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22 Aug 2007
Adana〜Antakya〜Gaziantep
飲み物売り パン屋さん
正面奥が宿泊したBUYUK SURMELI HOTEL 観光案内所前

朝食後、ホテル周辺を少し歩いてみました。
若者たちが泡の立った飲み物を飲んでいましたので、「ビール?」と聞くと、
トルコ語で返事が返って来ましたが、後でガイドさんに聞けば分るだろうと聞き返さずにいたら、
「アイラン(ヨーグルト・ドリンク)やチェリーのジュースなどいろいろあります。
家庭で奥さんが手作りしたものを持って来ます。」とのことでした。
モロッコの観光水売り屋さんとは違い、固定客を持った商売なのかもしれません。
おいしさで定評のあるトルコのパン屋さんは朝から大賑わいを見せていました。

イスタンブール、アンカラ、イズミールに次ぐトルコ4番目の都市アダナは、
朝8時ともなると混み合ったミニバスが行き交い、しっかりと街が動き始めているようでした。
綿工業、農産物の集積地として有名な街だそうです。



 
           
   考古学博物館とシンボルマーク(ギリシア時代の蛇の腕輪)
ヒッタイト時代
ローマ時代
食器・装飾品・涙壺・家の飾りなど


中庭


博物館全景
後方はサバンジュ・モスク

ギリシア語で日の出の場所、トルコ語ではアナ(地母神)ドル(たくさん)を意味すると言われるアナトリアに
人類が住み始めたのはBC6000年頃、ヒッタイト人が最初の王国を築いたのがBC1800年頃と言われています。
その後、ペルシア、ギリシア、ローマ、ビザンチンの支配下に入った後、
11世紀に入ってモンゴル高原北方から中央アジアを超えてアナトリアへやって来た遊牧民族が樹立したのが
イスラム民族国家トルコの始まりです。

9時前にホテルを出発して、ヒッタイトからローマ時代の発掘品の数々が並ぶ考古学博物館へ行きました。
4000年の歴史に思いを馳せつつ、文明の高さに目を開かれる思いがしました。
アナトリアへ文字を伝えたのはアッシリア人でBC2000年頃のこと、などというガイドを聞きながら、
無味乾燥に思えた世界史の教科書にようやく現実感が伴った気がしました。
ローマ時代の将軍アキレスの石棺に彫られたインド文字‘卍’は東西交流の証しでしょうか。
6本のミナレットを持つ大きなモスクを出身地に寄贈したサバンジュさんはトルコ有数のお金持ちだそうです。


 
遠景はハドリアヌス帝が造った石橋 ユラン・カレ城
地中海 バー(?)

10時20分に博物館を出て、アンタクヤへ向かいました。
アスィ川を渡る時、ハドリアヌス帝が造ったという石橋を遠望することが出来ました。
イギリスに残る長城といい、ハドリアヌス帝は広大な帝国内を精力的に回り、
賢帝と呼ばれるに相応しい業績を残した皇帝だったようです。
遠くに見えたユラン・カレ城はビザンチン時代に基礎が作られた十字軍の城塞で、
中には教会や貯蔵庫などが残っているそうです。

大麦、小麦、トウモロコシなどの畑を車窓に見ながら1時間余り走ると右手に地中海が見えてきました。
トルコでは麦畑を焼畑にするため、時に火災を引き起こし、それが森林を無くす一因となっているようです。
そう言えばトルコやギリシアなど地中海沿岸の森林火災が時々ニュースになりますね。
(この時期に起きていたギリシアの山火事の原因は違うようですが・・・。)

3か月間夏休みのあるトルコでは、古くからバーと呼ばれる山の家で避暑生活をする習慣があり、
これは普通の庶民でも多くが持っている代々受け継がれるセカンド・ハウスだそうです。
「屋上がぶどう棚でおおわれている家がバーです。」と説明され、それらしき家を写してみましたが・・・?
ぶどう棚の下で寝たりするそうですが、雨が少なく、暑さ厳しい今年の夏はクーラーが爆発的に売れたようです。



 
レストラン CINAR ピデ(パン) ピデ・スープ・サラダ・アイラン
トマトと唐辛子のケバブ アダナ・ケバブ スイカと桃

アンタクヤ郊外の藤やぶどう棚が涼しげなレストランで昼食を取りました。
2人がかりで持ってきたヘビのような長〜いピデにはびっくりしましたが、自分の前の部分を少しずつちぎり、
焼き立てをおいしくいただきました。ケバブというのは焼くことを意味するお料理のようです。
唐辛子の辛味が最後に効いてきたり、スパイスたっぷりで辛いのが特徴の羊のひき肉のアダナ・ケバブなど
先ずは辛目のトルコ料理からスタートしました。



