襟裳岬 27 Jul 2010
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朝8時半に出発して襟裳岬へ向うと、20分ほどで前方に海霧に包まれた岬が見え始め、
少し肌寒い岬に40分程で到着しましたが、霧が晴れて、日差しが出ると共に汗ばむ気温になりました。
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日高山脈が太平洋に沈み込んだ岬の先に2km続く岩礁地帯は海面下に没してからも延々6kmも続き、
東南185km先の海面下には襟裳海山と呼ばれる高さ4200mの海中山が潜んでいるのだそうです。
岬や最果ての地というのはとりわけ旅情を誘われるものですが、
襟裳岬の荒々しいユニークな姿は、テンションの高さを引いても、強く印象に刻まれるようでした。
双眼鏡を覗いてもゼニガタアザラシに出会えなかったことは残念でした。
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エゾフウロ |
ナガボノシロワレモコウ |
ツリガネニンジン |
エゾノコギリソウ |
カシワやダケカンバで覆われていた襟裳周辺は、開拓期の伐採などで昭和初期には砂漠化し、
表土が海へ流れ出して、漁業にも深刻な影響を与えていたそうですが、
昭和28年からの緑化事業による緑の復活と共に漁業も活気を取り戻したものの、
北海道に自生しないクロマツを使ったことなどが今後の課題とされているようです。
年間260日以上も吹くという強風にもめげずに咲く様々な野草が目を楽しませてくれました。
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来る途中に看板を見つけた短角牛の牧場へ行く為に、もと来た道を戻ったのですが、
看板が逆方向になっていたため通り過ごしたり、人に尋ねたりしながら、
ようやく探し当てた「短角王国 守人(まぶりっと)」は火曜日が定休で、人影もなく、アンラッキーでした。
生協で取り扱い始めた牛のルーツを知ることは出来ましたが、牛達の獰猛な目付きにはちょっと腰引け・・・でした。
次に周辺海域で南部藩の大型船が遭難した時に死者が100人にもなったことに由来するという百人浜へ
下りて行きましたが、昆布を干す作業に忙しい浜に迷い込んでしまい、早々に退散しました。
昆布漁は干した日に乾かないと等級が落ちるためお天気頼みの厳しい作業だそうです。
海岸沿いの国道336号線、「まるで金を敷き詰めたように資金が費やされた」黄金道路を通って広尾へ行き、
道路沿いの魚卸店?で教えてもらったお店「八幸」でのチラシ丼ランチはとても新鮮で美味でした。
広尾を出て、1997年に開通したという天馬街道を走って、帰路につきましたが、
日高山脈を貫通する道内最長の4232mの野怎gンネルなど平成の「黄金」がつぎこまれた道路は
自然の豊かさや牧場風景の美しさとともに、通行する車数の少なさが印象的でした。
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3時に帰り着くと、まもなくKJさんが毛ガニやウニを届けて下さいましたので、
この夜は、明日帰京されるKSさんも一緒に夕食をとることに話がまとまりました。
(別荘を占領されてしまったKSさんはKJさん宅に2泊されました。)
やはり高校の同級生で、隣に住むTJさん達もいらして、総勢11名の賑やかな夕食には、
フグの卵の粕漬け、マスコ、タコ、ホッキ貝、TJ夫人が届けて下さったスジコなど様々な北海の幸が並びました。
団塊世代のKSさん達が高校生の頃には、日高本線の終着駅である様似駅前には
襟裳岬観光のバスが列をなして並んでいたそうですが、
今では2時間に1本、1両車両が発着するだけの寂しい駅となっています。
どなたかが森進一が「えりもの春は何もない春です」と歌ったのがいけないんだと言っていましたっけ・・・。
江戸後期の東蝦夷地の要路で、アイヌ語「サンマウニ」(朽ち木のある所)に由来するという様似は、
1952年に町制が敷かれ、現在は水産、農畜産で成り立つ人口5250人程の町です。
思い掛けないご縁から、遠い地方の方々の篤い人情にも触れ、特別な様似ステイとなりました。
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