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2019・11・14
    品川~大津~坂本〈日吉大社・西教寺〉~石山寺~瀬田~大津


富士山


岐阜羽島

佐和山城跡

瀬田の唐橋

朝6時半に自宅を出て、ひかり503号(品川7時40分)で京都へ向かいました。
幸い、自宅から駅まで歩く間は傘をささずに済みましたが、空模様が少し危ぶまれる中、
頭隠しながらも富士山が見られ、美濃の岐阜羽島あたりでは山に影を落とす雲の造形を楽しみ・・・と車窓を楽しんでいる中に、
いつもは見過ごしていた佐和山城跡の標識や瀬田の唐橋を一瞬のチャンスでカメラに捉えることが出来て、
近江が近寄って来たような期待感と共に、10時11分に京都駅ホームに降り立ちました。


大津


逢坂山トンネル

北緯35度線モニュメント

新幹線のぞみで一足早く京都駅に到着していた次女とJR琵琶湖線のホームで落ち合い、
わずか9分の乗車時間で、10時33分に大津駅に到着しました。

「大津駅のホーム後方に立ち、逢坂山と比叡山を見比べた。薄雪の巨大な比叡山は、背の低い逢坂山を真上から見下ろしていた。
この地形が原因であった。織田信長が比叡山延暦寺を壊滅させたのは、この地形だったのだ。・・・
現在、逢坂は日本中の動脈が集中する頸動脈である。畿内と琵琶湖の間には幅広く険しい山地が屏風のように連なっている。
その山々の中で、畿内で最も近い山が逢坂山だった。・・・
京への入り口である逢坂峠を自由に行き来する。それが、信長の比叡山焼き討ちの目的であった。」と
「日本史の謎は「地形」で解ける」(PHP文庫)で竹村公太郎氏が説く、重苦しい”逢坂山”を追体験するために、
ホーム最後部まで歩きましたが、巨大な比叡山は高層マンションの後ろにすっぽりと隠されていて、
“見下ろされ”感覚を味わうことはできませんでした。

近くにあった「北緯35度線モニュメント」は千葉県千倉市、オクラホマシティ、メンフィス、クレタ島、キプロス島、
バグダッド、テヘラン、チベット高原、西安北方、島根県江津市などを通って大津へ戻るという同緯度の地球規模を知らせるために、
琵琶湖線開業100周年の記念事業の一環として、1989年に設置されたものだそうです。


大津駅

大津駅前

県庁所在地にしてはひっそりとした大津駅を出て、それ以上に人通りの少ない中央大通りの一本西側の商店街を10分余り歩き、
宿泊ホテルへ向かいました。



「商店街HOTEL 講 大津百町 近江屋」

「近江屋」ラウンジ

8月の日経新聞に、「街に泊まる」をコンセプトに古民家を改修して昨年夏に開業と紹介されていた宿が、
今回2泊する「商店街HOTEL 講 大津百町」です。
フロント棟の「近江屋」へ荷物を預けた後、早速、大津観光へ出発しました。

京町通(旧東海道) 京阪電車

最近、無電線化されたという京町通(旧東海道)を通って、京阪石山坂本線「びわ湖浜大津駅」へ向かっていると、
「太秦天神川」行きの路面電車(京阪京津線)が通り過ぎて行き、大津と京都の距離の近さが実感されました。


京阪電車「びわ湖浜大津駅」
京阪電車「坂本比叡山口駅」

びわ湖浜大津駅から16分、坂本比叡山口駅に到着すると、
「先端は比叡山と琵琶湖を指し、真ん中の空間は坂本と浜大津を結んでいます。」という
大阪天満橋~京都五条間の京阪本線が1910年(明治43)に開業した時に使用され、
軌道での役割を終えた後も京津線大谷駅のホーム上屋の支柱として働いた英国輸入のASCE型レールを使った
1997年(平成9)設置の「複線のレール組みの上で未来に回転するイメージを象徴したオブジェ」や、
モダンな駅舎に目を引かれました。