 
モザイク博物館
1〜5世紀のモザイク・コレクション
ヒッタイト時代のライオン門台座や石碑

2時前にアンタクヤのモザイク博物館に到着して、1時間ほど見学しました。
ローマ時代のモザイクは、ここ数年来の地中海沿いの旅で何度も出会い、目に新しくは感じませんでしたが、
今日初めて出会ったヒッタイト時代の発掘品は大らかな印象に心惹かれるものを感じました。



 
アタチュルク騎馬像と国旗が立つ街の中心 アンタクヤ市街地
聖ペテロ洞窟教会

アレクサンダー大王のディアドコイ(後継者)の一人であったセレウコスによって作られたアンタクヤは
シリア王国時代の首都、ローマ属州時代の州都の頃はアンティオキアと呼ばれたシルクロード終点の都市で、
第一次世界大戦後はフランス領シリアに属し、1939年にトルコに編入したハタイ県の県庁所在地です。
現存する4C半ばの古代地図ではローマ、コンスタンティノポリス(イスタンブール)、アンティオキアが
ローマ帝国3大都市として描かれているそうですが、
ペルシア軍侵入と地震で5Cに衰退を始め、7Cにはアラブの侵攻によって都市としての息の根を止められて、
今では古代の栄光をうかがうことが出来ないトルコの一地方都市という印象のアンティオキアでした。

市の中心からバスで10分ほどの山間にある聖ペテロ洞窟教会を訪れました。
ペテロが初めて説教を行ない、パウロが異邦人布教の拠点とし、マタイが聖書を執筆したと言われる
アンティオキアは初期キリスト教時代の重要な地で、この洞窟もルカの所有地であったと言われています。
ローマ教皇ピウス4世による1863年の入口ファサードの再建にはナポレオン3世が寄与し、
洞窟内のペテロ像が造られたのは1932年のことだそうです。
岩から浸み出した水は洗礼用としてまた病を癒す奇跡の水として信仰を集めたようです。
洗礼盤として使われた岩の窪みや、迫害の時代に逃げ道となったという洞穴も残されていました。
この洞窟教会は1963年にパウロ6世から聖地としての指定を受けています。
うちわ片手に説明をしているのは15日間のスルー・ガイドのツゥレイさんです。

ペテロから時代が下り、313年のミラノの勅令によってキリスト教は公認されましたが、
公認したコンスタンティヌス1世の甥にあたるユリアヌス帝が、
科学、宗教、通商の中心地として富と贅沢、享楽に満ちたこの都市で、
「ローマ帝国にギリシア古来の精神の秩序をもたらす」(「背教者ユリアヌス」辻邦生著)ために
悪戦苦闘を重ねた後、ペルシア戦役の為にメソポタミアへ向かったという歴史も残しています。



 
車窓風景
休憩したガソリン・スタンドの近くで ガズィアンテップ市内

再びバスに乗って、4時間近くバスを走らせ、ガズィアンテップへ向いました。
オリーブ、ぶどう、綿などの畑が次々と現れ、自給自足ができるという国情が納得できる車窓風景でした。

途中で休憩したガソリン・スタンド近くに野菜・果物を売る露店が並んでいましたので、
写真を撮らせてもらいに行くと、右端の男の子がぶどうを一房「どうぞ」という風に差し出しました。
お金を払おうとバッグに手をかけると、手を振るので、これが話に聞く‘旅行者に親切なトルコ人’かと、
ありがたくいただくことにしました。但し、大きな房は食べきれないので、5〜6粒だけにしましたけれど。
じゃがいもや玉ねぎは大きさによって袋の色を分けて売られていますが、1袋の量が半端ではなさそうでした。

7時20分ごろ、夕暮れのガズィアンテップに到着しました。
今日のチュジャン・ホテルも5つ星で、ロビーも広く、快適といっても良いホテルでした。


 

ホテルのレストランでの夕食は豆のスープとチキン料理でした。
デザートはガズィアンテップが本場というバクラバではなく、甘さでは引けをとらないケーキの3種盛りで、
どれもちょっとお味見程度で、食べ切ることは出来ませんでした。
イスラム圏とはいえ、アルコール類はかなりの町で大丈夫でしたが、
ホテルやレストランではビール小瓶5リラ(500円)と観光客値段?はかなり高めのようでした。


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