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2018・9・29
奈良〜法隆寺・中宮寺〜京都〜品川
                         
奈良3日目は天気予報通りに雨模様となりました。
初日の半日は奈良中心部、お天気の良い日に山の辺の道と決めただけで、細部は詰めていなかった今回の旅ですので、
1日減ってもさしたる影響はなく、法隆寺を見てから早めに帰京することを決め、
昨夜、バス停でチェックしておいた奈良駅前8時51分発のバスで法隆寺へ向かいました。
電車の駅からは約2kmと遠いこと、時間はかかっても奈良の市街地を見ながらのバス旅もよさそうだと考えたのですが、
観光バスと違い車高の低い路線バスはさ程の眺望を得られず、国道沿いの景色は何の特色もないことを知ることになりましたが、
郡山城跡を通過した時には、かすかながら歴史のスイッチが入りました。




6時一時間ほどで法隆寺前に到着、松並木の参道を歩いて、南大門へ向かいました。
広さ18万7千m2、国宝及び重要文化財指定の指定を受けた建造物、工芸品約190件という高山のように聳える仏教遺産には、
一抹の気後れを覚えましたが、段々と期待感がまさって行くようでもありました。



南大門

法隆寺建立時には中門前の石壇上に建てられ、寺域の拡大とともに長元4年(1031)に現在地へ移築、
永享7年(1435)に焼失後、永享10年(1438)に再建された南大門は、
三間一戸、八脚門の単層入母屋造り、大垣と呼ばれる東西に伸びる築地塀が聖域と俗界を区切り、
法隆寺の総門としての高い格調を見せていました。


護摩堂

南大門から中門への通い道

「これからはじまる遙かな古代の旅への出発点として、中門までたっぷりと保たれた空間は、訪れる人々の心を清浄にさせる。」と
法隆寺発行の案内本に書かれた南大門から中門へと通じる石畳の通い道です。
この時は余り意識していませんでしたが、土曜日でありながら、このように人影の少ない法隆寺を独り占めのように歩けたことは、
正に災い転じた幸い、台風接近のお陰で、おそらく、得難い機会だったのだろうと思われました。



と言っても、良いことばかりではなく、中門は3年半の補修工事が2か月後に終わるというタイミングに出会ってしまいました。
飛鳥建築の粋と称賛される中門を、いつか見る機会が訪れることを願うばかりです。



西院伽藍と大宝蔵院


世界文化遺産記念碑

三経院

6時聖徳太子の父、用明天皇の請願で、推古天皇と聖徳太子が推古15年(607)に薬師像を造って寺を建築と、
金堂に安置されている薬師如来像の光背銘が伝えていますが、
天智9年(670)に焼失という記述が日本書紀にあることによって論争が続けられた後、現在は再建説が有力とされる法隆寺です。
いずれにしろ、1300年を超える歴史を持つ法隆寺が世界最古の木造建築であることは揺るぎない事実で、
平成5年(1993)に日本最初の世界文化遺産として登録を受けています。
平山郁夫の銘がある石碑の前を通って、太子が撰述したと伝わる三経を講義する道場、三経院(さんぎょういん)を見ながら、
廻廊南西端の拝観受付所から西院伽藍中心部へ入っていきました。


     
涅槃像土(北面)                         五重塔                       弥勒仏像土(南面)

地上1辺14mの二重基壇の下、仏舎利が納められた心礎(しんそ)から相輪内部まで心柱(しんばしら)が貫き、
地上から相輪頂上まで34mの高さを、勢いよく天空へ向けて伸ばしている姿に見られる安定感は、
深い軒と軸部の逓減率の大きさ、五重では初重の半分まで寸法を小さくしたことによって生まれたと言われています。
このような多重塔は築造年が古い程、逓減率が大きく、室町時代に再建された興福寺など時代が下るにつれて、
各層がほぼ同じ大きさとなり、高い建築技術を持った大工が少なくなっていったことの表れと考えられ、
和銅4年(711)に造られた塑土(そど)で須弥山をかたどり、仏伝世界を表現した塑造群像、
塔本四面具が初層の内部に置かれていることが、この五重塔を日本最古とする根拠ともされています。
(この頁の仏像写真は「法隆寺」発行:法隆寺、週刊「世界遺産」発行:講談社より借用しました。)



金堂

五重塔の東側に現存最古の仏堂といわれる金堂が飛鳥建築の威容を誇るかのような存在感を見せて立っていました。
重層入母屋造りの建物、深い軒を支える雲肘木、卍崩しの高欄、人字型割束などの意匠は創建時のもので、
龍の彫刻がつけられた支柱は元禄時代の補強工事で付け加えられたと言われています。




