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2019・11・17
彦根~竹生島~彦根城~米原~品川
 
コンフォートホテル彦根

夜半、音を立てて降っていた雨が朝方には止み、最終日までお天気に恵まれた近江旅でした。
7時過ぎにビュッフェ・スタイルの朝食を取り、8時半にフロントへ荷物を預けた後、竹生島(ちくぶじま)観光へ出発しました。

竹生島


井伊直政公之像

彦根港 観光船のりば

初代藩主・井伊直政の像が立つ彦根駅西口から9時発の無料シャトルバスに乗って、
8分ほどで彦根港に到着し、彦根城と合わせた国宝めぐり1dayパスを購入して(3800円→3000円)、
彦根港から1日4便出ているオーミマリン「びわ湖竹生島クルーズ」船に乗船、9時半に出港しました。



伊吹山

彦根城をはるかに遠望

彦根港から18.6km、40分ほどのクルーズの間、暖かい船内と風の強いデッキを行ったり来たりして、
いろんな角度から琵琶湖湖東の景色を楽しみました。



下船

月定院

10時10分に下船し、「神を斎(いつ)く島」に由来すると言われる竹生島へ降り立ちました。
1868年(明治元年)発布の神仏分離令で、竹生島宝厳寺(ほうごんじ)も大津県庁より神社改易の命令が下されましたが、
全国の信者から要望を受けた宝厳寺は廃寺を免れ、本堂建物を神社へ引き渡すにとどめることができたそうです。

島の入り口に売店と拝観料券売所があり、その先の鳥居を抜け、石段を上った左手に本坊と月定院の二つの寺坊、
さらに石段を上った山の中腹に宝厳寺本堂(弁才天堂)がありました。
周囲2km余りの小さな島ですが、納経所前に長い行列があったり、
今も中世以来の西国三十三か所観音霊場の賑わいを保っていることが分かりました。



宝厳寺本堂(弁才天堂)

宝厳寺本堂内部


宝厳寺は724年(神亀元年)に聖武天皇の夢枕に立った天照大神から、
「江州の湖中の弁才天の聖地の小島に寺院を建立すれば、国家安泰、五穀豊穣、万民豊楽」とお告げがあり、
勅使とされた行基が堂塔を開基したことに始まると寺伝が伝え、弁才天像を本尊としています。
かつては天皇の行幸があり、最澄、弘法大師なども修行をしたと伝えられますが、
本堂を神社へ譲った後、仮安置されていた弁才天は、1942年(昭和17)に再建された現在の本堂に置かれています。



大弁才天の分身(宝厳寺HPより)

七福神の一人として民衆の信仰を集めて来た弁才天は、インドの古代信仰の水を司る神「サラスヴァティー神」に由来、
汚れを洗い流す力を持つ水が人々の心(菩提心)を守るとされ、修行、芸道、商道の守り神になったと言われています。
江の島、宮島と並び、「日本三弁才天」とされる宝厳寺の本尊は行基による開眼と伝わる秘仏で、
最古の建立ということで大弁才天と称され、60年に1度(次回は2037年)開帳されています。
そのため本尊ではなく、分身とされる弁才天が前立てとして厨子の前に置かれていました。
因みに琵琶湖の名前は弁才天が手にする琵琶に由来、大きくて深い北湖が胴、狭くて浅い南湖が首の部分とされ、
立体的にも琵琶と形が似ている琵琶湖の名前は、鎌倉時代の史料に確認できるそうです。


   
 五重石塔                             三重塔       

滋賀郡の山中から採れた小松石で作られた五層の石塔は高さ247cm、地・水・火・風・空をかたどったものと言われ、
初重塔身に四仏が彫られ、屋根が上層軸部と一石彫成された鎌倉時代中期の特徴を持つもので、
重要文化財の指定を受けています。

釈迦の遺灰を収めた仏舎利塔を形どった三重塔は、宝厳寺では江戸時代初期に落雷で焼失した後、
古来の工法に基づいて、2000年(平成12)に350年振りに復元されていますが、
四本柱に32体の天部の神々、四方の壁に真言宗の8人の高祖を配している内部は、一般開放されていません。


