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2018・9・28
奈良~ 山の辺の道 <三輪~天理> ~奈良
                           

6時頃に目を覚ますと、朝日が窓に差していて、上々のお天気で旅の2日目を迎えることが出来ました。
奥が深過ぎてどこから手を付けたものやら、という奈良でしたが、
いつ頃からか、先ずは古い方からと、奈良旅のスタートを「山の辺の道」と決めていて、
そろそろ実行どきと考えたのが、今回の旅計画のはじまりでした。



7時過ぎに朝食へ行くと、観光客時間はほぼ同じと見え、レストラン前には列が出来ていて、
席の案内を受けるまでに10分余り、食事が並べられたのは7時半頃となりました。


  

それでもビュッフェ・スタイルよりは落ち着いて食事が出来る所が伝統ある古いホテルの利点と思われました。
和・洋定食のいずれかを選択となっていましたが、周りを見渡したところ、8~9割が茶粥の和定食で、
卵料理と飲み物に選択肢があるだけで野菜なしの洋食はあまり人気がなさそうでした。




1909年創業の奈良ホテルは1913年から20年まで鉄道院(Imperial Goverment Railways)の直営とされ、
多くの私鉄が国有化され、全国の路線を鉄道院が管理した時代のI.G.Rの文字が入った100年前のラベル・コピーを頂きました。

308時半にチェックアウト、すぐに拾えると見込んだタクシーは誤算で、レセプションで呼んでもらうことになりましたが、
しばらく待った後、何事にものんびりな奈良がお気に入りという大阪人のタクシーに乗って、
奈良ホテルからホテル日航へという行き先を、「山の辺の道ハイキングに備えて」と納得してもらい、
「自販機を見つけたら必ずお茶を買い足して熱中症対策を」というアドバイスを受けながら、ホテル日航へ荷物を預けた後、
9時7分発のJR桜井線(愛称:万葉まほろば線)で三輪へ向かいました。




無人改札の三輪駅に30分程で到着、「大和神社御用達」という古い看板を掲げた駅近くの食堂で昼食用のお寿司を調達し、
松の馬場と呼ばれる三輪明神参道を歩いて、大神神社(おおみわじんじゃ)へ向かい、二の鳥居前に10時に到着しました。

7世紀初め頃に大和平野を南北に走る上・中・下ツ道と呼ばれた官道が開かれるより前に、
上ツ道よりさらに東側、三輪山から北へ山裾を縫うように伸びていた道が日本最古の道と呼ばれる山の辺の道です。
その道ははっきりと跡付けることはできないと言われていますが、
三輪山南麓の古代の市、歌垣で有名な海石榴市(つばいち)から春日山麓までの約35kmが山の辺の道とされる中、
大神神社から天理の石上神宮までの約12kmが、古墳や古寺社が点在し、古代の面影を残す道として、
東海自然歩道の指定も受けた人気のハイキングコースとなっています。
倭建命が望郷の念と共に「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し」と詠ったという古代ロマンをお伴に、
大神神社から12kmというほとんど経験のないロング・ハイキングを始めました。



祓戸神社

夫婦岩



大神神社二の鳥居前から、罪や穢れを祓うために参道の最初に置かれた祓戸(はらえど)神社、
三輪の神と人間の女性との恋物語を伝える二つの岩、古くは神が宿る磐座(いわくら)とされた夫婦岩、
玄賓(げんぴん)僧都が三輪の神様の化身の里女に与えた衣が懸っていたという伝説を持つ志るしの杉などを見ながら、
灯篭が列をなす常緑樹に包まれた長い参道を進むと、階段を上った先に大神神社の拝殿がありました。



鳥居の原型といわれるしめ柱

大神神社拝殿

大国主命が自らの魂を大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の名で鎮めたと伝わる三輪山の磐座をご神体とする大神神社は、
大物主大神、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)、少彦名神(すくなひこなのかみ)三神を祀り、
本殿を持たず、拝殿を通して三輪山を拝む神社の原初の姿を持ち、日本最古の神社と伝えられ、
三輪山と拝殿を区切る三ツ鳥居(非公開)と寛文4年(1664)に徳川家綱によって再建された檜皮葺の拝殿が
国の重要文化財の指定を受けています。





