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2019・11・16
 大津〈琵琶湖疎水・三井寺〉~彦根~高月〈向源寺〉~長浜〈長浜城・黒壁スクエア〉~彦根
 

大津百町商店街

 


近江3日目は朝早めに出発ということで、昨夜調達しておいたコンビニのサンドイッチで朝食を済ませ、
8時にホテルを出て、まだ目覚めていない中町通りを通り、大津百町の繁栄を伝える「宮内庁御用達 八百与」など、
「大津市景観重要広告物」指定の古い看板に目を留めたりしながら、琵琶湖疎水へ向かいました。


琵琶湖疎水



琵琶湖疎水は京都の飲料水、発電、物資輸送、農業用水利用のために立案され、
第一疎水は1885年(明治18)に着工し、1890年に開通、第二疎水は1912年(明治45)に開通した国指定史跡で、
大津市三保ヶ先を取入口として、建設当時は国内最長であった2436mの水路トンネルが長等(ながら)山を貫いています。
昨秋、南禅寺で見た疎水施設・水路閣を思い出しながら、「明治天皇聖蹟」の石碑が立つ疎水出発点を見学しました。


三井寺


三尾神社

三井寺総門

疎水のほど近くに三井寺(みいでら)があり、総門受付で拝観券を購入して、境内に入りました。
総門隣接の三尾神社は、859年(貞観元年)に智証大師円珍が創建した三井寺の守護社で、
腰に赤・白・黒の三つの帯を付けた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が長等山の山頂に降臨したという伝説に因み、
長等山の鎮守神とされた三尾明神を祭神とし、
明神が卯年、卯月、卯の刻に出現したという言い伝えによって、うさぎを神の使いとしています。
本殿は1426年(応永33)に足利義持によって建立されたものです。



大門(仁王門)

三間一戸入母屋造、檜皮葺、運慶作と伝わる仁王像が風格を見せる1452年(宝徳4)建立の大門は、
秀吉が甲賀の常楽寺から伏見へ移築、その後、1601年(慶長6)に信長が移築して寄進した国の重要文化財です。
 
琵琶湖の南西、長等山の中腹に35万坪を擁する三井寺は、
壬申の乱の後、大友皇子の皇子・与多王が自身の私領「荘‘園城’邑」を寄進して686年(天武天皇15)に創建、
天武天皇より「園城」の勅額を賜ったことにより、長等山園城寺(おんじょうじ)を正式寺名とし、
天智、天武、持統の三天皇が産湯を使った霊泉があることを三井(御井)寺の由来としています。
868年(貞観10)に第5代天台座主となった智証大師(没後、醍醐天皇より贈られた諡号)円珍(814~891年)が
天台別院として再興、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺」に数えられる天台寺門宗の総本山です。
 
智証大師の死後、門下の流派である寺門と比叡山延暦寺側の山門による「山門寺門の抗争」、
源平争乱や南北朝内乱に巻き込まれるなど、10数回も焼討ちにあった後、
1595年(文禄4)に秀吉の原因不明の「闕所(けっしょ)の令」を受け、堂塔はことごとく破壊され、寺領は没収されましたが、
秘仏は闕所の前に秀吉自らが道澄に預け、死の前日には三井寺の処分を解いて、北政所に金堂の再建を託すなど、
度重なる戦禍、被災からも寄進や再建などによって復興し、「不死鳥の寺」とも呼ばれています。



釈迦堂(食堂)

金堂東面

中世寺院の食堂(じきどう)の様式で室町初期に建てられた釈迦堂は、
正面七間、側面四間、入母屋造、檜皮葺の簡素な建物で、本尊の清凉寺式の釈迦如来は重要文化財となっています。
金堂東側の階段を上って、金堂の正面へ出ました。



三井寺総本堂・金堂

1595年(文禄4)に秀吉による闕所、堂塔破却の法難にあった時、
信長の焼討ちで壊滅した比叡山の復興の一助として、金堂は延暦寺西塔(現在の釈迦堂)へ移築され、
再建を託された北政所が1599年(慶長4)2月に着工、翌年3月に完成させたのが、
今ある金堂で、当時の優れた建築技術を見せると共に、
天台系密教仏堂の伝統的な様式を伝える桃山時代の名建築として、国宝の指定を受けています。
 七間四方、入母屋、檜皮葺、正面・奥行ともに23mを超える大きさの中に優美さを備え、堂々たる存在感を見せていました。