   
 雨宝塔                             モチノキ

雨宝童子は真言宗の立場からなされた神仏習合の両部神道の神で、天照大神が地上に降り立った姿とされ、
頭上に五輪塔を掲げ、右手に宝棒、左手に宝珠を持つ童子の姿で祀られていました。
豊臣秀頼の命を受けた普請奉行の片桐且元が、1602年(慶長7)に観音堂、唐門、渡廊下を移築した時に、
手植えしたと伝わるモチノキも保存木となっていました。



本堂まで165段の階段

竹生島港

左上:本坊

唐門(国宝)・観音堂

宝厳寺の境内を見学した後、長い階段を下りて、途中を左折、竹生島東側に位置する神社へ向かいました。
片桐且元が秀吉の豊国廟より移築した唐門と観音堂は、耐震補強や保存修理工事(令和元年7月~12月)のため、
保護シートに覆われていて、桃山様式の唐門の代表的遺構とされる国宝建物を見ることはできませんでした。

竹生島と秀吉の関係は強く、多くの書状や宝物が寄贈されているそうですが、
秀吉亡き後、豊臣色を薄める家康の政策によって、豊国廟の縮小を余儀なくされた結果の移築とも言われています。
千手千眼観世音菩薩を納めた観音堂は、西国三十三か所第三十番札所とされる重要文化財です。



舟廊下

舟廊下外観

観音堂から都久夫須麻(つくぶすま)神社へと続く舟廊下と呼ばれる渡廊下は、
朝鮮出兵の折に秀吉の御座舟として造られた日本丸の船櫓(やぐら)の骨組みを利用して造られたことを名前の由来とし、
観音堂と同時期に桃山様式で作られ、優美な趣きを持つ木造建築でした。



都久夫須麻神社本殿(国宝)

都久夫須麻神社は459年(雄略天皇3年)に浅井比売命(あさいひめのみこと)を小さな祠に祀って創建と社伝が伝え、
近江宮創建の際には天智天皇が宮中の守護神とし、
市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、宇賀福神、浅井比売命(産土神)、竜神の4柱の神を祀る神社です。

江戸時代まで続いた神仏習合が神仏分離令によりゆらぎ、1874年(明治7)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、
1883年(明治16)には両者の財産が区別され、別法人とされますが、
宝厳寺の観音堂と舟廊下で直接つながる構造からも、両者は不可分のものとして並立しています。

本殿は1558年(永禄元年)に焼失後、秀吉が伏見城の束力使殿を寄進し、
1567年(永禄10)に竣工した桁行五間、梁間四間、入母屋造、檜皮葺の建物ですが、
本殿の屋根、庇、向拝の外周建物の中に、秀頼の命を受けた片桐且元が、
1602年(慶長7)に伏見城の日暮御殿(豊国廟の説もあり)を移築した身舎(もや)が内部に収められています。


入れ子建築の身舎にびっしりと施された菊、牡丹、鳳凰などの彫刻は見られますが、
狩野光信の筆と伝えられる天井画や襖絵がある内陣の拝観は、現在は中止という表示がありました。



竜神拝所

宮崎鳥居

都久夫須麻神社下の琵琶湖を望む断崖上に竜神拝所があり、
願い事を書いた土器(かわらけ)を下方に見える宮崎鳥居へ投げ、鳥居をくぐらせると願い事成就といわれていますが、
貧しい運動神経に運だめしを託すなどという無謀はやめておきました。


遠ざかる竹生島

船会社規定の70分の竹生島滞在を終え、11時20分にフェリーに乗船し、彦根へ戻りました。
想像していたよりはるかに人が多く、開けた島でしたが、(だからこそ簡単に訪れることができた訳ですが)、
お天気にも恵まれた中、快適な船旅ができ、よい旅のひとこまとなりました。

彦根

                                                                               
彦根の町並み

12時に彦根港に到着し、見え隠れする彦根城や滋賀大学キャンパス、街並みなどを見ながら、
彦根の中心部まで歩きました。



北野寺

旧彦根高等商業学校講堂

北野寺は720年(養老4)に元正天皇の勅願で建立されたという古刹で、
平安時代から名を知られた彦根寺を前身とし、1603年(慶長8)の彦根城築城に伴い現在地に移され、
彦根藩2代藩主・井伊直孝が上州の北野寺に学んだことから、北野寺と改称された井伊家の祈祷寺です。

