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2013・4・16
羽田空港〜米子空港〜出雲大社〜稲佐の浜〜日御碕〜出雲   
                           
八ヶ岳連峰 御嶽山
朝8時ごろ家を出発し、羽田空港に9時20分に到着しました。
バッテリー・トラブルのボーイング787の運休が続いている影響か、急な機種変更があって予約とは違う座席になりましたが、
満席のボーイング737−800の右側の窓席から日本が山岳国であることを改めて思い起こす景色を見ながら、
11000m上空からの山陰航路を楽しみました。

美保関 米子鬼太郎空港
10時20分に羽田を発って1時間15分、11時35分に眼下に美保関が見え、まもなく米子鬼太郎空港に着陸しました。
空港内のカウンターでレンタカーの手続きをして12時過ぎに米子を出発、中海の江島、大根島を渡って、
松江から山陰道に乗り、1時半に出雲に到着しました。


宇迦橋の大鳥居

出雲大社へ向かうと、先ず、天皇即位の御大典記念に九州の敬神家が大正14年(1915)に寄贈したと言われる
高さ23m、中央の額が畳6畳分あるという大鳥居に出迎えられます。


  

出雲大社の駐車場に車を置いてから、ガイドブックに出ていた創業220年の老舗「荒木屋」へ行き、
遅目の昼食に割子蕎麦をいただきました。
蕎麦猪口はなく、蕎麦つゆを上段から順に注いで食べる割子蕎麦は、
江戸時代に野外で食べるために弁当箱や重箱に入れて持ち運んだのが始まりと言われ、
店内には江戸時代の屋台が飾られていました。
甘皮も一緒に挽くため、こしがあり、風味のあるお蕎麦でした。

 
正門大鳥居 勢溜
宇迦橋の大鳥居の次の正門の大鳥居から大社への参拝が始まります。
大鳥居の周辺にかつて大きな芝居小屋があり、勢溜(せいだまり)と呼ばれた広場の先が急な下り坂になっていて、
自然な地形と言われますが、不思議な雰囲気を醸し出す参道となっていました。





祓社

浄の池
勢溜を抜けて右手に最初に見える祓社(はらえのやしろ)は人々が知らない間に犯している罪や纏っている穢れを清める
祓戸大神(はらえどのおおかみ)を祀り、「祓いと浄め」の神道思想を教えています。

祓橋 素鵞川
神域は古来より、生気や生命力を表す水の流れに囲まれた場所に造られたそうで、
素鵞川(そががわ)と吉野川に挟まれた出雲大社も、祓橋(はらえのはし)を渡ると神聖な空気が濃密になっていくようでした。



鉄鳥居

銅鳥居
鉄鳥居の先には松江藩主・堀尾忠氏の夫人が寄進したと伝えられる松並木があり、皇族や大名用であった中央の道には、
今は「松の根の保護のために左右の参道をお進みください」という立札が立てられていました。
     松並木が終わると、長州藩主の毛利綱広が寄進した我が国最古と言われる銅鳥居があり、
その前方に御仮殿(拝殿)が見えて来ます。


   
御慈愛の御神像                  幸魂奇魂                ムスビの御神像
 
銅鳥居の手前には、身分の低い母の元に生まれたせいで兄弟神八十神のいじめを受け、
幾多の試練を受けながらも、その度によみがえり、国の長となっていく神話の主人公のひとりである
出雲大社御祭神の大国主大神(おおくにぬしおおかみ)の御神像が置かれていました。
 
左側の 「因幡の白兎」は「素兎」というのが正しい表記で、
 大国主大神が素兎に教えたガマの花粉は漢方で蒲黄と呼ぶ止血剤ですから、理にかなった治療法であったと言えます。
「ムスビの御神像」は大国主大神の国造りを手伝った小名毘古名神(すくなびこなのかみ)が常世へ去った後、
海の向こうから光輝いてやって来た救い主、大物主神(おおものぬしのかみ)が、
「我は幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と言って現れた場面を表しています。

大己貴命(おおなむちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、葦原醜男神(あしはらのしこおかみ)、
顕国玉神(うつしくにたまのかみ)など大国主大神が持つ多くの異名は、
試練を乗り越えつつ残した国土開発、農業、漁業、商業、医療など大国主大神の様々な業績を表しているそうです。
また多くの女神と結ばれて181柱の御子神を残したことから縁結びの神として、
民間信仰に浸透してインドの大黒天と習合し、大黒様としても慕われている神様です。