用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏であった弥勒仏は、三井寺創建以来の本尊とされる霊仏で、
1300余年開帳されることなく、金堂の内陣で守られているそうです。


  
金色不動明王                    護法善神  

今回は折よく、令和天皇の即位記念特別ご開扉として、
「秘仏結縁-国宝 内陣参拝-」(10月1日~12月8日)が行われていて、
特別に遷座された智証大師円珍の護持仏二尊(いずれも重要文化財)と「ご法縁を結ぶ」ことが出来て、
正面階段から金堂内陣に入り、先ず、尼僧から祈祷を受けた後、後陣に置かれた数多くの仏像と共に、
特別な二仏を拝観することができました。(写真は三井寺HPから借用)

智証大師が838年(承和5)に比叡山で感得した金色に輝く不動明王は「黄不動尊」と呼ばれる秘仏仏画として信仰され、
その尊像を13世紀初めに彫像にしたものが木造彩色、像高159.8cmの金色不動明王で、
通常は国宝・智証大師坐像とともに唐院大師堂に安置されています。
護法善神は智証大師の母のような女神(因みに大師の母は、弘法大師の姪と言われています。)として、
幼年期から示現したとされる大師の護法神で、
安産や子供の守護神・鬼子母神、訶梨帝母(かりていも)と同神とされる像高159.1cmの木造彩色像で、
護法善神堂の本尊として、また1363年(貞治2)から続く「千団子祭」本尊として信仰されています。



金堂回縁

閼伽井屋

金堂の西側回縁から蟇股(かえるまた)に左甚五郎作と伝わる龍の彫刻がある閼伽井屋(あかいや)が見られました。
この龍が夜な夜な琵琶湖へ出て暴れるため、困った甚五郎が自ら目玉に五寸釘を打ち込んで鎮めたと伝えられています。


  
左甚五郎の龍の彫刻

閼伽(あか)とは水を意味し、仏に供える水を用意する施設を閼伽井屋と称しますが、
焼失と再興が続いた中、唯一、金堂の位置だけが変わらなかったのは、
天智、天武、持統の三天皇が産湯を使ったこの「三井の霊泉」が絶対的存在であった証拠とされています。
三間二間、向唐破風造、檜皮葺、桃山風装飾が施された覆屋は、金堂に続いて1600年(慶長5)に建立されています。


       
鐘楼 ひと撞き300円の冥加料

近江八景「三井の晩鐘」で有名な大鐘は、形の平等院、銘の神護寺と共に音の三井寺として「日本三銘鐘」と称され、
その荘厳な音が「日本の残したい音風景百選」にも選ばれています。
1602年(慶長7)に鋳造された大鐘の上部に見られる合計百八個の乳(突起)は、
近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古の遺品として県指定文化財に、
桁行二間、梁間一間、切妻造の鐘楼は重要文化財の指定を受けています。


一切経蔵

八角輪蔵

一切経(仏典を集成したもの)を安置している一切経蔵の内部には、巨大な回転式八角輪蔵が置かれていました。
この経蔵は毛利輝元が1602年(慶長7)に山口市の禅宗寺院・国清寺(現在は洞春寺)から移築、寄進したもので、
一間四方の禅宗様経堂でありながら、裳階付きのために三間四方二層に見える宝形造の重要文化財です。
この天井から1963年(昭和38)に発見されたという円空作の「円空仏七体」は、金堂で拝観することができました。



三重塔

唐院への参道

参道から石段を上った塀に囲まれた一郭は、三井寺で最も神聖な場所とされる智証大師円珍の廟所で、
秀吉の破却後、1598年(慶長3)に最も早く再建され、
入唐求法の旅で持ち帰った経典や法具類を納めることに由来して、唐院と称されています。

唐院の一郭で存在感を見せる三重塔は、奈良県・比蘇寺(現在の世尊寺)に室町初期に建築された塔で、
秀吉が伏見城へ移築したものを、1601年(慶長6)に家康が寄進した重要文化財です。



