテル・レストランでの夕食は、様々な前菜がビュッフェに並び、
野菜スープの次に、ソーセージ&ポレンタ、魚、豚肉のいずれかがメイン料理となり、デザートもフルーツ、ケーキを選び放題で、
連泊の気分的ゆとりも手伝って、10時過ぎまでゆっくりと楽しんだ食事時間となりました。

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