左奥:手水舎 中央:石灯篭

神馬・神牛
手水舎で手と口をすすぎ、文化3年(1806)奉納の石灯篭の脇から銅鳥居を抜けると、
右手に防長2州藩主の毛利綱廣公が寛文7年(1667)に寄進した「神馬・神牛」が置かれていました。
地元の人々から「かねうまさん」と親しまれ、子宝・安産の御利益があると言われる神馬は京都の名越弥七郎の手になっています。


御仮殿(拝殿)

現在、出雲大社では平成の大遷宮と呼ばれる第62回式年遷宮が行われており、
大国主大神の御神体は平成20年4月10日の仮殿遷座祭から今年5月10日の本殿遷座祭まで、
本殿から御仮殿(拝殿)に遷られています。
 総檜造り、銅板葺き屋根、長さ8m、重さ1.5トンという大きな注連縄が飾られた御仮殿の神前で、
出雲大社の「二拝四拍手一拝」の参拝法で大国主大神に拝礼をしました。
普通の神社より二拍手多い四拍手は、四方向を表す、四季の意味など諸説あるようですが、真相は謎のようです。

御守所 八足門(やつあしもん)
瑞垣に囲まれた御本殿前へ行くと御守所や八足門がありました。
平成12年(2000)に八足門の階段下で発見された3本の柱を金輪で束ねた直径3mの巨大柱は、
13C半ば、鎌倉時代の本殿遺構の可能性が高いと言われています。

60年毎に行われる「造替遷宮」(ぞうたいせんぐう)は神威を蘇らせ、人心や命を更新し、
木造建築の維持や社殿建築技術の伝承などを目的として行われますが、
今年は天つ神の頂点である伊勢の大神(20年毎に遷宮)と国つ神の代表である出雲の大神の大遷宮が
行われる特別な年となっています。

大国主大神に仕えることを命じられた天穂日命(あめのほひのみこと)を祖先とする第84代目出雲國造(宮司)が
出雲大社に古代から続く年間72回の恒例祭典を司りますが、
「出雲國造家系譜」には「古事記」が編纂された和銅5年(712)と「日本書紀」が完成した養老4年(720)の中間の
霊亀2年(716)に出雲大社が完成したと記され、 
「始祖天穂日命、斎を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移す」、
つまり意宇平野の大庭に置いた根拠地(熊野大社または神魂神社)を出雲平野の杵築に移すという記述があると、
梅原猛氏は著書「葬られた王朝」で述べています。

出雲大社建造の時期を同定した梅原猛氏は表面上の出雲大社の建立者は律令の制定、歴史書の編集、都城の造営など
後世に残る大事業をなした元正天皇(在位:707−715)、元明天皇(在位:715−724)両女帝であるが、
実際の計画者及び実行者は藤原不比等であり、
「前代の王朝、出雲王朝のスサノオ、オオクニヌシこそ、不比等がもっとも手厚く祀った大怨霊神なのであり、
そして、その藤原不比等こそが、ヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人だと、私は思う。」と論じ、
「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものである」という40年前の自説を覆して出雲王朝の存在を認め、
2008年に出雲大社の神前で「オオクニヌシノミコトに心からお詫びした」そうです。
梅原氏の記紀神話の歴史的解釈には欠陥も指摘されているようですが、
文献、遺跡を徹底的に検証した論旨は明快で、不勉強な私にとっては旅前の期待、好奇心を大いに高めてくれるものでした。

因みに大国主大神の国譲りの功績を讃えて造営が始まった出雲大社は、
初めは「天日隅宮」」(あめのひすみのみや)、明治初期までは地名に因み「木築大社」と呼ばれていたそうです。


瑞垣内 門神社 楼門
平成20年の仮殿遷座祭後には、御本殿内部が60年振りに一般公開されましたが、
平素は一般の人は瑞垣内には入ることが出来ず、八足門の前で参拝を行なうそうです。
御神体が遷座されているのを幸いに?瑞垣の隙間にカメラを入れて、
葺き替えられた屋根の新しさが目立つ門神社や複雑な造形の楼門などを写して来ました。