灌頂堂

村雲橋

唐院の中に建てられた五間四方、入母屋造、檜皮葺の灌頂堂(かんじょうどう)は寺流の密教を伝承する道場で、
清和天皇より下賜された仁寿殿を伝法灌頂の道場としたもので、大師堂拝殿の役割も持っています。

村雲橋は、智証大師が橋を渡ろうとした時、西の空にかつて学んだ長安の青竜寺が焼けていることを感知し、
真言を唱えて橋上から閼伽水をまくと、橋下から一条の雲が沸き起こり、西へ飛び去り、
後に青竜寺から火災を鎮めた礼状が届いたという伝説があり、ムラカリタツクモの橋が名前の由来となっています。



勧学院

国宝・勧学院客殿

講学の場、学問所として1239年(延応元年)に幸尊僧正によって建立された勧学院の客殿は、
秀吉闕所の後、秀頼の命を受けた毛利輝元が1600年(慶長5)に再建、
唐破風正面軒を持つ総杮葺の建物は国宝の指定を受けています。


微妙寺

文化財収蔵庫

慶祚大阿闍梨(けいそだいあじゃり)を開祖として994年(正暦5)に創建した三井寺五別所の一つを移築した微妙寺は
天智天皇の御念持仏と伝わる十一面観音を本尊として、湖国十一面観音霊場の第一番札所とされています。
 
智証大師生誕1200年の慶讃記念事業として2014年(平成26)に開館した文化財収蔵庫には、
天皇即位記念として、智証大師が唐から持ち帰った国宝・五部心観(曼荼羅図の諸尊を描いた紙本墨画)や
国宝・越州都督府過所、尚書省司門過所公開など大師関係文書典籍が特別展示され、
幾多の災難を潜り抜けた桃山絵画の最高傑作と賞される勧学院客殿の狩野光信筆の障壁画や、
仏像(三井寺HPより写真借用)、仏画、仏具などの寺宝をゆっくりと鑑賞することができました。

                                          
      
智証大師坐像         十一面観音立像          吉祥天立像           訶梨帝母倚像 

                                                                               
本家力軒

延暦寺(山門)と三井寺(寺門)の宗派争いの時に、山門の僧兵が三井寺を攻めて多くの堂塔伽藍を焼討ち、
その時に武蔵坊弁慶が引き摺り上げたという伝説を持つ霊鐘に因んだ餅を、
1645年頃に三井寺境内で販売したことを始まりとする弁慶餅のお店で一服しました。
文化年間(1804~18頃)に名物を再興したのが、本家力軒の祖、儀兵衛と伝えられる古い茶店で、
香ばしさと甘さのある近江番茶と程よくマッチした弁慶餅を美味しく味わいました。



三井寺力餅

境内の紅葉

毘沙門堂

紅葉が美しい境内を進み、三井寺五別所の一つ、尾蔵寺から1957年(昭和32)に移築した1616年(源和2)建立の
宝形造、檜皮葺の毘沙門堂を見ながら、三井寺南院へ向かいました。


 
十八明神社

鐘楼

途中にあった十八明神は、本来は伽藍を守護する神ですが、
白河院時代に皇子降誕の祈誓の勅命を受けた頼豪阿闍梨が、皇子誕生の賞として戒壇道場建立の勅許を得たものの、
比叡山の強訴によって勅許取り消しにあい、怒った頼豪が21日間護摩を焚いて壇上で死去、
その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、仏像経巻を喰い荒らしたという言い伝えにより、
ねずみの霊を祀り、北の比叡山を向けて建てられた社で、地元では親しみを込めて「ねずみの宮さん」と呼ばれています。

南院の観音堂の一郭に立つ袴腰付の入母屋造、総欅の鐘楼は1814年(文化18)に建立されたものですが、
鐘の鋳造のために僧が托鉢行脚した折、「子供なら寄進する」と言った富豪の応対に因み「童子因縁之鐘」と呼ばれた鐘は、
第2次世界大戦時に供出して、失われてしまったそうです。



西国観音霊場第14番札所 観音堂

後三条天皇(1034~73年)の病気平癒祈願のために、1072年(延久4)に創建されたと伝わる観音堂は、
1689年(元禄2)に桁行九間、梁間五間、重層入母屋造、本瓦葺で再建された西国観音霊場第14番札所で、
智証大師作と伝わる秘仏の如意輪観音像が33年ごとに開帳されています。