聖徳太子のための金銅釈迦三尊像、用明天皇のための金銅薬師如来像、母・穴穂部間人皇后のための金銅阿弥陀如来像、
それを守護するために須弥壇4隅に置かれた日本最古の木造四天王像など、
数々の仏像を安置した古色を帯びた金堂内陣は、現実とはかけ離れた深い仏法界に誘い込むような世界を展開していました。
画家が壁画模写をしていた昭和24年(1949)1月26日に起きた電気事故によって金堂から出火、
大小12面の壁画が焼失した外陣は模写パネル壁画となっています。



経蔵

大講堂

金堂と五重塔

大講堂と鐘楼

学問の研鑽を積んだり、法要を行う正暦元年(990)に再建された大講堂で平安時代に造られた薬師三尊像を拝観した後、
天文や地理学を日本に伝えた百済の学僧、観勒僧正坐像を安置する経堂や今も白鳳時代の音色を響かせる梵鐘を吊る鐘楼など、
西院伽藍群の端正な佇まいをゆっくりと鑑賞しました。



聖霊院

鏡池

西伽藍を出て、聖徳太子坐像を祀る御堂として、太子薨去(こうきょ)500年に当たる保安2年(1121)に開創、
弘安7年(1284)に全面改造された聖霊院(しょうりょういん)を参拝しました。
神殿造りの対屋(たいのや)に似たこの御堂で聖徳太子の命日にはお会式(えしき)と呼ばれる法要が行われるそうです。
聖霊院の南の鏡池の畔には、子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑が立っていました。



大宝蔵院へ向かう途中に、二つの倉をひとつの屋根で覆った双倉(ならびくら)と称する高床式の宝物庫、
平安時代前期建造の綱封蔵(こうふうぞう)や、奈良時代の双堂(ならびどう)という建築様式を伝える鎌倉時代再建の食堂、細殿など
いずれも国宝の指定を受けた建物が見られました。

平成10年(1998)に落慶された大宝蔵院・百済観音堂

      

大宝蔵院には九面観音、夢違観音、伝橘夫人念持仏、玉虫厨子・・・と飛鳥から奈良時代の国宝、重要文化財の他、
平安、鎌倉時代に至る貴重な彫像、工芸品、絵画、古文書など法隆寺の寺宝が綺羅星のごとく並び、
長い歴史と栄光を伝えていました。

    

中でも法隆寺の最高の至宝といわれる百済観音には百済観音堂という特別の部屋が用意されていましたが、
百済観音とはパリのルーブル美術館で1997年に対面を果たしていて、私にとっては21年振りの再会となりました。

平成8年(1996)に橋本内閣総理大臣とシラク大統領の日仏首脳会談が行われた折に、
日仏国宝級美術品の交換展が決定、「フランスにおける日本年」企画のひとつとして、1997年9月10日から10月13日まで
ルーブル美術館で百済観音が初めて国外展示され、そのお返しとして、1999年の「日本におけるフランス年」に、
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」が東京国立博物館に1ヵ月展示されたというのがその経緯でした。
ルーブル美術館の一画を独特の存在感で支配していた百済観音は、
フランスの人々からも「東洋のミロのヴィーナス」という称賛を受けたと伝えられていますが、
ミロのヴィーナスと共に昭和39年(1964)に来日したポンピドー大統領が、
「いつの日か、百済観音をルーブルへ迎えたい」と挨拶をしたというエピソードも残されています。
ルーブル美術館から日本へ帰って来た百済観音は、文化財指定制度100周年記念特別展「百済観音」として、
1997年11月26日から12月21日まで東京国立博物館で展観されました。
ルーブル美術館は基本的には写真撮影フリーですが、ゲストの百済観音は撮影禁止となっていましたので、
地下鉄通路に貼っていたフランスらしいセンスのポスターを記念に撮ってきました。



東大門



大宝蔵院を出て南へ向かうと東西へ通じる広い参道があり、その途中で西院と東院を結んでいるのが東大門です。
食堂の前方に建てられていたものを平安時代に現在地へ移築したと考えられている国宝の八脚門で、
虹梁(こうりょう)の上に蟇股(かえるまた)がのり、その上の母屋桁が垂木を受けている三棟造りと呼ばれる形式が
奈良時代の門の典型とされています。


東院伽藍へと続く参道


東院・四脚門

鐘楼と廻廊

推古13年(605)に飛鳥から斑鳩宮(推古9年建造)へ移った聖徳太子が推古30年(622)2月に49歳で薨去した後、
皇極2年(643)に蘇我入鹿に攻められた一族は滅亡し、斑鳩宮はすっかり荒廃してしまいましたが、
元興寺の僧であった行信が再興を発願、天平10年(738)から建築が始められたのが東院伽藍で、
平安時代に入り、太子が創建した西院と東院が統合されたことによって、法隆寺が今見る姿へと復興をとげていきました。




