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1 Sept 2007
Macka〜Sumela〜Giresun〜Samsun

泊まったHOTEL SUMELAとホテル最上階から見たマチカの町です。
山間の小さな町ですが、トラブゾンとスメラの中間に位置し、
スメラ僧院の門前町として観光客を見込んでいるようで、新しいホテルが次々と建設されていました。



この日は久し振りに出発が8時半と遅目でしたので、ゆっくりとホテルの周りを散歩しました。

ドーナッツ型のゴマパン、シミットはここでは買いませんでしたが、後で美味しいパンであることが分りました。
大きな袋にヘーゼルナッツを入れて売っているお店に、「ギュナイドゥン!(おはよう)」と入って行って、
ナッツを少しだけほしいんだけど、と身振り手振りで言うと、レジから出てきたお兄さんが、
これだけ?と2〜3回振り返りながら、スコップでビニール袋にナッツを入れてくれました。
右側写真の左下に見える袋を受け取って、いくら?と尋ねると、振った手を胸に当てた後、
どうぞというジェスチャーを見せてくれましたので、
うわぁ、うれしい、ありがとう!と遠慮なく好意に甘えさせていただきました。
ちょっとした民芸品を買ったり、思いがけず、楽しい朝のショッピング散歩となりました。



 
聖母マリア川 スメラ僧院遠望

8時半にホテルをバスで出発、黒海に流れる聖母マリア川を車窓に見ながら山を25分程走った所で、
2台のワゴン車に乗り換えて、さらに10分足らず山を上りました。
スメラ僧院遠望のビューポイントで車を止めて、写真タイムが取られた時、
ついでにラズ人の運転手君の横顔も写真に撮らせていただきました。
何しろラズ人というのはギネスブックにのった人がいるという程、鼻の高さが有名なのだそうです。
因みに昨日のエルズレムはダダシュ人の町で、東トルコには少数民族がモザイクのように住んでいるようです。
車から降りて、10分ほど山道を歩いて登り、標高1200mのスメラ僧院に到着しました。



シガナ山(黒い山)の断崖に張り付いているようにしか見えなかったスメラ僧院ですが、
中に入ると聖堂、図書館や集会所、台所、寝室など、いろんな建物の集合体であることが分かります。
建物は6階建てで72室あるそうです。左側の写真には水道橋が写っています。

聖ルカが描いた聖母マリアのイコンの3枚のうちの1枚が奇跡によってアクロポリスから持ち込まれため、
ギリシア人修道士バルナバとソフロニウスが4世紀に聖堂を建てたのが僧院の始まりだと言われていますが、
現在見られる建物は13世紀のものだそうです。
  オスマン支配の時代にもギリシア系のキリスト教徒が住んでいたそうですが、
ギリシア・トルコ戦争の折に僧院の多くが破壊され、木造部分が焼失、その後、修復が重ねられているようです。
トルコが共和国になった後、ギリシア人修道士は政府の許可を得て、祖国のスメラ教会へ戻って行ったそうです。


聖堂
聖母子 聖母マリアの死

岩山を穿って作られた「黒い聖母マリア教会」と呼ばれる聖堂の外壁にはキリストの生涯、
内部には聖母マリアを中心とした9世紀以来のフレスコ画が残っていましたが、
下段左のマリアのご訪問、受胎告知の下の絵にみられるような落書きが随所にあり、
とても残念なことだと思われました。聖人の絵を飲み込むと病気が治るという言い伝えは
カッパドキア地方のことで、このあたりでは食べる人はいないそうですが・・・。

今回のツアーで見てきたアニのチグラネス・ホネンツ教会、アヤ・ソフィア聖堂などのように、
マリアを大きく描き、死の場面を入れるのが正教の特徴のようです。
鮮やかに修復されたフレスコ画にも共通したタッチが見られました。



ここスメラ僧院は重要な巡礼教会として、ロシアをはじめ近隣国から多くの信者が訪れるそうですが、
この日はアメリカ人と私達が外国からの観光客のようでした。
トルコ人の若い女性に「何で来ているの?」と英語で聞かれ、バカンス、ホリディ、観光と答えたのですが、
意味が通じないようでした。仕事のことかと思い直し、主婦とも答えてみましたが、
休暇、観光、主婦という概念を持たないのか、英語力のせいか、うまくコミュニケーションが出来ませんでした。
4世代の大家族で来ていた女性でしたが、トルコの第2外国語は英語のことが多く、
若い世代は英語になじんでいるようです。
ガイドのツゥレイさん(53歳)は40歳から学んだ日本語以外にイタリア語、スペイン語を話せるようですが、
英語は分らないようでした。



10時半に集合して、下山しました。途中でおじさんが演奏していたのはケメンチェという民族楽器です。
弦楽器の東西交流にも面白い歴史がありそうです。



下山途中の脇道と昼食を取ったレストラン近くのビューポイントからズームで撮ったスメラ僧院です。
遠目に見るとまるで城塞のように見えます。

「BC400年、ソクラテスの弟子でもあったギリシアの歴史家クセノフォンがペルシア王との戦いに敗れ、
生き残った一万の傭兵団を率いて黒海沿岸に脱出した時に通ったのが、この峠である。
ところが、ようやくトラペズス(トラブゾン)にたどりつこうというとき、ギリシアの傭兵たちはこの地で食べた
蜂蜜の毒にあたって七転八倒の苦しみを味わったという。」(「イスタンブールから船に乗って」澁澤幸子著)
というのがこのあたりの峠のことだそうです。
トルコ語に「デリ・バル(きちがい蜂蜜)」という言葉があり、黒海沿岸東部のツツジやシャクナゲの蜂蜜には
毒性を持つものがあるらしく、激しい吐き気と腹痛に襲われたそうですが、
数日後、回復した兵たちは、眼下に光る黒海を見て「タラッサ(海だ)!タラッサ」と狂喜し、
トラブゾンの町で穀物や肉やワインを略奪し、1ヶ月滞在したのだそうです。
現在も1歳未満の乳児には蜂蜜を与えない方がいいと言いますので、
蜂は蜜にも‘刺す’成分を加えている場合があるようですね。