拝殿の前に大物主大神の化身の白蛇が住むと伝えられるうろ穴のある巳の神杉が立ち、
御神酒や蛇の好物とされる卵が参拝者によってお供えされていました。
雨乞いのご神木ともされた現在の杉は樹齢600年と考えられています。



表参道を二の鳥居まで戻り、三輪明神(大神の別称)の子、大神氏の祖となった大直禰子命(おおたたねこ)を祀る若宮社の前を通って、
久延彦神社へ向かいました。



久延毘古(くえびこ)は海のかなたからやって来た少彦名の素性を見抜いて大国主命に教えたと言われ、
身体に障害があって歩けなくても世の中のことを全てお見通しと古事記が伝える神で、
学業の守護神、知恵の大神として久延彦神社に祀られています。


石段を上った高台に位置する久延彦神社から、
桜井市街の先、左手に葛城山、畝傍山、耳成山の大和三山、右手に二上山を展望することができて、
歴史や文学を実感するひと時となりました。


狭井神社

                              


次に立ち寄ったのが、垂仁天皇時代の創祀と伝えられる大物主神の荒魂を祀る狭井神社で、
神社の許可を得て、片道1時間の道のりを3時間以内に下山という決まりのもとで三輪山へ登る登拝口がありました。
境内の奥に神聖な水源、井戸を意味する狭井もあり、三輪山からの湧水を飲んだり、ペットボトルに詰める姿が見られました。

狭井神社を出ると曲がりくねった細い山道が続きましたが、久延彦神社へ寄ったために、
大神神社で追い越してきたつもりの老人会ウォーキング集団に紛れ込んでしまい、追い越しもままならず、
歩調をゆるめざるを得ず、少しストレスを感じる区間となりました。


玄賓(げんぴん)庵

老人会の方と「どこからいらしたのですか?」などとおしゃべりしていて見逃しそうになり、逆戻りして、立ち寄った玄賓庵は、
しきみと閼伽水を持って供養に通ってくる女に衣を与えたら三輪明神の化身であったという謡曲「三輪」で知られる
玄賓僧都(734-818)が隠棲したと伝わる草庵です。
明治の廃仏毀釈の折、旧地から現在地に移されて、廃寺を免れたと言われる静かな佇まいのお寺でした。



檜原神社


豊鍬入姫宮

山道を300mほど歩き、上り坂の先に大神神社摂社の檜原神社がありました。
この神社も三輪山中の磐座をご神体とし、三ツ鳥居が拝殿の代わりとされていました。
この地は伊勢神宮に鎮座する前の天照大神を一時的に祀った大和の笠縫邑(かさぬいむら)と比定されていて、
斎宮の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)も祀り、元伊勢の別称を持っています。



檜原神社からバスで温泉&昼食に向かうという老人会とここでお別れ、この先は時々ハイカーとすれ違うだけで、
快適な山の辺の道ハイキングとなりました。



「巻向の山辺とよみて行く水のみなあわの如し世の人われは」柿本人磨呂

古事記や万葉集などの歌碑にも導かれながら、野辺の道、水が音を立てて流れる用水路に沿った生活路を、
無人露店の「試食用」みかんを頂戴して、喉をうるおしながら、のんびりと歩を進めました。




桜井市と天理市にまたがる視界が開けた先に、初期ヤマト王権発祥の地と言われる纏向遺跡がありました。
この古墳時代前期遺跡からは農耕具がほとんど出土せず、土木工事用工具が多いという一般的集落とは違う特徴から、
日本最初の都市または都宮があった場所と目され、
イクメリビコ(垂仁天皇)の纏向珠城宮、オオタラシヒコ(景行天皇)の纏向日代宮の伝承地とされています。