6時天平11年(739)に創建された八角円堂の夢殿が東院の本堂で、
秘仏の聖徳太子等身の観音菩薩立像(救世観音)を本尊としています。
聖徳太子十六歳孝養像、行信僧都坐像、平安時代に夢殿を修理した道詮律師の塑像は堂の窓越しに拝することが出来ますが、
金堂の釈迦三尊像、大宝蔵院の百済観音と共に飛鳥時代を代表する彫刻と称賛される救世観音は
年に2回(4月11日〜5月18日、10月22日〜11月22日)厨子が開扉される時にのみ拝観することができます。
寛喜2年(1230)に大修理がほどこされた建物は、太子追善の仏殿としての威厳を見せて佇んでいました。



礼堂

舎利殿・絵殿

元は東院の中門であった寛喜3年(1231)創建の礼堂、承久元年(1219)創建の舎利殿・絵殿が回廊でつながれて、
東院伽藍の南北に配されていましたが、通常は内部を見ることはできません。
舎利殿には聖徳太子が2歳の時に合掌した掌中から出現したという舎利が安置され、
絵殿には太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められているそうです。



東院を北へ向かった右手に中宮寺の拝観受付所がありました。
聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の発願によって創建された伽藍を始まりとする中宮寺は、
平安時代の衰退期を経た後、鎌倉時代に信如比丘尼の尽力で中興、伏見宮貞敦親王第七王女の慈覚院宮尊智女王が、
天文年間(1532−55)に修理を行って以来、尼門跡斑鳩御所として寺観を整えて、
大和三門跡尼寺として伝統を保持し、明治22年(1889)より中宮寺門跡を号することになりました。

高松宮妃の発願により、昭和43年(1968)に吉田五十八の設計によって建造された寝殿造りを模した本殿には
日本最古の刺繍品「天寿国繍帳」の複製品が展示されていました。
これは聖徳太子妃、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子が死後に赴く天寿の様子を表した、
采女たちと共に刺した刺繍と言われています。


   

この本堂の見どころは何といっても本尊の如意輪観世音菩薩(像高87.9cm)、弥勒菩薩と通称する思惟半跏像です。
当初は素木に胡粉彩色されていた樟の木彫仏が保存のために漆で塗られて金銅仏のような黒光りを見せていますが、
気品と慈愛に満ちた優美な表情が飛鳥彫刻の最高傑作と称えられています。


  
お昼頃、中宮寺を出て、古い町並みを南へ向かい、「布穀薗」でランチタイムとしました。
明治26年(1893)に建てられた旧北畠男爵邸を利用した趣きのあるカフェは、
法隆寺周辺に続々とオープンしている古民家を改装した飲食店の代表格と言われています。
斑鳩が発祥と言われる竜田揚げ、名物の三輪そうめんのセット・メニューは1500円というお得価格でした。


  
竜田揚げランチ                      まほろばランチ


12時45分頃、「布穀薗」を出て、少し雨脚が強くなった中、ズボンの裾を濡らしながら20分ほど歩いて、
1時過ぎに法隆寺駅に到着、JRやまと路快速で奈良駅へ戻りました。
1時半に到着した奈良駅のみどりの窓口で、みやこ快速で2時23分に奈良を出て、3時12分に京都着、
3時32分発のひかり526号で帰京するチケットを購入しました。



6時駅ビルの中でお土産を買い、ホテル日航奈良で預けた荷物を受け取った後は、
予定の電車を乗り継いで、日が暮れていく雨模様の車窓風景を見ている中に、6時過ぎに品川に到着、
雨の渋谷でタクシー待ちをして、7時過ぎに帰宅という順調な旅の終わりを迎えました。

帰宅した翌30日の深夜、沖縄から東北にかけて日本を縦断し記録的な暴風をもたらした台風24号が首都圏も襲い、
大規模な停電や倒木による鉄道運転見合わせなど大きな影響がもたらされ、
その時に受けた街路樹などへの塩害の後遺症がいまだに報道され、紅葉の心配もされています。

ようやく爽やかな秋晴れも見られるようになった10月の終わりに、猛暑、頻発した台風、長雨など散々な天候が続いた合間を縫って、
運よく、思い通りの旅ができたことに感謝しつつ、奈良の旅第一章(であることを!)を終えました。

                                                      (2018.10.23)

                                                   

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