坂本


左:八王子山   右:坂本観光案内所    

日吉大社奥宮:三宮 金大巌 牛尾宮

駅前の道から八王子山と日吉大社奥宮を遠望することが出来ました。
ズーム画像でわずかに確認できる三宮と牛尾宮の間の高さ10mの金大巌(こがねのおおいわ)が奥宮の始まりとされていますが、
標高381mの八王子山急斜面の奥宮まで登山口から約1km、片道30分という参拝登山は見送りました。

観光案内所で「おおつ観光マップ~比叡山坂本編~」を入手した後、坂本の街歩きに向かいました。


 
名代手打蕎麦 総本家 「鶴㐂そば」

  
近江結味(むすび)そば                    天ぷらそば    

先ずは腹ごしらえと、1716年(享保初年)創業、築130年の建物が国の登録有形文化財の指定を受けている
「鶴㐂そば」で昼食をとりました。
観光案内所やガイドブックお勧めの「鶴㐂そば」は、かつて比叡山延暦寺へ出仕していた老舗で、
断食の行を終えた修行僧が弱った胃を慣らすために蕎麦を食したと伝えられています。
私達は待ち時間なく入ることが出来ましたが、食べ終えて外へ出るとかなりな人の列が出来ていました。



御殿馬場入口門

叡山文庫

比叡山延暦寺と日吉大社の門前町として古くから栄えた坂本は江戸時代に入ると、
比叡山で修行を積んだ僧侶たちが天台座主の許しを得て住み込む隠居坊が数多く造られるようになり、
今も50余りの里坊を残す景観が重要伝統的建造物保存地区に選定され、
2004年(平成16)には歴史的風土保存区域(通称、古都保存法)の指定も受けています。

滋賀院門跡

江戸時代末期まで天台座主をつとめた代々の皇族の居所だったことから門跡と呼ばれる滋賀院は、
優美な白壁と高く積まれた穴太衆(あのうしゅう)積みの堅牢な石垣が里坊随一の高い格式を誇っていました。
坂本の隣の穴太村の石工職人集団は全国的に活躍し、城郭や(高知城にも!)神社に多くの作例を残しています。



琵琶湖と三上山の眺望

円頓坊

滋賀院門跡前から権現馬場へ出ると、琵琶湖と三上山(別称:近江富士 標高432m)の素晴らしい眺望が広がっていました。
今回は日吉東照宮や比叡山へ上るケーブル坂本駅は素通りして、日吉大社を目指しました。


日吉大社



日吉大社は崇神天皇7年(BC91または3~4世紀説もあり)創祀と伝えられ、
全国に3800社余りある分霊社(日吉神社、日枝神社、山王神社)の山王総本宮です。

日吉大社と延暦寺のご縁は、最澄が788年(延暦7)に比叡山に天台宗を開いた時、
比叡山の地主神オオヤマクイと大神神社から勧請したオオナムチ(大国主命の別名)を護法神としたことに始まります。
遣唐使として唐へ渡った最澄が修行をした天台山国清寺の守護神「山王元弼真君」に因み、
比叡山を守護していた日吉神を「山王権現」と総称して日枝社や山王社に祀ったことから、
天台宗の興隆とともに山王信仰が全国的に広まったと考えられています。

その神仏の結束が、「ままらぬもの 鴨川の水、双六の賽、山法師」と白川法皇が嘆いた延暦寺の荒法師を生み、
1571年(元亀2)の織田信長の比叡山焼き討ちへつながったことは間違いないことといえそうです。
比叡山壊滅後、豊臣秀吉が1584年(天正12)から99年(慶長4)に再興した国宝2棟、重文15棟を数える社殿が、
比叡山麓の13万坪という広大な境内に堂々と鎮座し、大社と呼ばれるに相応しい荘厳さを見せていました。



大宮橋

走井橋


大宮川にかかる大宮橋、走井橋、二宮橋3つの石橋は、天正年間に秀吉によって架けられたと伝えられ、
日吉三橋として重要文化財の指定を受けていますが、
架橋当初の木造橋の形式のまま、1669年(寛文9)に花崗岩の石造反(そり)橋にかけ替えられたと言われています。



