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2014・5・26
新宿〜小淵沢〜和田宿〜下諏訪〜諏訪大社下社〜聴泉閣かめや
                           

昨年来、国内旅のテーマとしている縄文と古事記の痕跡を求めて、諏訪・八ヶ岳の旅をしてきました。
5月末というベストシーズンを選んだ筈が天気予報はさえず、雨を覚悟のスタートとなりましたが、
今回の旅の道連れの学生時代の友人Y夫妻と、午前9時に「あずさ9号」で新宿を出発、曇りがちの車窓ながら、
田園風景が広がる頃から旅の気分が高まっていき、写真では判然しませんが、富士山を遠望することもできました。




旅の日程は先ず宿泊地を下諏訪と八ヶ岳とし、ジパング倶楽部とレンタカーの便宜を考えて小淵沢を発着点と決めました。
片道200kmに満たない駅は往復で買うというジパング・チケットは、
今年度から有効期限が2日間になったそうで、結果的には利用できないことが分かりましたが、
徳用な6枚つづりの回数券と上諏訪までのジパング利用チケットで、割安にチケットを入手することができました。

11時過ぎに小淵沢に到着し、予約していた駅前レンタカーでホンダ「FIT」を借りて、先ずは中央高速で岡谷ICを目指しました。
旅の1日目は岡谷ICから北へ23kmの和田宿へ行った後、下諏訪まで下り、諏訪大社下社を見学して「かめや」に宿泊、
2日目は片倉館、高島城に立ち寄りながら諏訪湖を南下、諏訪大社上社・神長官守矢資料館を見学した後、
茅野市の尖石遺跡に立ち寄り、八ケ岳高原を目指すというのが旅のおおよそのルートです。



岡谷ICを降りた後、長池トンネルと工事中で一方通行待機が長かった湖北トンネルを抜けて国道142号線に出ましたが、
その頃は、道のカーブまで「その先右へ」と気まぐれに?アナウンスするカーナビの癖に気が付かず、
小さな道を右折して林道に迷い込んでしまい、八島ケ原湿原のビジターセンターに着くという訳のわからないことになってしまいました。
2夫婦ともに八島ケ原湿原は以前訪れたことがありましたし、小雨も降っていましたので、散策はせず、
カーナビより確かなビジターセンターの方に教えていただいて、和田峠トンネル、新和田トンネルと山の深さを堪能しながら?
1時過ぎにようやく和田宿の入口にある蕎麦店「黒耀」に到着しました。
旅の最初の食事は近辺で栽培しているという韃靼そばとコゴミやコシアブラなどの野草天ぷらとなりました。
ルチンが多いことで注目を浴びている韃靼そばは黄色味と少々の苦みが特徴のようでした。



和田宿本陣御入門

歴史資料館「米屋鐵五郎」

「黒耀」を出発して、2時前に江戸の板橋宿から近江の守山宿まで中山道67宿の28宿にあたる和田宿に到着しました。
中山道随一の難所である和田峠を控えた和田宿は、江戸時代には宿場町として繁栄しましたが、過疎の時代を経て、
現在は江戸の町並みを復元し、歴史と自然を楽しむ「水と森と歴史のふる里」として、再開発プロジェクトが進められているようです。
この日は月曜日で本陣や歴史資料館、黒耀石石器資料館などは閉館であることが分かっていましたので、
建造物の外観を見て、かつての繁栄の様子を思い浮かべながら、町の中心を散策しました。

和田宿本陣は文久元年(1861)3月に大火で焼失後、同年11月の皇女和宮降嫁に備えて、ただちに再建されましたが、
明治維新後に宿場制度がなくなって本陣としての役割を終えると、
座敷棟は龍願寺、御入門は向陽院へ移築、居室棟は役場や農協事務所として利用されていたそうです。
その後、昭和59年の旧和田村役場の移転に伴って、解体の計画が持ち上がりましたが、
宿場町に残る数少ない本陣のひとつとしての評価が高まったことにより、平成元年の村制施行100周年を記念して、
居室棟、冠木門は旧位置に再建、御入門は既に開発されていた道路の関係で旧位置とは違う場所に、
移築した門の実測調査による復元図に基づいて再建し、国指定史跡となったという経緯を持っています。
座敷棟は敷地の関係で復元することが出来なかったそうですが、「米屋鐵五郎」は再開発プロジェクトのひとつとして、
問屋「米屋家」跡を改築し、歴史資料館と休憩所となっています。