観察楼 天皇家・宮家 御献進

荒垣内

釜社(かまのやしろ) 

御修造期間中は立ち入り禁止になっていた社殿奥は本殿遷座祭が1か月後に迫り、通行可能となっていて、
御本殿周りを一周することが出来ました。
本殿東側の釜社は素戔嗚尊(須佐之男命)の御子神で食物を司る神様、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀っていて、
 稲荷神社の御祭神ともされています。
神社内の随所で写生をしていた地元の中学生から、時々「こんにちは」と声を掛けられました。


パンフレット転載

写真は国宝の御本殿の檜皮葺のお屋根替えのために平成20年の暮れから半年かけて造られた覆屋です。
昭和の御修造時の方法を調査しつつ行われた解体作業によって取り外された御本殿の檜皮の総重量は40トン、
180坪の大屋根の檜皮葺には四尺皮(1.2m)の長大なものも含む64万枚の檜皮を必要とし、
素孟宗竹などを使った竹釘は素手で檜皮に打ち込まれていくそうです。
檜皮下の3重構造の野地板にも丁寧で緻密な匠の技が見られ、そのまま使えることが判明し、
 300年に耐えた木材の強さも証明されています。
4本の千木は2本を再利用、千木に載る3本の勝男木は傷んだ部分を削って新しい部材が埋め木されたそうです。

今回の御修造で行われるのは屋根の葺替えと木部・飾金具の修理で、 
銅板は主成分のエゴマの他、松ヤニ、鉛、石灰を混ぜた「ちゃん塗り」と呼ばれる伝統的な塗装で保護されますが、
千木、勝男木には油煙(炭)を混ぜた「黒ちゃん」、破風の飾金具には緑青を混ぜた「緑ちゃん」が使われるそうです。

このような遷宮という大事業には膨大な量の檜を必要とするために、
出雲大社の「氏子植林奉仕 〜遷宮の森づくり」や広島県三次市の山林などで植林プロジェクトが始まっているようです。


左から天前社  御向社   御本殿

逆光が残念でしたが、覆屋が外された勇壮な御本殿の姿をカメラに収めることが出来ました。
延享元年(1744)に造営、文化6年、明治14年、昭和28年に御修造された現在の御本殿の高さは24mですが、
平安時代の中頃、970年に書かれた貴族子弟用教科書「口遊」(くちずさみ)には
「雲太(出雲大社)、和二(大和・大仏殿)、京三(平安京・大極殿)」と大きな建物の比較が記述されていて、
平安時代には48mの高さを誇っていたと考えられています。
7.8mの千木、5.5m勝男木がアクセントとなっている高床式切妻造りの日本最古の神社建築様式である大社造りの内部は
9本の柱で4つの部屋に区切られ、中心に直径1mの心御柱(大黒柱)が立ち、天井には雲の絵が描かれ、
床は畳敷きになっているそうです。
写真中央に見える高さ47m、畳75枚分の巨大な国旗は神楽殿前に掲揚されているものです。

天前社(あまさきのやしろ)には兄神からの災難で大火傷した大国主を秘薬で治療し、看護に尽くした
蚶貝比売命(さきがいひめのみこと)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)という二人の貝の神が祀られ、
御向社(みむかいのやしろ)には須佐之男命(すさのおのみこと)の娘で大国主大神の正妻、
共に国造りをした須勢理比売命(すせりひめのみこと)が祀られています。

 
素鵞社

彰古館

八重山を背にした境内北側の高台の素鵞社(そがのやしろ)には須佐之男命が祀られています。
鎌倉時代から江戸時代の初期まで須佐之男命が出雲大社の御祭神とされていましたが、
寛文の御造営(1667)の折りに本殿から遷座されたそうです。高い場所に祀ることで敬意を評したのかもしれません。
彰古館は大正3年(1914)に建造された宝物館で、御修造が終わると内部が公開されるのではと思われます。

筑紫社 左:西十九社  右:氏社
本殿にある御神座は東側に西向きに、一説では稲佐の浜を向いて設置されていて、 
御神座正面拝礼所は筑紫社(つくしのやしろ)のある境内西側となっています。