百体観音堂

観月舞台

正面に本尊の如意輪観音、左右に西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所の各霊場の
本尊百体の観音像をお祀りしているのが1849年(嘉永3)に懸造で建立された百体観音堂で、
 同時に建立された観月舞台とともに県指定文化財となっています。



観音堂展望台 

琵琶湖一望の景勝

中坂世継地蔵堂

拝観受付

観音堂高台から琵琶湖や大津の街の眺望を楽しんだ後、観音堂前の急な石段を下りて、
途中の踊り場の安産や子供の健やかな成長を願う1819年(文久2)に建てられた中坂世継地蔵などを見ながら、
10時20分頃、三井寺を後にしました。

長等神社

天智天皇が大津京の鎮護社として、須佐之男命を祀って667年頃に創建し、日吉山王神を勧請して三井寺の守護神としたのが
長等神社で、1905年(明治38)に完成した古様式を再現した楼門は、市指定文化財となっています。



長等神社などを見ながら戻った中町商店街で、うなぎ茶漬けや大津番茶などの買物をして、
11時にホテルをチェックアウト、泊り客毎に設定されるパスワード利用のホテルで、
チェックアウト時にフロントへ立ち寄ることは不要でしたが、フロント棟で挨拶をして、大津を後にしました。


彦根~高月


彦根駅東口

コンフォートホテル

大津駅で翌日の帰りの新幹線チケットを入手した後、JR琵琶湖線に50分余り乗って、12時半前に彦根に到着しました。
彦根駅東口のこの日宿泊するコンフォートホテルへ荷物を預けた後、駅の西口へ向かいました。

 

写真中央に彦根城

近江ちゃんぽん発祥店

駅の周辺を少し回って店探しをした後、駅にほど近い「創業昭和三十八年 近江ちゃんぽん発祥店」に入って、
「究極の黄金だし、ガッツリ野菜」とうたい、野菜や麺の量を選べる近江名物ちゃんぽんの昼食をいただきました。





北陸本線

高月駅

2時前に彦根駅から塩津行の北陸本線に乗って、降りる人も少ない高月駅に2時半頃到着し、
駅から北へ650mに位置する渡岸寺観音堂(向源寺)へ歩いて向かいました。


渡岸寺(どうがんじ)

渡岸寺観音堂

御尊像埋伏之地

736年(天平8)に奈良に疱瘡が大流行し、死者が相次いだ時、聖武天皇から除災祈祷を勅せられた白山の泰澄大師は、
祈願をこめて十一面観音を刻み、堂宇を建立して、息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、憂いを絶ったと伝えられます。
その後、病除けの霊験あらたな観音像が信仰を集め、桓武天皇の801年(延暦2)には、
比叡山の最澄が勅を奉じて七堂伽藍を建立、多くの仏像を安置して天台の寺院として栄えた後、時勢とともに寺運が衰え、
1570年(元亀元年)の姉川の戦いでは堂宇は壊滅、寺領は没収され、廃滅してしまいましたが、
その時に住職巧円や土地の住民たちが兵乱の猛火を冒して観音を搬出し、土中に埋めて難を免れ、
後に真宗に転宗した巧円が建てた向源寺で、諸仏は秘仏として守られて来たそうです。


    
 「歩いて楽しむ 琵琶湖」(JTBパブリッシング)より画像借用

「近江で一番美しい仏像が、こんなにささやかな寺にかくれているのは、湖北の性格として興味がある。」と白洲正子が書き、
多くの著名人からも称賛を受ける十一面観音と渡岸寺観音堂で対面することが出来ました。
頂上面を除き、宝髻(ほうけい)から蓮肉(れんにく)まで1.95m、見事に冴えた彫りを見せる一木彫の十一面観音は、
泰澄から少し時代が下った平安初期の様式を伝える優品として、
1897年(明治30)に特別国宝、1953年(昭和28)に新国宝の指定を受けています。
端正な顔、腰を少しひねり、右足を踏み出した動きのある表現など、見飽きることのない菩薩像でした。


天神社

最澄や空海より以前に神仏を混淆した最初の人と言われ、垂迹思想の創始者とされる泰澄が創建したお寺の門前には、
天神社がおかれ、長い歴史を伝えているようでした。

  

