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2 Sept 2007
Samsun〜Safranbolu

HOTEL NORTH POINTから見たサムスンの6時40分頃の朝景色です。

トラブゾンと同じくBC700年代にイオニアのギリシア人の植民によって作られたサムスンは、
BC183年にポントス王国の支配下に入りましたが、
ポンペイウスとカエサルが対決しているすきにポントス王ファルケナス2世がローマに反逆し、
BC47年に敗退してしまいます。
この戦いの勝者ユリウス・カエサルが、サムスンから南へ100km程入ったジレの町から
元老院へ送ったのが「VENI VIDI VICI」(来た、見た、勝った)という有名な3語で始まる報告書ですが、
ポントス王国はアレクサンドリア戦役の時、ローマ支援軍としてカエサルのもとで敢闘した
ポントス王家血縁のミトリダテスに与えられ、ローマ同盟国として統治されたそうです。
その後、東ローマ帝国、トルコ支配の時代を通じて、サムスンは黒海の主要な貿易港として繁栄しました。



朝食後、昨日バスの中から見た魚市場まで散歩に行ってみましたが、7時半という早い時間で、
黒海で獲れたばかりのサバやイワシに似た青み魚がまだ運び込まれている所でした。
その後、港は昨夕見ましたので、町の方へ行ってみようと思ったのですが、
右端のおじさんが信号まで追いかけて来て、腕を叩きながら、しきりに港の方へ行くように勧めるので、
反対方向へは行けなくなり、又港へ行くことになってしまいました。
どうやら私達が魚に興味を持っていると思い、手で釣り上げている所を見たら?ということだったようです。
残念ながら、まだ釣果を上げている人はいませんでしたので、写真を撮って、ホテルの方へ戻りました。



ホテル近くの町の一角では衣料品市が開かれるようでした。日曜日休みの店舗前を利用した市でしょうか、
2人の息子が手伝うお店が1番早く店開きをしていました。



泊まったノース・ポイント・ホテルですが、右写真・ホテル裏側のエアコン室外機タワーが見事でした。
8時半にホテルを出発、黒海を離れ、農村地帯をバスを走らせて、サフランボルへ向かいました。



 
トウモロコシ畑? いちじく・りんご・桃 売店

サムスン出身の運転手ジョシクンさんにお父さん、弟さんが会いに来て、
刈り取りの進む大麦畑の側で、数分間の再会タイムがありました。
観光ハイシーズンでトルコ国内を走りまわっているジョシクンさんは、妻子の待つ自宅(アンカラ?)にも
2ヶ月近く帰っていないのだそうです。因みに運転手さんの平均月収は4〜5万円とか・・・。



お湯を沸かすサモワールを売る店が続いた後、立ち寄った休憩所でサモワールでチャイを入れていましたが、
「面白いよ、来て!」と呼びに来た夫について行くと、Wさんがサモワールを購入した所でした。
抱きかかえる程の大きさのものをどうやって持って帰るかがみんなの興味の的でしたが、
手荷物で機内に持ち込み、無事帰国されたようです。
Wさん資料によると、お茶がマカオ→ポルトガル経由で伝播した国はチャ、チャイ、
アモイ→オランダ・イギリス経由で伝わった国ではティ、テと呼ばれるようになったようです。
コーヒーで有名なトルコですが、どちらかというとチャイの方が多く飲まれているように見受けられました。


ビート畑とお店

ビート畑が続くとビート店、水田が続くとお米のお店が現れるというとても分りやすいトルコの車窓風景でした。
これ程確かな産地直売はありませんね。



 

11時半にオスマンジックのドライブインで昼食をとりました。
トレイを持って好きなお料理を選ぶというセルフ・サービス・レストランでしたが、
サラダとメイン1品とデザートの3品を旅行社が支払ってくれることに決まっていたようで、
スープを指さすと、「ノー」と言われてしまいました。
この時、私のテーブルの側を通ったOさんに「全部は食べないでしょ?1個ちょうだいね。」と
つくね揚げのようなものを1個くすねられて?しまいました。
その通りですからいいんですけど、0さんは確かお腹の調子が悪かった筈では・・・・?
黄色く色付いた田んぼが広がった道路沿いのドライブインでの一コマでした。



