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大宮川にかかる大宮橋、走井橋、二宮橋3つの石橋は、天正年間に秀吉によって架けられたと伝えられ、 日吉三橋として重要文化財の指定を受けていますが、 架橋当初の木造橋の形式のまま、1669年(寛文9)に花崗岩の石造反(そり)橋にかけ替えられたと言われています。 山王鳥居 神明鳥居の上に破風を載せた山王鳥居は、合掌鳥居の別名を持つ独特な形をしていて、 密教の金剛界と胎蔵界、もしくは神仏習合を意味すると言われ、山王系の神社で見ることができます。
三間社流造の樹下宮本殿は1595年(文禄4年)に造営、大山咋神の妃神、鴨玉依姫神(カモタマヨリヒメノカミ)を祭神とし、 本殿神坐の下の霊泉の井戸から神水を汲んでいたそうです。 参道を進んで楼門を入ると、拝殿、本殿と並んでいるのが一般的な神社の配置ですが、 東本宮では本殿の拝殿前の左右に樹下宮本殿と拝殿が並び立っていました。
二十五菩薩像の右手に「明智日向守光秀一族の墓」と木札が立つ明智一族の墓があり、 近くに「順逆無二門 大道微心源 五十五年夢 覚来帰一元」という辞世句碑も建てられていました。 1693年(元禄6)に書かれた「光秀軍記」に因る「修行の道は順縁と逆縁の二つの道があるが、それらの道は一つで、 人間の心の源につながる大道である。55年の我が人生も覚めてみれば、一元に帰する」という辞世句には、 異論、別解釈もあるようですが、非業の最期をとげた光秀の菩提のために、 西教寺では毎年6月14日に光秀忌を営んでいるそうです。
石灰石が地中から突出した花崗岩と接触して熱作用のために変質したのが硅灰石(けいかいせき)で、 その雄大な姿が石山寺の寺名の由来となると共に、天然記念物の指定を受けています。 硅灰石の上に立つ懸造(かけつくり)の蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として1602年(慶長2)に創建され、 神事仏事の両方に対応する寺院の鎮守拝殿の類型として重要な遺構とされていますが、 明治時代以降は蓮如上人の遺品を安置し、御影を祀って、蓮如堂と称されています。