山王鳥居

神明鳥居の上に破風を載せた山王鳥居は、合掌鳥居の別名を持つ独特な形をしていて、
密教の金剛界と胎蔵界、もしくは神仏習合を意味すると言われ、山王系の神社で見ることができます。

 
神馬舎

神猿(まさる)舎

山王鳥居をくぐると、社務所向かい側に神馬舎と神猿舎がありました。
日吉神馬は入試と勝負事の勝利を祈り、神猿のまさるは、「魔が去る」「勝る」に通じる縁起のよい猿とのことです。


 猿塚 神の使いとされる猿の末裔?

山王鳥居が立つ総合の坂の参道脇にある猿塚と呼ばれる大きな石組は、
日吉大社境内で70基ほど確認されている6世紀中頃から後半の日吉古墳群のひとつの石室の蓋が露出したもので、
神の使いの猿が老いて死期を悟った時、自ら猿塚の中へ入っていくという伝説を持っています。

鎌倉時代の天台神道経典の一つ、「耀天記」によると、神という字は示す偏に申と書くことから、
山王が猿の姿で天下ったとされ、日吉大社では魔除の象徴として、猿が大切にされるようになったと伝えられています。
「見ざる、言わざる、聞かざる」は日光東照宮の三猿が有名ですが、
この話は比叡山中興の祖と言われる良源(912-985)の処世術から生まれたもので、
悪い心を持たず、さらに「思わざることまさるなりけり」と諭したと言われます。



祇園石

大威徳石

祇園の神様が降り立ち、岩のくぼみにたまった水が目によく効くと言われる祇園石、
西方の守護神の大威徳明王に因む大威徳石が霊石として祀られ、磐座(いわくら)信仰のなごりが感じられました。


西本宮楼門

     
「四方厄除棟持ち猿」

西本宮は天智天皇の大津遷都の時に大神神社から迎えた国家鎮護の神、大己貴神(オオナムチ)を祭神としています。
三間一戸の楼門の軒下の4隅に、棟持ち猿と呼ばれ、神社を守るまさる達の愛らしい姿が見られました。



西本宮本殿

西本宮拝殿

日吉造(ひえづくり)と呼ばれる独特の形式で1586年(天正14)に造られた国宝の西本宮本殿は、
金色の飾り金具、濃い朱色の欄干、廻縁に置かれた獅子・狛犬が印象的で、
建物の周りを取り囲んで水を流す溝も意味を持っているようでした。
正面三間、側面三間の方三間と呼ばれる折上小組格天井を持った拝殿は、国指定の重要文化財となっています。



本殿の東西に置かれた神が宿る依り代の石造り竹台


本殿正面

本殿背面

本殿の正面と背面を比べると、背面には正面と両側面にある庇がなく、両端が下へ落ちているように見え、
縋破風(すがるはふ)と呼ばれる日吉造の特徴がよく分かります。
床下には下殿(げでん)と呼ぶ部屋があり、江戸期までは仏像を安置して仏事が営まれていたそうです。



宇佐宮

白山(しらやま)宮

宇佐宮と白山宮は西本宮に属する摂社で、
宇佐宮の祭神は大己貴神の妃神、田心姫神(タゴリヒメノカミ、八幡神の総本宮・宇佐神宮の比売大神と同神)で、
最澄が唐へ向かった時には宇佐神宮に詣でて航海安全祈願をしたと言われています。
白山宮には白山比咩神(シラヤマヒメノカミ、又は菊理姫神ククリヒメノカミとも呼ばれる)が祀られて、
日吉三聖と呼ばれる日吉造の西本宮、東本宮、宇佐宮に次ぐ社格を持っています。



二宮橋

猿の霊石

境内の道を東へ向かい、日吉三橋の二宮橋前を左折、猿の霊石を見ながら坂を上っていくと東本宮がありました。
東本宮は古くから地主神として崇敬されていた大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祭神としています。