遠目にヴォーリズの建物に見えた洋館は、1924年(大正3)に文部省建築課によって設計された旧彦根高等商業学校の講堂で、
現在は滋賀大学経済学部講堂として使われています。
1943年(昭和18)に近江八幡の浅瓦に葺き替えられていますが、屋根の換気塔や半円形屋根窓など、
大正時代の旧専門学校講堂の典型的な建築様式を維持し、2001年(平成13)に国の登録有形文化財に指定されています。



スミス記念堂

彦根城西面(大手門側)

スミス記念館は、日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で、彦根高等商業学校の英語教師であったパーシー・スミス氏が、
日米両国のキリスト教を通じた交流を願って、多額の自己資金と寄付金によって、
1931年(昭和6)に彦根城の濠端に建設した和風礼拝堂で、取り壊し寸前になっていたものを、
「スミス記念礼拝堂を彦根に保存する会」が解体保存し、彦根市の協力により、2007年(平成19)に再築、竣工したもので、
現在は内部公開を行っていない登録有形文化財となっています。
大手門側から見る彦根城天守は、直線の切妻破風と屋根の曲線の唐破風が見事な調和を見せていました。


四番町スクエア

彦根城濠に沿って歩いて、町家風の街並みが続く夢京橋キャッスルロードへ着いた時、
四番町スクエアに1時に登場するひこにゃんを見たいという次女に合わせて、
大正時代の西洋建築を再現した四番町スクエア四番町ダイニングでしばしゆるキャラタイムを過ごしました。



豪徳寺前で手招きをして豪雨から井伊直孝を守ったと伝えられる「招き猫」と、
武具を朱塗りにした井伊軍団シンボル「赤備え」の兜を合体させて生まれたひこにゃんには、街のあちこちで出会いました。





夢京橋キャッスルロード

ひこにゃん写真タイムを終えて、夢京橋キャッスルロードを歩き、
「千成亭自慢の近江牛のしぐれ煮使用」という大きなポスターの近江牛の文字につられて、
千成亭のまぜうどん昼食にしましたが、もう少しゆっくりメニューを選びたかった、というのが次女の食後感想でした。





たねや

クラブ ハリエ

昼食後、夫は一足早く彦根城へ、私と次女は「たねや」の洋菓子部門「クラブ ハリエ」でバームクーヘンなどの買物をしてから、
彦根城へ向かいました。


彦根城


彦根城鳥瞰復元図 荻原一青画

彦根城は琵琶湖へ突き出した金亀山(こんきさん=彦根山)という独立した丘に湖を干拓して造り上げた城で、
大阪の豊臣家を牽制するために、徳川家康の命で12大名の助役による公儀普請として、
1604年(慶長9)より20年の歳月をかけて造営され、軍事、政治の重要な拠点として、
三方を堅固な惣構(そうがまえ)で守り、北東の入江には湖上交通のための港が設けられていました。
秀忠、家光、家綱三代にわたる将軍の執政をつとめた2代目藩主・直孝以降、譜代大名としては例のない30万石の上に、
幕府領5万石の預かりを得た井伊家35万石の繁栄を今に伝える彦根城でした。



彦根城天守と附櫓(西の丸側)

関ケ原合戦の前哨戦を耐え抜いた大津城から移築されたと伝えられ、
一層目に「へ」の字形の切妻破風、二層目に南北に切妻破風、東西に入母屋破風と変化の妙を見せる彦根城天守は
明治時代に解体の危機に見舞われますが、北陸巡行の折に立ち寄られた明治天皇の大命によって保存されて、
姫路、松本、犬山、松江城と共に1952年(昭和27)に国宝に指定されています。
1996年(平成8)に築城以来5回目の大改修が行われたという美しい姿が彦根の街のランドマークとなっていました。



いろは松

佐和口多聞櫓

佐和口から城内へ入る手前の中濠沿いの松並木は、根が地上に出ず、人馬の往来に邪魔にならない土佐松を
高知から取り寄せて植えられたと伝えられ、かつては47本あったことにより「いろは松」と呼ばれています。