信定寺

天文22年(1533)に武田信玄の信濃攻めの折に討死した和田城主大井信定の菩提を弔うために創建された信定寺が
和田城跡のある裏山の裾で、静かな佇まいを見せていました。
徳川時代には和田宿が例幣使日光参詣の宿場となり、京都二条殿祈願寺とされた信定寺には諸大名が参詣したと伝えられます。
山門を兼ねた2層の鐘楼に古趣が感じられました。




2時20分頃、和田宿を出発して、元来た道を戻りましたが、今度こそは最短距離で、と思う間もなく、
新和田トンネルではなく、再び、旧道の和田峠トンネルに向かっていることが分かりました。
これは「ルートを選ぶ」ボタンを選択しなかったため、カーナビが有料道路を避けたことをほどなく理解し、事のついでに、
行きには素通りした和田峠の東餅屋で車を降りて、標高1531mの峠越えの人馬の休憩所となっていたお茶屋跡に立ってみました。
鉄道の開設と共に寂れ、5軒のお茶屋が畳まれた後には、営業しているかどうかも不明なドライブインが1軒あるばかりでしたが、
黒曜石の産地として有名な和田峠に立って、縄文時代からの交易路に思いを馳せたひと時となりました。




石好きのYさんはドライブイン店内のコンテナ・ケースに山積みされた黒曜石にご執心でしたが、
人の気配もなく、荒れた建物のガラス窓越しに、ただ指をくわえて眺めている他はありませんでした。



下馬橋

手水舎

3時過ぎに下諏訪にある諏訪大社下社の春宮に到着しました。
駐車場を出て最初に目に入った下馬橋は、駕籠や馬から下乗下馬、身を清めるために御手洗川にかけられた屋根付きの太鼓橋で、
室町時代に鎌倉時代の様式で建てられ、1730年代に修築された下社で最も古い建物です。
社頭から春宮大門まで800mほど伸びる大門通りは、かつてはサワラの大木が繁り、武将たちが流鏑馬を競った馬場だったそうですが、
昭和39年に最後のサワラが枯れた後は昔の面影をなくし、古風な下馬橋がとってつけたように見える景観となっていました。



春宮の石鳥居(1659年建立)

神楽殿

全国1万有余社の諏訪神社の総本山とされる諏訪大社は、諏訪湖の南北に2社ずつ4か所に分かれて鎮座し、
御祭神は建御名方神(たけみなかた)、八坂刀売神(やさかとめ)、事代主神(ことしろぬし)とされています。
大国主命(おおくにぬしのみこと)の次男である建御名方神は古事記の神統譜に位置づけがなく、
国譲りの場面で唐突に出て来るために、後から挿入された神話とされていますが、
出雲から州羽(諏訪)に逃げた神が「立派な(たけ)水潟(みなかた)」という諏訪湖の神となった背後には、
出雲と諏訪のつながりや、ヤマト王権によって崩壊した日本海文化圏の歴史を読み取ることができ、興味の尽きない所です。
                               参考:「古事記を読みなおす」(三浦佑之著 ちくま新書)

諏訪大社の創建は不明ですが、神功皇后の三韓出兵(3C?)の折の御神威、持統天皇5年(691)の勅使派遣など、
古来より朝廷の崇敬が厚かったことが伝えられ、鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康など
歴代の将軍が武運を祈り、社領の寄進、神宝の奉納を行ったと言われています。
                              参考:「諏訪大社」「信濃國一之宮 諏訪大社 由緒略誌」(諏訪大社発行)

春宮の境内に入り、高さ8.2mの御影石の大鳥居を抜けた正面に神楽殿がありました。
1680年代に創建された神楽殿は大社の建物の中で最も修改築が多い建物で、昭和初年にも大改修がなされたそうです。