東本宮楼門


左:樹下宮 正面:本殿拝殿

左:樹下宮拝殿 右:樹下宮


三間社流造の樹下宮本殿は1595年(文禄4年)に造営、大山咋神の妃神、鴨玉依姫神(カモタマヨリヒメノカミ)を祭神とし、
本殿神坐の下の霊泉の井戸から神水を汲んでいたそうです。
参道を進んで楼門を入ると、拝殿、本殿と並んでいるのが一般的な神社の配置ですが、
東本宮では本殿の拝殿前の左右に樹下宮本殿と拝殿が並び立っていました。



東本宮拝殿

大物忌神社

樹下宮から階段を上がった先に東本宮の拝殿と本殿、
その背後のもう一段高い所に、大山咋神の父神、大年神(オオトシノカミ)を祀る大物忌神社、
母神、天地迦流水姫神(アメチカルミズヒメノカミ)を祀る新物忌社、
日吉大社と延暦寺の門番の神として、須佐之男命(スサノオノミコト)を祀る早尾神社がありました。


東本宮本殿

西本宮と同じく、東本宮も本殿は国宝、拝殿は国指定の重要文化財とされています。
同じ日吉造の本殿ですが、東本宮では廻縁の背面中央部が一段高く造られている所に違いが見られます。
いずれも桃山朝らしいきらびやかさを見せる本殿建築でした。


  

東本宮でもう一つ目を引いたのが日吉雄梛(オナギ)と日吉雌梛(メナギ)という2本の神木でした。
マキ科ですが、針葉樹に見えない肉厚のつやのある葉を持ち、縦方向に引っ張っても裂けにくい所から、
縁結びや家内安全の木とされ、神社の神木とされたり、結婚式場に植えられたりしています。
主脈がなく並行脈だけが並ぶところを、「二夫にまみえず」と史記に基づく言い伝えに見立てることもあるようです。

山の辺の道




日吉古墳

 八講堂千体地蔵尊

1時半ごろ東本宮を出て、山の辺の道を15分余り歩いて、西教寺へ向かいました。
日吉古墳などを見ながら日吉大社の森を抜けると、琵琶湖の広々とした景観が開け、
八講堂という谷から発掘された地蔵を集めた千体地蔵尊もあり、歴史と景観が楽めるミニハイキング路でした。


西教寺

西教寺総門

聖徳太子が創建したと伝えられる西教寺は、
平安時代に延暦寺中興の祖、良源(912-985)や横川の源信(942-1017)が庵を結んで修行道場とした後、
久しく荒廃していましたが、室町時代末期に入寺した真盛上人(1443-1493)が再興し、
叡山焼討ち焼失後には坂本城主・明智光秀が再建して、明智一族の菩提寺となった
全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗の総本山です。
坂本城の城門を移築したと伝えられる堂々とした総門に出迎えられました。


 
参道 實成坊(登録有形文化財)

ゆるやかな上り坂がまっすぐ延びる参道の両側には僧房があり、宿坊や食事処としても使われているようでした。
参道正面の突き当りに勅使門があり、その左手の階段を上がった所に本堂など寺院建物がありました。


本堂 納骨堂  観音堂  水屋(手水舎)

1739年(元文4)に落成した本堂は、紀州徳川家から寄進された用材で造られた総欅(けやき)入母屋造です。
広い境内で、古色を帯びた堂宇と紅葉がよい趣きを見せていました。


寶篋印塔 二十五菩薩像

境内の西奥の寶篋印塔、二十五菩薩像が並ぶ一画の左端に、
髪の毛を売って秀光を支えたという逸話を残す妻の熈子(ひろこ)の墓と芭蕉句碑が立ち、
その左方、境内塀の外側が「戦国武将に仕えた人達の墓」と木札が立つ墓地となっていました。