二の丸へ向かう佐和口右手に見える多聞櫓は、1960年(昭和35)に再建されたもので、
現在は開国記念館(彦根城管理事務所)として使われています。



表門山道

天秤櫓にかかる廊下橋

表御門跡の券売所を抜け、山切岸に沿った表門参道の石段を上っていくと、
西方からの敵に備え、敵襲来時には落される大堀切にかかる木造の廊下橋が見えました。


鐘の丸へ 天秤櫓と廊下橋

廊下橋の橋脚を見ながら、さらに鐘の丸の石段を上がっていくと、天秤櫓の正面へ出ました。
左右対称の櫓になっていることから天秤櫓と呼ばれる櫓門は、長浜城の大手門を移築したものと言われています。
敵を欺くため複雑になっている城内は、受付配布のパンフレット「御城内絵地図」を見て、ようやく理解できるものでした。
解体調査の結果、石垣に湖東流紋岩の他、佐和山城のチャートを移築利用していることが分かった鐘の丸から、
太鼓丸を通り、太鼓門を抜けて、本丸へ入りました。



天守(本丸御殿側)

西の丸 三重櫓と続櫓

一足早く本丸に到着していた夫によると、天守内入場は1時間待ち、内部も混み合っているということで内部見学は割愛し、
写真だけ撮って、西の丸へ向かい、城下の景色を見ながら、途中で買ったどら焼きで一服入れた後、
西の守りの要であった三重櫓と続櫓の内部を見学しました。


西の丸の櫓内部

一・二層だけに城外側へ向けた窓を持つ攻撃用櫓の三重櫓は彦根城内には3か所あり、
西の丸三重櫓は1853年(嘉永6)に大修理をされた時に梁や柱の8割は江戸時代後期のものと取り替えられましたが、
小谷城天守を移築したと伝わるほぞ穴痕がある創建当時の転用材が階段の床板や側柱に残っていました。



鉄砲狭間や二重構造になっている漆喰壁など、基本的な構造は本丸内部と大きくは違わないと思いますが、
西に張り出した出曲輪(でぐるわ)を見張る要であったことが理解される装飾のない質実剛健な佇まいの三重櫓でした。


井戸曲輪

黒門山道

堅牢な高石垣

黒門券売所

西の丸三重櫓から本丸下へ戻り、本丸東側の井戸曲輪を見ながらじぐざぐに曲がる黒門山道を下りて、
黒御門跡から城外へ出て、黒御門前の玄宮園へ立ち寄りました。



玄宮園入口

槻御殿 御書院

玄宮園は4代藩主直興によって1677年(延宝5)に建立され、槻(けやき)御殿と呼ばれた二の丸御殿で、
現在は建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。
「知者は水を楽しみ仁者は山を楽しむ」という論語に因み、「楽々の間」が造られた御書院などの整備が進む楽々園、
江戸時代には槻之御庭と呼ばれた池泉回遊式庭園の玄宮園は、
1951年(昭和26)に国の名勝指定を受けています。



池泉回遊式庭園



逆さ彦根城

復元した水田

1815年(文化12)10月に井伊直弼が生まれた大名屋敷の池泉回遊式庭園を散策し、彦根城を望む絶景を楽しみ、
4つの中島、4つの茶屋があり、華やかな社交の場であったと伝わる往時に思いを馳せたひと時でした。
領内の五穀豊穣を祈って藩主が行う田植え神事のための水田も復元され、当時の政治的演出も再現されていました。

早い日暮れが迫った4時頃に、米原駅では駅弁は入手できないと思う、という次女の意見によって、
彦根駅近くのショッピングセンターで夕食用の鯖寿司などを購入した後、コンフォートホテルで荷物を受け取り、
米原発5時57分のひかり530号で帰途につきました。


 

湖北地域のソウルフードといわれる鯖そうめんとサラダパンを事前チェックしていた次女は、
それらをしっかりと入手、一人離れた新幹線座席で近江を味わいながらの帰路は思い残しなし、といった様子でした。

品川で下車し、恵比寿からタクシーに乗って9時前に帰宅して、
遠からずの再訪を期しつつ、予期以上に充実した近江4日間の旅が締めくくられました。

                                  (2019.12.22)



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