 

お米所として有名なトセを過ぎると、グズルルマック川という土色の川が車窓に見えました。
このあたりは陶器生産の粘土の産地で、川はいつもこのような色をしているのだそうです。

2時過ぎトイレ休憩の後、山越えをして、4時過ぎにサフランボルに到着しました。



 
ムフィデさん宅

天井
居室

黒海から80kmほど内陸の山間の盆地にあるサフランボルの旧市街は、
オスマン時代の家並みが残っていることにより、1994年に世界文化遺産に登録されています。
サフランボルにはBC3000年頃から人が住んでいたそうですが、
11世紀末のセルジュク時代から黒海と地中海をつなぐシルクロードの要衝として発展、
14〜17世紀のオスマン時代に最盛期を迎えましたが、
19世紀の鉄道網の発展に取り残され、結果的に、繁栄当時の景観が残されることになったようです。

小学校の庭にバスを止め、歩いて町の中心にあるムフディさんのお宅へ行きました。
レモンの香りのするコロンヤ(オーデコロン)やチャイのおもてなしを受けながら、
150年前の民家を拝見させていただきました。
個人客なら宿泊も受け入れている様子で、室内はきれいに整えられていました。
窓からジンジ・ハマムやカズダー・ジャミイ、レストラン風の建物が見えました。

この日の宿泊ホテルは2か所に分かれるということで、部屋分けがくじ引きで決められました。


HOTEL SELVILI T HOTEL SELVILI U
HOTEL SELVILI V

HOTEL SWLVILIは建物を3つ持っているホテルで、私達夫婦はVに泊まることになりました。

倉庫や家畜小屋として使った 石造りの1階の上に、木材の骨組をのせ、石や土を詰めて壁にして、
1階より張り出した居住部分を作るというのがトルコの伝統的な建築法のようです。
イスラム建築でよく見られるパティオを持たず、出窓があって、外に開かれた構造が、
遊牧民であったトルコ民族の開放性を表していると言われています。


ホテル・レセプション

客室
お風呂 2階ロビー

私達の部屋は小さめのベッドが3つ入ったかわいい部屋でした。
部屋毎にタイプが違うということで、「‘地球の歩き方’に出ていたタンス型のお風呂があるわよ。」という
T夫妻の部屋他、ひとつふたつ部屋を見学させていただきましたが、
部屋の大きさが違うだけで、基本的には同じような調度品が並べられていたようです。


歴史を伝える石畳 壁にサフランの絵
アラスタ・バザール

5時過ぎにホテルに入り、7時の夕食まで時間がありましたので、町歩きに出掛けました。
石畳の坂を下り、ジンジ・ハマムのある町の中心、ガズダールオウル広場に出ると、
広場一角の壁に町名の由来となったサフランの絵が描かれていました。
ボルは沢山という意味で、サフランの集積地として発展した町の歴史がうかがわれます。
アラスタ・バザールは地元の人々、観光客で大変賑わっていました。




帰り道にスルタンも好んだというトルコの伝統菓子ロクムをお土産に買いました。
ゆべしに似たコンスターチを使ったお菓子は日本人の口に合うようで、結構好評だったように思います。
ショーウィンドウに並んでいる瓶詰はもう1つの名物、バラのジャムですが、こちらは買って帰りませんでした。



ホテルへ戻っていると、2階から外を見ていた子供達があっという間に道路へ降りてきて、
並んでポーズを取ってくれました。いかにも観光地の子供達ですね。



 

夕食はUの方の庭でいただきました。
食事前にここでも部屋見学会をしましたが、郷愁のような懐かしさを覚える木造建築でした。
夕食はおかゆのようなお米のスープ、サラダ、キョフテ、スイカというメニューでしたが、
似たような食べ物でも、食器、クロス次第で、随分印象が違って美味しそうに見えるものですね。

部屋に戻って、寝ようとしたら、いきなり大きな音でアザーンが流れてきて、びっくりしました。
隣がモスク、しかもミナレットに最も近い部屋だったという点では私達はアンラッキーだったのかもしれません。


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