月さびよ明智が妻のはなしせむ  芭蕉

明智光秀一族の墓 明智光秀辞世の句


二十五菩薩像の右手に「明智日向守光秀一族の墓」と木札が立つ明智一族の墓があり、
近くに「順逆無二門 大道微心源 五十五年夢 覚来帰一元」という辞世句碑も建てられていました。
1693年(元禄6)に書かれた「光秀軍記」に因る「修行の道は順縁と逆縁の二つの道があるが、それらの道は一つで、
人間の心の源につながる大道である。55年の我が人生も覚めてみれば、一元に帰する」という辞世句には、
異論、別解釈もあるようですが、非業の最期をとげた光秀の菩提のために、
西教寺では毎年6月14日に光秀忌を営んでいるそうです。



西教寺境内

総門前

伏見城から移した客殿や趣向を凝らした遠州作の庭園も見どころとされていましたが、突然の雨もあり、
先を急いで総門を出ると、虹が見え、変わりの早い地域的な気象を体験することになりました。

坂本 横小路

重要伝統的建造物群保存地区の景観

しばらく車道を歩いた後、里坊や穴太衆積の石垣が連なる重要伝統的建造物群保存地区の横小路へ入ると、
「逢(あ)のみち 湖のみち 山歩(さんぽ)みち」という坂本の観光キャッチフレーズ通りの風情ある景観となっていました。



「飛び出し注意」キャラクターの元祖と言われる「とび太くん」


市殿神社

日吉大社鳥居

市殿神社は最澄の母、妙徳夫人を祀った神社(社名は神に仕えた女人を市子または一殿と呼ぶことに由来)で、
少し先に最澄の生誕地と言われる生源寺があり、その角を左折すると、右手に日吉馬場へ通じる日吉大社の鳥居が見え、
目の前が坂本比叡山口駅となっていました。

わずか3時間足らずの駆け足坂本散策でしたが、
来年2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公が明智光秀ということで注目が集まりそうな歴史の街を見聞して、
近江旅のよいスタートができました。


わずか3時間足らずの駆け足坂本散策でしたが、
来年2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公が明智光秀ということで注目が集まりそうな歴史の街を見聞して、
近江旅のよいスタートができました。

石山


大津放水路

朗澄大徳ゆかりの庭園

京阪電車で30分余り、石山寺駅に3時過ぎに到着し、大津放水路や石山寺中興の祖、朗澄律師の庭園などを見ながら、
瀬田川右岸の「逢(あ)のみち 湖のみち 山歩(さんぽ)みち 石山寺ルート」を10数分歩くと、
聖武天皇の勅願で747年(天平19)に良弁僧正によって創建された
西国三十三か所観音霊場第13番札所である石山寺の東大門が見えてきました。


石山寺

   
石山寺東大門

1190年(建久元年)に源頼朝の寄進によって創建された石山寺東大門(重文)は焼失を繰り返した後、
慶長年間に淀殿の寄進によって大修理が行われたと寺伝が伝え、
両脇に置かれた風格ある仁王像は鎌倉時代の運慶・湛慶作と言われています。


石山寺縁起絵巻に描かれた東大門


石山寺参道

比良明神影向石

聖武天皇から大仏建立のための黄金の調達を命じられた良弁僧正が、
石山の地で出会った釣りの老人からお告げを受けた場所、その老人が近江の地主の比良明神であったと伝わる影向石が
翌日から始まる紅葉ライトアップの準備が整った参道の脇に祀られていました。



硅灰石と多宝塔

蓮如堂


石灰石が地中から突出した花崗岩と接触して熱作用のために変質したのが硅灰石(けいかいせき)で、
その雄大な姿が石山寺の寺名の由来となると共に、天然記念物の指定を受けています。

硅灰石の上に立つ懸造(かけつくり)の蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として1602年(慶長2)に創建され、
神事仏事の両方に対応する寺院の鎮守拝殿の類型として重要な遺構とされていますが、
明治時代以降は蓮如上人の遺品を安置し、御影を祀って、蓮如堂と称されています。