 筑紫社には天照大御神と須佐之男命が誓約(うけい)をした時に生まれた多紀理比売命(たきりひめのみこと)が祀られ、
 社名は福岡県宗像大社に祀られる神に由来し、出雲と北九州のつながりを示唆すると考えられています。

御本殿の東西に相対する十九社は様々な縁について神議(かみはかり)する神在祭(かみありさい)の折の神々の宿泊所で、
旧暦10月10日から7日間行われる祭りの期間は19の扉を開けたままにするそうです。
19という数字は1から9まで、つまり「始まりから終わり」という無限大を表し(キリスト教に於ける「αからω」と同様です)
東西十九社が創建された寛文(1661−1672)時代からとされ、それ以前は三十八社あったと伝えられています。

西十九社の横に南北に並ぶ社は北側は天照大御神の第二子で出雲國造の祖先神である天穂日命(あめのほひのみこと)、
南側には天穂日命の子孫の17代目宮向宿祢(みやむきのすくね)が祀られています。
平成27年度まで続けられる御修造によってこれら摂社・末社の屋根も新しく葺き替えられるそうです。


吉凶はなく、神のメッセージを読むというおみくじ

       
 御衣黄                   東神苑特設会場                  土俵    

御衣黄が咲き、遷宮記念行事用の特設会場の設置が進む神苑を抜けて社殿に隣接する古代出雲歴史博物館へ行くと、
月1回の休館日と分かって愕然としてしまいましたが、
出雲に連泊しますので機会を失した訳でもなく、気を取り直して、日御碕を目指すことにしました。

土俵は相撲の祖と言われる第13代出雲國造・襲髓命(かねすねのみこと)に因み、
毎年6月には小学生の「野見宿祢杯わんぱく相撲大会」が開催されるそうです。



3時半ごろ出雲大社を発ち、安土桃山時代に阿国歌舞伎を創始したと伝えられる出雲お国の墓に立ち寄りました。
 出雲大社の巫女であったとも言われるお国は、幼少の頃、本殿修理のために諸国勧進の旅に出立し、
ややこ踊りや念仏踊りを演じた後、慶長8年(1603)に京都四条河原でかぶき踊りを初演して人気を博し、
女歌舞伎の全盛時代を築いたと言われています。
ミュージカル「出雲阿国」公演記念の真新しい石碑も建てられていました。



稲佐の浜 弁財島

もう一か所、「国引き」「国譲り」が行われた稲佐の浜にも立ち寄りました。
出雲の国が小さいからと新羅や越(北陸)の国の一部を切り取って、「国来、国来」と島根半島に土地を継ぎ足し、
三瓶山と大山を杭にして綱でつないだという八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の「国引き」、
天照大神の使者である建御雷神(たけみかずちのかみ)から「否、然」(いな、さ)と
大国主大神が「国譲り」を迫られたのがこの場所であったといわれています。
島根の地政学的な位置に思いを馳せながら、米子空港に駐機していた自衛隊機を思い出したひと時でした。

現在は、この浜が神迎祭(かみむかえさい)の場所となっていて、
旧暦10月10日の夜7時に闇の浜で篝火が焚かれ、潔斎を済ませた神職が参進して、
注連縄を張り巡らせた祭壇に神々が乗り移る「神籬」(ひもろぎ)と呼ばれる2本の榊を祀って祝詞を奏上すると、
龍蛇神に先導された神々が弁天島を目指して海を渡って来られると伝えられます。
(海が荒れ始める旧暦10月に背黒海蛇が海岸に漂着するのは事実だそうです。)
その後、両側を絹垣で覆われた神籬は「神迎の道」を通って大社へ向かわれ、
引き続いて大社神楽殿で神迎祭が催されます。


           上宮        −J.Y−

11日から17日までは「幽事」(かくりごと)という神事が行われ、神議によって人生諸般のものごとが諮られるそうですが、
大社では初日・中日・最終日のみ開催される神議が、
奉納山の麓の摂社、須佐之男命と八百万の神を主祭神とする上宮(かみのみや)では連日執り行われるそうです。
大社から1キロほど、稲佐の浜の程近くにある上宮へは寄りそびれてしまいましたので、
たまたま1ヶ月前に訪れていた友人の写真をお借りして、上の宮を紹介させていただきました。

