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14 Oct.2012
 Pamplona~Eunate~Obanos~Puente la Reina~
Hondarribia~San Sebastian



女神像

ナバラ州庁舎(Palacio de Navarra)

8時45分にホテルを出発、夜半の雨でバスの窓が濡れていたり、目的物が反対の窓側だったりで、
写真は撮れませんでしたが、ザビエルつながりで姉妹都市提携を結んでいる山口公園や、
フェリペ2世の時代に造られた五陵の星形の城塞公園を車窓に見ながら、街の中心部へ向かいました。

10分余りで旧市街の入口のひとつ、サラサーテ通りに到着しました。
サラサーテ通りの東端にある1903年に設置された高さ25mの女神像(Monumento a los Fueros)は
ナバラの歴史、正義、自治、平和、仕事を象徴し、左手に持っているのは法律書だそうです。
州庁舎前にはナバラ州旗、スペイン国旗、EU旗が掲げられていました。




州庁舎前の年号旗はレコンキスタに貢献し、ナバラの自治権を拡大させた1212年のナヴァス・デ・トロサの戦い、
軍事侵攻して来たカスティーリャ王国に併合されながらも自治権を守った1512年を表しているようです。

BC75年にローマ将軍ポンペイウスが創設した植民市ポンパエロを街名の起源とするパンプローナは、
西ゴート、イスラム、フランク王国の支配の後、サンチョ2世(在位:970-994年)、
サンチョ大王(在位:1000-1035年)の時代に基盤を固めて行ったナバラ王国の首都として発展、
今も当時の面影をとどめた旧市街を残しています。
宗教界に入る前のイグナチオ・ロヨラ(1491-1556年)が1521年のパンプローナの戦いで負傷して
入院していたという病院の前を通って、旧市街観光に向かいました。



現地ガイドのホセさん成田

 
牛追いモニュメント                     闘牛場(Plaza de Toros)

牛追いの等身大のモニュメント(Monumento al Enciero)を見た後、
メキシコシティ、マドリードに次ぐ世界3番目の規模を持ち、収容人数2万人を誇る闘牛場(外観)を見学しました。

ナバラ美術館に隣接するサント・ドミンゴ広場からこの闘牛場までの約840m、
牛に追われながら街の中を2分半~3分間走る牛追い(エンシエロ)は、サン・フェルミン祭の催しのひとつで、
ヘミングウェイの処女長編小説「日はまた昇る」で有名になりました。
スペインの村祭りの付き物といわれる牛追いには仔牛を使うことが多いのですが、
パンプローナでは600kgもある2歳半~3歳牛を使うために怪我人も多く、
ゴールの闘牛場には救急センターが設けられるそうです。
牛追いに使われた6頭によって、当日の午後、この闘牛場で闘牛が催されます。




「アーネスト ヘミングウェイ ノーベル賞作家 この街の友でサン・フェルミン祭の賛美者 
パンプローナを描き、その名を広めた功績を称える 1968年」と彫られた
ヘミングウェイ像が闘牛場前に置かれていました。
ヘミングウェイは1923年から31年までの9年間に7回、サン・フェルミン祭見物に訪れているそうです。



「Gran Hotel La Perla」

牛追いの道

両側に建物がぎっしりと並ぶ牛追いの道には、ヘミングウェイが宿泊した部屋(3階:1泊1500ユーロ)や
サラサーテがバイオリン演奏をしたというバルコニーのあるホテル「ペルラ」(裏側)がありました。
牛追いの時にはそれ程幅が広くない石畳の道にギャラリー用の柵が二重に設置され、
通りに面した建物のバルコニー席は60ユーロで貸し出されるそうです。


  

来年のサン・フェルミン祭までカウントダウンする電光掲示板、エンシエロ・ミュージアムなど、
街は牛追いオンパレードの様相ですが、美味しそうなバルや土産店も並んでいて、
日曜日の朝の閉店と時間不足が残念に思われました。


  

「巡礼者の宿」と日本語表示があり、年間6万人が宿泊するという巡礼宿で、
ホセさんが巡礼手帳(Credencial del Peregrino)を希望者に1.5ユーロで購入して下さいました。


 

氏名、年齢、国籍、住所、巡礼の目的(宗教、観光、スポーツなど)、移動手段(徒歩、自転車、馬)を記す欄があり、
スタンプを押す場所が数ページ屏風だたみにされている16X9cmほどの薄い手帳です。



サンタ・マリア大聖堂

サン・サトゥルニノ&サン・セルニン教会

巡礼手帳を入手した後、サンタ・マリア大聖堂とサン・サトゥルニノ&サン・セルニン教会の外観を見学しました。
11Cのロマネスク、14~5Cのゴシックの教会を18Cにネオクラシック様式に改築したサンタ・マリア大聖堂は
ビクトル・ユーゴーから「塔がふたつあるドンキー」と酷評を受け、市民の評判も芳しくないそうです。