      
  石山寺本堂     源氏の間


僧形の藤原道長が籠る本堂が描かれた石山寺縁起絵巻

滋賀県最古の懸造木造建築物として国宝の指定を受けている本堂は1078年(承暦2)の大火で焼失しましたが、
 内陣は1096年(永長元年)に再建、外陣は(礼堂)1602年(慶長2)に淀殿の寄進により増築されています。

勅封とされる本尊の如意輪観世音菩薩(重文)は、
「観世音菩薩は三十三の姿の変化して人々を救う」という「観音経」に因み、
33年に一度と天皇陛下即位の翌年にのみ開帳されるそうで、33年目にあたった2016年(平成28)に続いて、
来年3月18日から6月30日まで御開扉が行われ、本堂内陣特別拝観ができることになっています。

 石山寺縁起絵巻に描かれたと同じ石段を上った先の藤原道長が籠る部屋は、
参篭した紫式部が源氏物語の構想を得た場所とされ、鎌倉時代から「源氏の間」と称されていたそうです。
本堂下の御堂には石山観音の化身といわれる蓮如上人の母の形見の小袖が安置されています。



多宝塔

鐘楼
 
1194年(建久5)に源頼朝が寄進したと伝えられる多宝塔は日本最古かつ最も美しいと讃えられて国宝指定を受け、
同じく頼朝の寄進による鐘楼は上層に平安時代の梵鐘が吊られ、下層から撞木を引いて撞く構造が珍しい国の重要文化財です。



月見亭

御影堂(重要文化財)

保元年間に後白河上皇御幸に際して建造された月見亭は、明治以降も代々天皇の御幸が行われたと案内板にあり、
月見亭の隣には「石山の石にたばしるあられかな」と詠んだ芭蕉に因み、芭蕉庵と名付けられた平屋の茶室がありました。

弘法大師と石山寺第三代座主淳祐内供の像を安置するという御影堂の前を通って、
要所だけで石山寺見学を終え、石山寺山門前から4時過ぎのバスに乗って、瀬田の唐橋へ向かいました。


瀬田川


石山寺港

瀬田の唐橋

琵琶湖から流れ出る唯一の川である瀬田川は、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾まで75kmを流れていきます。
かつて瀬田川唯一の橋であった唐橋は、壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、本能寺の変など大きな戦乱の度に焼かれて、
「唐橋を制するものは天下を制する」とまで言われた交通や軍事の要衝でしたが、
石山寺が建立されて以来、参詣者も多く訪れ、文化的史跡も多く残る場所となっています。
宇治橋、山崎橋と共に日本三大古橋に数えられる唐橋は、1979年(昭和54)に架け替えられたものですが、
観光クルーズ船が発着する石山寺港と共に、広重の近江八景「瀬田の夕照」を彷彿させる川景色を留めているようでした。
再び、京阪電車に乗って、5時前に大津へ戻り、鮒ずしの老舗「阪本屋」で買物をしてから、ホテルへ戻りました。


大津


「阪本屋」

 
チェックイン時にいただいた栗菓子                宿泊棟「茶屋」の入り口

フロント棟「近江屋」でチェックインし、お茶菓子をいただいてから、2軒ほど東の宿泊棟「茶屋」へ入りました。
玄関入り口も部屋もパスワードで入るという古い建物に似合わないモダン仕様に戸惑いながら、
部屋に落ち着いて一休みした後、次女が選んで予約をいれた居酒屋「直」へ向かいました。



「直」

    

  

    

7時から9時近くまで、地元の新鮮な食材とお酒で、
呑兵衛2人と「食べるのが早すぎる」と言われる1人のゆったりした夕食となり、多分、撮り忘れたお皿もあったことと・・・。


「茶屋」 「茶屋」ラウンジ

9時ごろホテルへ戻り、木の香る部屋で旅の初日の疲れを癒しました。
「HOTEL 講 大津百町」には棟貸しもありますが、私たちが選んだのは普通のホテルタイプの部屋貸しで、
バスタブは付いていないことは承知していましたので、不足を感じることはありませんでした。



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