春宮社殿

幣拝殿

神楽殿の奥に安永9年(1780年)に芝宮長左衛門によって竣工された社殿が深い森に包まれて鎮座し、
二重楼門造りの幣拝殿、左右に片拝殿が並んだ姿が大社らしい堂々とした風格を見せていました。
4隅に建てられた高さ17m直径1mを超すモミの大木の御柱も独特の風情を添えています。



幣拝殿に施された見事な彫刻


筒粥殿

子安社

境内の左右に並ぶ摂末社の写真を撮っていると、「ここで大事なのはこちらですよ」と地元の方が教えて下さったのが、
下社の特殊神事のひとつ、筒粥神事が行われる筒粥殿でした。
毎年1月14日の夜から15日の早朝にかけて、神職が囲炉裏を囲み、米と小豆の粥の中に44本の葦筒を入れて、
43本で作物の豊凶、1本で世の中を占うという神事を行い、その神占の正確さは諏訪の七不思議のひとつとされています。
小さな社殿の中で神官達が釜を取り囲み、厳かな作法で行なう神占の結果は翌朝発表されるそうです。

子安社には建御名方神の母神とされる高志沼河比売命(こしのぬなかわひめのみこと)がお産の守り神として祀られていて、
水がつかえずに流れる底の抜けた柄杓が安産祈願として、また、安産のお礼として奉納されていました。

 

左側が浮島

浮島社

春宮を出て、「万治の石仏」に立ち寄って行こうとすると、先程の地元の方が、「こちらから行った方がよい」と案内して下さったのが、
境内の脇を流れる砥川の川中にある小さな島で、どんな大水でも島が流されないことが下社の七不思議のひとつとされ、
島の中に浮島社というお社を祀っているのが見られました。
諏訪地方では御柱大祭の後、同年の秋の終わりにかけて、多くの神社で御柱を立てる小宮の御柱というお祭りが続けられるそうで、
浮島社と同様に、こんなお社まで・・・という笑ってしまうような場面に何度も遭遇することとなりました。



岡本太郎書の「万治の石佛」碑

万治の石仏

    

岡本太郎や新田次郎が絶賛したことで有名になったと言われる「万治の石仏」は、
春宮に鳥居を作るためにノミを入れた所、血が流れ出したために驚いた石工が阿弥陀如来像を彫ったという伝説を持っていますが、
万治3年(1660)と彫られた年号は後付けではないかとも考えられています。
「いかにも岡本太郎さん好み」と白洲正子さんが評したと伝えられる石仏は、ゆったりとした大らかな佇まいに好感が持てました。



春宮で実物の御柱に出会った後は、やはり御柱祭の現場を見ようということになり、
来た道を2.8kmほど戻って、この日2度も前を素通りした「御柱祭 木落とし坂」へ行きました。

諏訪大社では宝殿の造営と上・下社4社殿に巨木を曳き建てる「式年造営御柱大祭」と呼ばれる神事が、
7年毎に一度、寅と申年に、諏訪地方の6市町村21万人の氏子の参加によって行われています。
なかでも起源が古代にさかのぼるといわれる御柱大祭は、
祭場の表示、本殿のない諏訪大社の本殿代わり、社殿建替えの代わり、神が降りる柱など、その意味には諸説あるようですが、
比類のない豪壮さによって全国的に有名な奇祭のひとつとされています。




旅気分に誘われて、看板を横目に御柱体験をした結果、ズボンが汚れてしまい、どっきりする一幕がありましたが、
はたけば大丈夫、何とか事無きを得ました。




上社本宮の展示写真

10トンを超す御柱は1000〜3000人で曳行されるそうですが、
100mほどの坂をすべり落とす時の恐怖は、上と下では互角だろうと思えた木落とし坂でした。
片隅に小さなお社がありましたが、ここにはミニ御柱など無意味ということかもしれません。