日代宮伝承地の坂を上った先に、野見宿禰(のみのすくね)が力自慢の当麻蹶速(たいまのけはや)と垂仁天皇の御前で、
天覧相撲をして勝利したと日本書記が伝える野見宿禰を祀った相撲神社がありました。



  
ハギ                         クズ                       ザクロの実

思い描き、望んだ通りの秋景色の中を歩いて行くと、
昭和41年(1966)に歴史的風土特別保存地区に選定された纏向遺跡の中でも特に重要とされる古墳密集区域に差しかかりました。





渋谷向山古墳

行燈山古墳

渋谷向山古墳は「御陵は山辺の道の上にあり」と古事記に記され、景行天皇陵と比定される古墳で、
 丘陵の先端を利用して3段に構築、全長300m周囲1kmの規模を持っています。
その北側に「御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあり」とされた濠や堤が幕末に改修された全長242mの行燈山古墳、
ヤマト王権を開き、実在が確実視される最初の10代天皇、天皇陵としては最古とされる4世紀築造の崇神天皇陵がありましたが、
政治と祭祀の象徴とされる前方後円墳は、近くで見てもただの森としか見えず、1時近くになってお腹も空いてきた所で、
宮内庁管轄の遥拝所はどこも同じ仕様だし・・・と崇神天皇陵の西側の参拝は省略することにしました。
近くを通った櫛山遺跡は全国でも珍しい双方中円古墳と言われています。



天理市トレイルセンター



301時に天理トレイルセンターに到着し、外のベンチに座って、三輪で調達してきたお寿司をいただきました。
奈良なら柿の葉寿司と目論んでいたのですが、県内どこでも作っている訳ではなく、
特定のお店から取り寄せたりしているとのことで、お店自家製のしっかり味の稲荷ずしと鯖ずしのランチとなりました。



1時半にトレイルセンターを出発し、すぐ近くの長岳寺へ立ち寄りました。
淳和天皇の勅命を受け、大和神社の神宮寺として天長元年(824)に弘法大師が開いたと寺伝が伝える長岳寺は、
最盛期の中世には42もの堂宇を数えるほどでしたが、兵火や神仏分離によって衰退していったそうです。
現存では日本最古と言われる平安時代末期の創建当初の杮葺の鐘楼門や、
広い境内の格調ある浄土式庭園に往年の繁栄を感じることができました。



長岳寺本堂

大師堂

本堂に安置された仁和元年(1151)作の本尊阿弥陀三尊像は玉眼を使った日本最古の仏像と言われ、
本堂は天明3年(1783)、大師堂は正保2年(1645)に再建されています。



歯定神社

大和(おおやまと)神社御旅所坐所社

山の辺の道の西方、JR桜井線長柄駅近くに、大和の地主神・日本大国魂大神(やまとおおくにたま)を祀る大和神社があり、
その大和神社の御旅所とされる場所に小さな神社が並んで立っていました。


燈籠山古墳

継体天皇皇后の手白香皇女を祀る衾田(ふすまだ)陵


五社神社

萱生(かよう)環濠集落


古墳、神社が次々と現れる中、南北朝時代から筒井順慶による統一までの大和の戦国乱世が生んだ環濠集落、
用水池を兼ねた濠を周囲に巡らせた自衛の集落に人の体温にも似た安らぎを覚えたりしました。




濠の中にいた金魚の大集団


柿畑の収穫風景を見たり、ちょうど3時頃に通過した無人販売所で100円のアイス最中を買って食べながら歩いたり、
行き当たりばったりの気ままさ、気楽さが楽しいハイキングが続きました。



嘉永元年(1848)に春日若宮社から移した鳥居

左手に天理の町を望む辺りに、萱葺きの拝殿が珍しい夜都伎(やとぎ)神社がありました。
春日大社の4神を祀る夜都伎神社には、明治時代まで60年毎に春日若宮社から社殿と鳥居が下げられていたそうで、
明治39年に改築された向拝には春日大社に似た鮮やかな彩色が残っていました。