市庁舎近くのサン・サトゥルニノ&サン・セルニン教会は12Cのロマネスクと13Cのゴシックを取り入れた教会で、
ホタテ貝がついた袋を持ったヤコブ像が入口に立っていました。
パンプローナ初代司教のサトゥルニノは、パンプローナの守護聖人であるサン・フェルミンに洗礼を与え、
異教徒4万人をキリスト教に改宗させたと伝えられています。


  
市庁舎広場(Plaza de Consistorial)

サンタ・マリア大聖堂から坂を下った所に、ファサードの上に力強さを象徴するヘラクレスやライオン像、
入口両側に正義と知恵を表す女神像を飾ったバロック建築のパンプローナ市庁舎がありました。

毎年7月6日正午にこの市庁舎のバルコニーでサン・フェルミン祭の開会宣言が行われ、
7日から14日まで毎朝8時に牛追いがスタート、午後は闘牛、夜には花火が打ち上げられ、
14日24時のキャンドル・パレードによってお祭りの幕が下ろされます。
この広場が2万人以上の人々で埋め尽くされる様子をTVで観たことがありますが、
熱狂という言葉しか思い浮かばない光景でした。
牛追いに参加する男性が着る白い洋服と赤いスカーフはサン・フェルミンの殉教に因んでいるそうです。




ナバラ王国時代に対立していたナバレリア、サン・サトゥルニノ、サン・ニコラスの3地区が
1423年の協定後に統合されて発展、それを記念した1997年設置のプレートが市庁舎前の路面にありました。


 
「Cafe Iruna」

市庁舎広場からカスティーリャ広場へ出て、ヘミングウェイがジントニックを好んで飲んでいたといわれる
カフェ・イルーニャに入って、カフェ・ソロ(=エスプレッソ)で一息入れました。
左のレンガ色の建物がカフェ・イルーニャ、右端の白い7階建ての建物がホテル・ペルラです。
この15分程のフリータイムに牛追いの道へ戻り、昨日の騒動の?コーヒーキャラメルを入手してきた方が
何人かいらしたようです。(ハビエル城よりかなり安価だった様子・・・)

短いパンプローナ観光を終えて、10時半にサラサーテ通りへ戻り、バスでエウナテへ向かいました。


 

11時前に田園の中にぽつんと建つエウナテのサンタ・マリア教会に到着しました。
エルサレムの聖墳墓教会を模して造られたこの教会は、
巡礼の途中で亡くなった巡礼者を埋葬するために12C半ばに造られたと言われ、
エウナテというバスク語が「the good door」「one-hundred door」を意味するというのも興味深い所です。

ヨーロッパの各地からスペインの西北端に位置するガリシア地方サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼は、
10~12C頃に最盛期を迎え、宗教改革などの影響を受けて16C以降下火になったと言われますが、
この巡礼路が1993年に世界遺産に登録されたこともあり、世界的な人気を得て、
「サンジャックへの道」「星の旅人たち」など映画の舞台にも度々取り上げられています。

イエスの十二使徒の一人である聖ヤコブ(=サンティアゴ)がエルサレムで殉教した後、
弟子達によってガリシア地方へ運ばれ、9C初めに隠修士ペラヨによって発見された遺骸が
聖ヤコブのものであると確認したテオドミーロ司教が小さな礼拝堂を建てたことが
サンチャゴ・デ・コンポステーラの聖地伝説の始まりとされますが、
イスラムとの争いの時代にキリスト教国によって作為的に作られた聖地であったとしても、
ロマネスク美術を開花させた中世の巡礼路は、時代を越えて、人を惹きつける魅力を保ち続けています。


 

教会隣接の巡礼宿(かっては救護院)で巡礼手帳に最初のスタンプを押してもらった後、
シンプルな内部や持ち送りに異様な人物顔が並ぶ八角形のロマネスク教会の外観を見学、
11時10分に巡礼路歩き(体験)に出発しました。



石の巡礼道標と麦畑に囲まれたサンタ・マリア教会

 
田園の中の巡礼路とサンタ・マリア教会遠望


巡礼路マーク

 
ブドウ畑とペルドン峠の風力発電風車



のどかに広がる田園の中の道沿いでブドウ、オリーブ、フェンネル、ニワトコなどを見ながら、
病気治癒を祈願する巡礼者が薬草を食べながら歩く中に治癒することもあったという話を思い出しました。

 
オバノス村


オバノス村役場とサン・ファン教会

 

丘の上のオバノス村で休憩をいれながら1時間余り、5kmほどの道のりを気持ち良くハイキングして、
巡礼者姿のブロンズ像が出迎えるフランスとアラゴンからの巡礼路が合流する地点に到着しました。