4時半に温泉地らしく龍の口からお湯が出る手水が置かれた下社秋宮に到着しました。
境内に入ると、先ず、青銅製では日本一の大きさを誇る高さ1.7mの清水多嘉示氏作の狛犬を両脇に従えた神楽殿が目に入ります。
台座の「忠・孝」の2文字は、戦争時に供出した狛犬を昭和35年に復元した時に寄進した間組社長の神部満之助氏の筆によるもので、
御柱祭毎に新しく奉製される大注連縄は出雲大社の神楽殿と並ぶ13mの長さを誇っています。



秋宮社殿

鹿島社 子安社 加茂上下社 八坂社

神楽殿の奥の社殿は、同じ絵図面によって建替えが行われたため、構造が全く同じ春宮と外見上の区別はつきませんが、
秋宮の方が規模は大きく、春宮に1年遅れて、安永10年(1781)に立川和四郎初代富棟によって落成したそうです。

春秋両宮には社殿の奥に神明造りの宝殿があり、2月1日と8月1日に御魂代を移す遷座祭が行われますので、
今回は春宮に遷座されている時期に訪れたことになりました。
本殿を持たない諏訪大社は、春宮はスギ、秋宮はイチイという宝殿奥の大木をご神木としていることにも特徴があり、
自然崇拝と現在多くの神社に見られる本殿祭祀の中間に位置付けられることでも重要な神社とされています。


 

春秋両宮の技が最も競われたのは彫刻だそうですが、技比べをする程の写真を持ち帰ることが出来ませんでしたので、
全く参考にならない画像で・・・。



春宮と秋宮では半年毎の遷座祭の他に、7年毎の式年造営御柱大祭の時に宝殿の新造営も行われますが、
伊勢神宮のように遷宮後すぐに古い社殿を取り壊すことはなく、常に2殿が並び建っていて、境内の一画で、
次の2016年の御柱大祭のために奉納された御用材が造営を待っていました。

ふたつ土盛りのある「神宮遥拝所」は、やはり伊勢神宮を指しているのでしょうか、
政治が見え隠れする一画と見受けられました。



神饌所で由緒などを入手していると、神楽殿に向かう神官の姿が見え、まもなく太鼓の音が聞こえて来ました。
それぞれが思わず見てしまった腕時計は4時40分を指し、時の音ではなく、何かのお勤めのようでした。


    
御神紋の「梶の葉」は足の数が上社4本、下社5本と区別されています。

秋宮を出て、この日最後の見学に、信玄の「諏訪法性兜」が見られるという下諏訪町立諏訪湖博物館へ寄りましたが、
ネット情報とは休館日が違っていたために入ることが出来ませんでした。



夕暮れの諏訪湖畔

5時過ぎにこの日の宿「聴泉閣かめや」に到着しました。
宿泊手続きのフロントで、本館ではなく新館の部屋にランクアップされたことと、貸切風呂のサービスが提示されましたが、
お風呂の方は「家族風呂?いらないよ」と即座にお断りして、笑いを呼ぶ場面がありました。
案内された新館の部屋は控えの間や脇の小部屋、檜風呂がついている広々とした和室でした。

「聴泉閣かめや」は、中山道で唯一温泉の出る下諏訪宿の本陣の建物の一部を旅館としていて、
皇女和宮、参勤交代の諸大名、5代〜14代将軍の歴代御台所の花嫁行列の寝所であった「上段の間」が残されています。



                                「聴泉閣かめや」HPより

林泉式庭園 和宮寝所を再現した「上段の間」
鳥居清信画 狩野安信画の杉戸

旅館として営業を始めた明治以降に、島崎藤村、芥川龍之介、与謝野鉄幹・晶子、宇野浩二、西條八十など
諸文豪を迎えた宿であることを示す展示室もあり、本陣の歴史の一端を垣間見ることが出来ました。


島崎藤村が愛用したと言われる「富士の間」

由緒ある旅館の大浴場の露天風呂で一日の疲れを休めた後、6時半から個室の食事処でゆっくりと夕食をいただき、
季節感を盛り込んだ諏訪の郷土料理の懐石膳に目も舌も充たされた夜となりました。


    

    

    

  


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