渡岸寺野神

高月の町

湖北では村の要の場所の大木に注連縄を張り、土地の守り神の「野神さん」として祀ってご神木とする風習があり、
今も各村で、野神祭という伝統行事が行われているそうです。
そんな風景を見ながら、「長浜をすぎると、急に静かになり・・・」と白洲正子が記す長閑かな高月の町を後にして、
再び北陸本線に乗って、長浜まで戻りました。


長浜~彦根

長浜城

1573年(天正元年)に浅井長政が滅亡後、湖北を支配した秀吉が築城した長浜城は1577年(天正5)頃に完成、
1582年(天正10)の清洲会議まで在城したと考えられていますが、
同年12月には秀吉は長浜城入りした柴田勝家の甥、勝豊を攻め、翌年の勝家との賤ケ岳合戦の折には軍事拠点としています。
その後、1585年(天正13)から1590年(天正18)まで長浜城主となった山内一豊が移封された後、
佐和山城主石田三成の支配下に入って次第に荒廃、
1606年(慶長11)に家康の異母弟内藤信成が城主となって大修築を行った後、
1612年(慶長17)に信成の子、信正が城主となりますが、1615年(元和元年)の摂津高槻城への移封によって、
長浜城は湖北支配の役割を彦根城へ譲って、石垣・檜材は彦根城へ運ばれ、使命を完全に終えてしまいました。

そのような歴史を経た長浜城の天正期の城郭を想定して、市民が1983年(昭和58)に3層5階建て、鉄筋コンクリートで再興、
市立長浜城歴史博物館として開館した後、2006年(平成18)に長浜市長浜城歴史博物館と改名し、
2階「湖北・長浜のあゆみ」では湖北地域の縄文時代からの生活相、宗教文化、浅井三代の政権時代、近代化の展示、
3階「秀吉と長浜」では天下統一までの戦乱時代を紹介する展示室として公開されていました。



琵琶湖方面

伊吹山遠望

5階の「戦国パノラマ展望台」からは、北に賤ケ岳古戦場や小谷城跡、南に佐和山城跡、東に伊吹山、西に琵琶湖などを
見渡すことができ、歴史と地形、紅葉と夕暮れの景色を楽しむことができました。



4時半頃湖畔に下りて、少しずつ雲間に入っていく夕日をすっかり沈み込むまで見届けました。
その後、長浜城歴史博物館のある豊公園を出て、長浜駅「モンデクール長浜」で土産物などを買物した後、
江戸時代には浜ちりめん産業で栄え、武家ではなく町民自治の町として培った気質を明治時代へと引き継ぎ、
いち早く近代化の道を歩んだ時代の面影を残すといわれる長浜のまちへ向かいました。


開智学校 北国街道沿い商店街

浄琳寺

黒壁ガラス館

政府の学制より早く1871年(明治4)に開校、明治7年に建てられたの県下初の小学校・開智学校を見ながら、
北国街道を歩き、1900年(明治33)に第百三十国立銀行長浜支店として建てられ、
今は黒壁ガラス館と呼ばれるガラスのアートギャラリーなどを覗いた後、
二つ三つ候補としていたお店の中、「毛利志満」で夕食をとることにしました。



「毛利志満」

大手門通り


ステーキ重御膳

「文明開化以来百三十年、近江牛とともに歩んできた老舗」が自家肥育牧場で育てた血統正しい近江牛の味わいは、
「天下の名品と絶賛される」といううたい文句が大げさとは思えない美味しさでした。
黒毛和牛の最高級とされる兵庫県但馬産という点を同じくする松阪牛とは、
ごくささやかな私の体験で甲乙を付けることは出来ませんが、いずれ劣らぬ絶品の霜降り肉と見受けました。



7時過ぎに彦根へ戻り、コンフォートホテルへチェックインし、最上階の部屋に入ると、
一応お城ビューで、ビジネスホテルにしては広めの部屋で良かった!と思ったのですが、
TVを消して寝ようとした夜半過ぎ、聞こえて来たのは間断なく続く機械音・・・。
しばらくの我慢の後フロントへ電話をすると、すぐに屋上の機械を点検、たちどころに問題が解決し、
これが初めてではないと思われる迅速さでしたが、何はともあれ安眠が確保できて、ほっとした一幕でした。



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