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18 Mar 2008
Petra〜Little Petra〜Jabal Nebo〜Madaba〜Amman〜Dubai 

7時半にホテルを出発、一路北上して、アンマン空港へ向かいました。
ホテルの周辺にはまだまだ多くの遺跡があるようで、車窓に岩窟墳墓らしきものが見えました。
右の象岩?は自然の造形のようです。



10分程、バスを走らせた所にベドウィン集落がありました。
1985年までペトラ遺跡の中に住んでいたベドウィン達をアパートを建てて移住させた地域で、
ここから徒歩で1時間、ロバで30分かけて、ペトラ遺跡まで観光仕事に出掛けて行くのだそうです。
3000人程が住んでいるそうで、集落の中にある学校へ向かう子供達の姿が見られました。


20分程で小ペトラと呼ばれるシーク・ル・バリドに到着

隊商宿
隊商宿のレセプション

小ペトラは350mの山道に岩を掘り出して作った遺跡群が残っている所で、
隊商宿やこの字型にベッドが配されたトリクリニウム、足洗い用水場、貯水池、
わずかにフレスコ画が残った葬儀場などを見ることが出来ました。
山頂には十字軍によって築かれた要塞があるようです。


早朝から開店していた土産物店

ベドウィン・テント


 

ヨルダンには「王の道」とその東を並行して走る「沙漠の道」の2本の主要な縦断道路がありますが、
古代都市が連なっていたという交易路キングス・ウェイの山道をしばらく走った後、
ショバックで右折して、デザート・ハイウェイに抜けました。
車窓にアカバまでリン酸塩を運ぶ列車が見えました。



一昨日寄ったカタラーナの死海製品のお店でトイレ休憩をしましたが、
スーツケースは飛行機に乗せるばかりになっていて荷物は増やしたくありませんので、
ヨルダンの観光ガイド・ブックだけ購入しました。


マダバの町

フランチェスコ会教会

ヨハネ・パウロ2世の記念碑


ベツレヘムまで50kmの標識
モーゼのモニュメント
死海、ヨルダン川、エリコなど西側風景 北側にアイン・ムーサ(モーゼの泉)を遠望

11時半頃、モーゼ終焉の地といわれる標高700mのネボ山に到着しました。

山頂入口に立っていたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が2000年に訪れたことを記念した大きな石碑には、
「UNUS DEUS PATER OMNIUM SUPER OMNES」(一つの神、万民の父が万民の上に)と書かれていました。
その先のフランチェスコ会教会を曲ると、カナンの地に行き着くことなくモーゼが没したといわれる地点に、
「モーゼが砂の中から大蛇を救い上げたごとく、人の子たちも救い出される。」という
フィレンツェのジャン・ポロ・ファントニ作の蛇と十字架のブロンズのモニュメントがありました。

残念ながら山頂は死海からの湿気によるガスの為に眺望が利きませんでしたが、
修復工事のため入れなかったフランチェスコ会教会脇の資料館の写真で、
Dead Seaの赤字の2枠上がネボ山、その2枠左がイエスの洗礼の場所、左下がエリコ
左最下段がエルサレムという位置関係を確認することが出来ました。


聖ジョージ教会

ネボ山を後にして、マダバへ戻り、世界最古のパレスチナ地図のある聖ジョージ教会へ行きました。
教会中央の祭壇の前の人だかりしている床にモザイクで描かれた地図がありました。
 入口にレプリカの全体地図が置かれていましたが、その中心部を右側の実物写真でご紹介しますと、
上の部分が船が浮かんだ死海から魚が逃げている?ヨルダン川、
ヨルダン川の下にエリコの町、中央の楕円形の部分が列柱通りのあるエルサレムで、
イスラムが入る以前のビザンティン時代の地図(AD560年作)であることが分かります。
エルサレムの右にはベツレヘムも見えています。
シナイ山やナイル川まで描いた素晴らしいモザイク地図は200万個以上のピースで作られているそうです。

1時前にマダバの町のレストランへ行って、最後のランチを取りました。 
バイキング形式でしたが、2週間馴染んだアラブ料理ともいよいよお別れで、
いつも同じだと思った前菜やケバブにも名残り惜しさを感じました。



 

マダバから北東に30kmほどのアンマンのクイーン・アリア国際空港に2時半に到着しました。
ここでチェックイン手続きをして、スーツケースの重量チェックも無事クリア、問題なく出国して、
ほっと一息入れながら、免税店でのんびり買物をしていると、
H添乗員さんと夫が慌てた様子でパスポートを取りに来て、再び出国ゲートへ走って行きました。
出国ゲートに荷物や洋服を忘れて来た人がいるとあきれ顔をしていた張本人の夫が
手荷物検査のカゴにカメラを忘れて来たらしいのです。
3人とも忘れ物は手元に戻って来ましたが、検査員に嫌味を言われながら、
何度も出国してしまった?H添乗員さんこそ迷惑千万というものでした。
手荷物はコンパクトにまとめ、手にいろいろと持たないこと!が今回の教訓のようです。

アンマンを4時半に出発、3時間足らずで夜9時過ぎに(時差2時間)ドバイ空港に着きました。



ドバイ空港での待ち時間は5時間余りで、関空行きの便は午前2時50分発でした。
北海道のH夫妻が中部空港行きに乗られるので、ここでH添乗員さんの終りのご挨拶がありました。
広い空港の免税店を覗いたり、ベンチでH添乗員さん作のおむすびをいただいたり、
何とか5時間を凌ぎましたが、夜中のアラブの空港はベンチを独り占めして横になったり、
床にそのまま寝転がる人が至る所にいて、あまり快適な環境ではありませんでした。
そんな中、中部空港行きが6時間遅れるというニュースが入り、みんなでH夫妻に同情したものでした。
右は帽子からスカーフをたらしたユニークな制服のエミレーツ航空のキャビン・スタッフの写真です。



19 Mar 2008
Dubai〜Kansai〜Haneda

ドバイ空港を定刻を少し過ぎて出発、帰りは9時間足らずで関西空港に到着しました。
時差が5時間で、日本時間では夕方の5時前到着となりましたが、
着陸1時間余り前に出された機内食は、頭もお腹もこんがらがって、昼食か夕食かも分かりませんが、
野菜や魚の煮物が日本に近付いたことを教えてくれるようでした。

関西空港に降り立ち、帰国した安心感からか、又しても夫がトイレにパスポート、
荷物検査カゴに時計を忘れて、1人で走り回って、機内での運動不足を解消していました?
(・・・と笑うしかないようなボケ振りでした。)

スーツケースを宅配に託して、羽田行きのチェックインをしようとしたら、
機材変更の為、2時間出発が遅れるということで、1000円の食事券が配られました。
それではと先ず、旅仲間が大挙して大阪の有名な「551蓬莱」の肉まんを買ってから、
それぞれ好みのお店へ夕食に行きましたが、
私達が天ざるうどんを頂いた「杵屋」が最も多数派だったかもしれません。

8時25分に関空を飛び立ち、夕方から雨になったという羽田に到着したのは9時半で、
2時間遅れるので迎えはいらないと言っておいたのですが、
「飛行機を見る」という頭になっていた2歳と5歳の孫娘と娘が車で迎えに来ていて、
1時間ほどで楽に帰宅することが出来ました。

古い文明の国への刺激に満ちた旅は、これから又、旅の続きがあるだろうという予感と共に
ひと先ずの幕を下ろしました。                  (08・5・22完)



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