 
12~4C建造の磔刑教会


サンティアゴ教会の外観とパイプオルガン

プエンテ・ラ・レイナの街に入って、巡礼宿でスタンプをもらったり、
Y字型の磔刑像がユニークな磔刑教会や17Cのバロック様式の内部を持つサンティアゴ教会に寄りながら、
(私達の)巡礼歩きのゴール地点のプエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)へ向かいました。



プエンテ・ラ・レイナ



サンチョ大王妃ムニアが私財をなげうって造ったことから「王妃の橋」と名付けられたプエンテ・ラ・レイナは、
アルガ川の上に、王妃と呼ぶに相応しい優美な姿を見せていました。
この11Cの石橋がプエンテ・ラ・レイナの街の発展に大きく貢献したことは想像に難くありません。


 

橋の側のインフォメーション・センターでスタンプをもらい、ほたて貝のペンダントを購入すると、
再利用の紙で包装されましたが、仕上げの?スタンプが結構良い味を見せてくれました。
1時半からレストラン「LA PLAZA」でランチタイムとなりました。




煮込み野菜サラダ、生ハムとますを一緒に焼いたナバラ風鱒、メロンとモモというメニューでしたが、
ナバラ名物の鱒料理は日本人の味覚に合っていると思われました。

2時45分にレストランを出発し、一路バスク州へと向かいました。
サングエサからパンプローナ、プエンテ・ラ・レイナと進んできたナバラ州をそのまま西南へ向かうと、
マキャヴェッリが「君主論」で讃えたチェーザレ・ボルジア(1475-1507年)の終焉の地ビアナが
ラ・リオハ州に入る手前にあります。
教皇アレクサンドル6世の庶子として生まれたチェーザレは、父の死後、新教皇と対立してスペインへ追放され、
義兄を頼ってパンプローナへ逃亡、その後、ナバラの司令官として出征した戦いで戦死し、
今はビアナのサンタ・マリア教会に眠っているそうです。
「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」(塩野七生著)の読者としては、
ビエナまで西進したい所でしたが、ツアーは一旦、巡礼路を離れ、北へと向かって行きました。



4時15分にバスク州ギプスコア県のフランス国境に程近いオンダリビア(=砂の浅瀬)に到着しました。
あいにく、どしゃ降りといってよい程の雨になってしまいましたが、
バルでトイレ休憩の後、傘をさして、丘の上の16~7Cの要塞の中を見学に出掛けました。


 

カルロス5世が築いた要塞を、城砦兼宮殿として16Cに改築したという無骨な外壁の建物は、
現在はパラドールとして使われていて(川側の景観はきっと素晴らしいことでしょう!)、
その前の広場をバスク地方特有の白い漆喰に赤や緑の木枠窓の家が取り囲んでいました。


 

国境となっているビダソア川の対岸にはフランスのアンダイエの町がかすんで見えていました。
その辺りで引き返した人達もいましたが、半数ほどは添乗員Iさんと丘を下って漁師の家を見学に行きました。
カラフルな木組みは上の広場でみた家と似ていますが、やや庶民的な家並みが見られました。


 
16C城門                             レストラン「ALAMEDA」



雨にもめげず、小1時間の見学後、オンダリビアの街を後にしましたが、
実はこの街に着いた時、偶然入ったバルの前に「ALAMEDA」(=街路樹)というレストランがあり、
そこの窓から日本人が顔をのぞかせるという驚きの出会いがありました。
ミシュラン1つ星、スペイン評価では2つ星というこのレストランで、
2週間、2年、10数年目という3人の日本人が修業しているとのことでした。
2年目君は来年帰国して金沢でお店を開くそうです。


 

5時15分にオンダリビアを出発、30分で着いたサン・セバスチャンのホテル「LONDRES E INGLATERRA」は、
部屋の格差が大きいということで、鍵を自分で選ぶ方式の部屋決めとなりました。
私達は辛うじて海側に引っ掛かるバルコニー付きの角部屋で、先ずは当たりの部類のようでしたが、
外壁修復中の足場と保護シートで外はほとんど見えず、どきどきする程のことはなかったとも思われました。
連泊の気分的なゆとりで、旅行社から配布された絵葉書を書いてホテルのポストから出しましたが、
東京まで10日余りかかり、届いたのは帰国後のことでした。



雨が降り続く中、8時にホテル近くのレストラン「LA ESPIGA」へ行き、
サン・セバスチャンが発祥の地といわれるおつまみ料理ピンチョス(Pintox)を初体験しました。
串を意味するというピンチョスは1口サイズになっているものが多く、
それらを盛った小皿料理をスペインのバル(居酒屋)ではタパスと呼ぶようです。

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