大社を去る17日と出雲を去る26日に神々を見送る神等去出祭(からさでさい)が行われますが
その間、20日から25日までは松江市の佐太神社で神在祭が開催されるそうです。
絹垣に包まれた神籬を仮拝殿へ遷御し、本殿楼門を神職が三度叩きつつ「おたち〜おたち〜」と唱えた瞬間に神々は大社を去り、
26日の第二神等去出祭で神々が去ったことを大国主に報告し、神々の無事を祈り、
御本殿前で神職が扉を三回叩いて、「おたち〜」と唱えると神々は全国へお帰りになられると言われています。
土地の人はこれらの神在祭の期間を「御忌祭」(おいみまつり)と呼び、神議の邪魔にならないように静かに暮らすそうです。

                                 参考:「出雲大社」(楽学ブックス 神社2 JTBパブリッシング)2月
  

大社湾の景観

稲佐の浜を出て、美しい海岸線に沿った道を20分ほど走って日御碕へ向かうドライブウェイの途中に
日御碕神社の全景が収められる絶好の写真スポットがありました。



写真スポットに咲いていたイカリソウ


下の宮「日沈宮」

上の宮「神の宮」

出雲風土記で「美佐伎社」とされる日御碕神社は拝殿と本殿がつながる権現造りの神社で、
徳川家光の命で七年の歳月をかけて造営され、14棟の全てが国の重要文化財に指定されています。
下の宮「日沈宮」に天照大神、「我が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と投げた柏葉が日御碕に止まったという須佐之男命が
上の宮「神の宮」に祀られていますが、この位置関係が朝廷と出雲の国との関係を物語っているとも言われています。
日沈社は千年ほど前、村上天皇の勅命によって経島(ふみしま)から遷座されたそうで、
姉神より弟神の方が上位に扱われる出雲のお国事情が見え隠れしているようにも思われました。

日御碕灯台

柱状節理の断崖の上に立つ日御碕灯台の43.65m、163段の階段を上って、
風が強くて少し腰が引けながらも、日本海の景観も楽しみました。
灯台が閉まる4時半ぎりぎりに到着し、歴史博物館へ寄っていたら間に合わなかったことも判明、災い転じて・・となりました。
明治36年(1908)に造成、「世界灯台100選」に選ばれ、「東洋一」とも称される日御碕灯台は、
地震に耐えるため外側が石造り、内側がレンガ造りの日本独自の二重構造の工法で造られていて、
日本に6台しかない直径2.59mのフランス製のレンズも貴重であると言われています。
1974年からは有線監視方式で無人管理されているそうです。



灯台を降りて、遊歩道を散策し、ウミネコの一大繁殖地として国の天然記念物に指定されている経島などを眺望、
その後、日御碕で海の幸を楽しみながら夕日を見るというのが希望的な予定だったのですが、
曇りがちで日差しが足りない上、岬の商店街は5時にはシャッター通りとなっていて、予定変更を余儀なくされました。



5時半頃、出雲に戻り、1990年に廃止されたJR大社線の大社駅に立ち寄りました。
千鳥破風の瓦屋根を持つ神殿風な木造造りの旧駅舎は大正13年(1924)に建築され、国重要文化財に指定されています。
展示されているD51と共に懐かしさを誘われる佇まいを見せていました。



レンタルした車 Vitz

  

6時に出雲駅前の「出雲グリーン ホテル モーリス」にチェックインしました。
今回はネットで評価が高く、価格の安いビジネスホテルを選んだのですが、観光疲れを休めるには充分なホテルでした。


   

夕食もガイドブック頼みで、ホテルから近い「神在料理 わたなべ」へ行って名物の「神在膳」をいただきました。
玄武=出雲大社、朱雀=須佐神社、白虎=神西湖、青龍=荒神谷遺跡という意味を込めた2500円の経済価格のお膳で、
出雲ロマンを堪能した夜でした。




お料理人はかって京都、大阪で腕をふるい、TVの「料理の鉄人」にも選ばれた渡部洋二さんで、
郷里へ戻って開店したお店は5周年を迎えたそうです。

大国主命にいざなわれ、カーナビに助けられながら、盛り沢山な旅の初日が充足感と共に暮れていきました。



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