「うち山やとざましらずの花ざかり」

江戸へ下る前、伊賀上野に住んでいた頃の芭蕉が宗房の号で詠んだ句碑が立つ内山永久寺跡にも立ち寄りました。
鳥羽天皇の勅願によって永久2年(1114)に興福寺大乗院頼実が創建、
東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ寺領を有し、西の日光と称された52坊を誇った寺社も神仏分離令、廃仏毀釈で廃寺となり、
南北朝時代に後醍醐天皇が吉野行幸の折に立ち寄ったとされる萱の御所跡と本堂池のみ残る寂れた場所は、
栄枯盛衰の歴史をまざまざと伝えているようでした。

まもなく、この日のハイキング最大難所の上り坂にかかり、スズメバチが出て通行禁止と地元の人に教えられて迂回したり、
道を間違えたりしましたが、気が付くと、いつの間にか、石上神宮の境内に入っていました。



崇神天皇時代に大直禰子を祭主として三輪山に大物主大神を祀ったと同じ頃、物部氏の祖先の伊香色雄(いかがしこお)が
平国之剣(くにむけしつるぎ)を布留の高庭に移して祀ったのが石上神宮の始まりとされ、
神武天皇の東征の折に命を守った平国之剣をご神体とし、神功皇后の摂政52年に百済の使者が、
国宝・七支刀(ななつさやのたち)を献じたとも伝えられるなど、武器に関する伝承を多々持っている神社です。
その後、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を祭神として、鳥羽上皇の勅願によって新たに創建された石上神宮は、
歴代天皇の篤い崇敬を受けて来ましたが、永禄2年(1559)に尾張の軍勢により拝殿と宝蔵を破壊され、
奈良郡山城城主となった豊臣秀長によって社領没収とされた時代を経て、明治時代に入って、官幣大社として旧観を復活しました。
文保2年(1318)に建造された回廊を持つ楼門や白河天皇が皇居の神嘉殿を写したと伝わる桧皮葺き入母屋造りの拝殿が
長い歴史を紡いできた風格を見せていました。

 

楼門の向かい側に、廃寺となった内山永久寺の鎮守社四所明神を大正3年(1914)に移建した摂社出雲建雄神社の拝殿があり、
 文久年間(1264~75)に建造された現存最古の割拝殿として、国宝の指定を受けています。



石上神宮では「闇をはらい、夜明けを告げて天岩戸を開いた」という神話伝説に因み、
吉祥の神鶏として天然記念物・東天紅が放し飼いされていて、夕刻になって、巫女さん達が小屋へ入れる光景が見られました。



4時過ぎに石上神宮を出て、帰路につきました。
ガイドでは奈良県一長い天理本通り商店街のアーケードを通って徒歩40分とありましたが、
曲がる道を間違えたため、人通りのほとんどない天理の町をひたすら歩いて、4時50分頃、天理駅に到着しました。


  
奈良駅とホテル日航奈良

天理駅5時15分発のJR桜井線に乗って、5時半に奈良駅へ帰着しました。
夕食に駅近くのお店へ出掛けたことも含め、この日のスマホには17.6kmを6時間半、36097歩で歩いたと記録されていました。
ということで、疲れを見越して、奈良駅に隣接したホテル日航奈良を2日目の宿としたことは正解と言えそうです。


  
「焼き鳥 望月」

    

    

今回の食事処はすべて、9月に発売された「日経おとなのOFF」という雑誌から選びましたが、
この日の夕食はミシュランガイドにも紹介されたという焼き鳥店にしました。
備長炭の近火で部位に合わせた焼き方をした鶏は、今まで経験したことのない焼き鳥に仕上がっていました。
奈良には美味しいものがないというのが定評とされてるようですが、
前日の天仁と同様、東京で力をつけて来た若者が頑張りを見せているというのが今回の旅の発見のひとつでした。

9時半少し前にホテルへ戻り、足指の裏の痛み(水泡1個・・・)を感じながらも、充足感と共に、
早寝を決めこんだ2日目の夜が暮れていきました。


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