炒りヘーゼルナッツと焼きとうもろこしを売っているお店でツゥレイさんが買ったヘーゼルナッツを食べながら、
ワゴン車でバス・パーキング場まで下山、11時過ぎからちょっと早目の昼食となりました。
「この旅行のランチは11時から3時までとすごいバラエティね。」とO添乗員さんをからかう1コマもありました。



 

昨日よりは洗練された盛りつけの鱒のフライ(トルコで初めて頭が左向きの魚に出会いました。)と
ライス・プディングかスイカのどちらかのデザートがランチ・メニューでした。
給仕のおじさんもラズ人で、しつこく横向き写真をとらせていただきました。



 

運転手ジョシクンさんがチャイを飲んで休んでいた所にバスの鍵を忘れるというハプニングもありましたが、
無事見つかって、1時に出発、西へ300kmあまり、一路サムスンへ向いました。

3時前に休憩をとったギレスンの沖合に古代にはアマゾネスの島と呼ばれた黒海唯一の島、
ギレスン島が見えました。
イアソンを乗せたアルゴー丸が黄金の羊毛皮を求めてコルキス王国(現在のグルジア)へ向った時、
この女人島に立ち寄ったとギリシア神話に書かれていますが、
これは紀元前12〜3世紀ごろ、黒海を貿易で航行中の船乗り達が、
羊毛を敷いて河川敷で砂金を採取していたコルキス人(ラズ人の祖先と言われます。)を見たことが伝承され、
神話となっていったのではないかと言われています。

ギレスンの古代名ケラススはギリシア語で桜の意味で、現在、ギレスンには桜の木はないそうですが、
澁澤さんは史実かどうかは疑わしいが、ローマ人がヨーロッパへ桜の種を持ち帰ったと書き、
ツゥレイさんは日本の桜もここから伝えられたのだと説明していました。



砂浜や岩場で海水浴を楽しむ人々の姿がたくさん見られました。岩陰でスカーフをして、長い衣服のまま
海の中に座っている女性も見ましたが、大体はイスラム圏であることを忘れる普通の海水浴風景でした。

小さな港が沢山あり、漁船や観光船のような船を見かけました。
ほとんど波もなく、湖のような黒海は、海の色、雰囲気がまさに名前通りで、
ちょっと寂しげな、落ち着いた色合いを見せていました。
流入する水が少なく、塩分も少ない内海であることが影響しているのでしょうか、
2日に1日は雨だと言われる黒海沿岸でも、晴天続きの私達の旅でしたが、
晴れていても陽の光や強さがとても穏やかでした。
地中海、エーゲ海からやって来た民には正しくポントス・エウキヌス(黒海)だったことが分かります。


黒海沿岸はヘーゼルナッツとお茶の産地ということで、
延々と続くヘーゼルナッツ畑や、収穫したヘーゼルナッツを道路や庭に広げている光景を度々見かけました。

4時頃、トルコで最も長いトンネル、オルド・ネフシェ・トンネルを通過しました。
長さ3820mのこのトンネルが昨年開通したことによって、U旅行社のこの東トルコ・ツアーも、
トラブゾン〜アンカラ間を飛行機で飛ばずに、陸路、サフランボルへ向かうようになったようです。
海沿いに快適な道路が続いていました。



4時半ごろ休憩を取ったファトゥサのレストランの庭では、結婚式の準備が進められていました。
夏季の週末は結婚シーズンのようです。
建物脇から海辺まで階段を下り、黒海にちょっと手を浸してみました。
澄み切った透明度の高い水ですが、割合暖かい感触でした。



 

6時過ぎにサムスンのホテルに到着、夕食まで1時間ほどありましたので、散歩に出掛けました。

アタチュルクが祖国を救うために決起、イスタンブールから船に乗って、上陸したのがこのサムスンで、
その独立戦争のはじまりの日、1919年5月19日は国民の祝日とされているそうです。
今まで見てきた中でもとりわけ立派なアタチュルクの騎馬像が公園の真ん中に立っていました。
台座のプレートは西歴とイスラム暦で表記されていました。

そこから港へ出てみましたが、都会的な大きな港の風景が広がっているだけで、
もう一度黒海の海岸に降りるという目論見はかないませんでした。



夕食はスープ・サラダとビーフ・ストロガノフとチョコレート・プディングでした。
右は部屋に掛かっていた絵ですが、都会の新しいホテルは食事も内装もヨーロッパ的になっているようです。

突然音が聞こえてびっくりした花火は、私達の部屋からは見えませんでしたが、結婚のお祝いだったようです。
そんな音も物ともせず、ひたすら早寝、早起きをして、バスで東トルコを駆け巡る日々も終盤に近付きました。


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