[ホーム][目次][P4

24 Aug 2007
Gaziantep〜Harran〜Urfa〜Kahta〜Karadut
ガズィアンテップのホテルの部屋から TUGCAN HOTEL ロビー
街路樹 戦勝記念碑

東南トルコの町々には屋根に太陽熱利用のタンクをのせた家が沢山ありました。
トルコで最も暑いといわれる地方のことですから、これは利用価値の高い設備だろうと思われます。
ホテルの窓からも赤いタンクやパネル状のソーラーシステムを載せた建物が見られました。

プラタナス、ニセアカシア、カエデ、菩提樹などの街路樹に石灰を塗って防虫をしていましたが、
これはモロッコの地中海側でも良く見られた光景で、同じような害虫がいるのかもしれません。

ガズィアンテップという街名のガズィは名誉の負傷をした人という意味のようで、
(ツゥレイさんによると適当な日本語が見つからないとのことでしたが、トルコ大使館は戦勝者と訳しています。)
フランスに対して独立戦争を戦ったアンテップにガズィの称号をつけたのが街名の由来のようです。
ホテル近くの公園に戦勝記念碑が立ち、トルコ語は読めませんでしたが、
アタチュルクの言葉を刻んだプレートがはめ込まれていました。



 
車窓風景
ピスタチオの実 ピスタチオ畑

8時半にホテルを出発し、東へ120km程のウルファへ向かいました。
小さな集落にも必ずと言っていいほどモスクがあり、ミナレット(塔)が独特の風景を作っていました。
陸屋根の土作りの住居、ロバに引かせる荷車などがトルコの典型的な農村風景のようです。


      

ハゲトキ(バードウォッチングの海外ツアー歴60回以上というT夫妻ご持参の図鑑から借用したのが
上の写真です。ハゲトキは黒い姿をしているようです。)が生息する
ビレジク川(ユーフラテス川支流?)を通過、ガソリン・スタンドで休憩を入れながら、
バスを走らせる途中、ピスタチオ畑が続く道路でドライバーのジョシクンさんがバスを止め、
写真タイムが取られました。
収穫が終わりに近づいた畑に僅かに残っていた実を写し、意気揚々と?引き揚げている時は、
マクロ写真がピンボケになっているとはつゆ知らず・・・・。


灌漑水路が張り巡らされた農地

ティグリス川・ユーフラテス川流域に潅漑システムと発電所を建設するというトルコ最大の国家プロジェクト、
南東アナトリア・プロジェクト(GAP)によって耕作地となったハラン平原には
綿を主体とした広大な農地が続いていました。
南東アナトリア平原へ水が送られた長さ26.4km直径7.62mのシャンル・ウルファ・トンネル・システムは、
農業経済の発展に大きく寄与した開発プロジェクトであったようです。

写真に収めることは出来ませんでしたが、東アナトリアから出稼ぎにきた家族がテント暮らしをしながら、
働いている姿を遠望したり、水路に飛び込んで水遊びをしている子供達を見かけました。


 
城塞 ウル・ジャミイ跡
とんがり屋根の家の集落 バスに駆け寄ってくる子供達

ウルファの街を通過して、先にその南方40km程に位置するハラン遺跡へ行きました。

BC5000年頃から人が住み始めたハランは、1932年に発掘されたマリ・テキストによると、
BC2000年頃の都市国家マリの都の一つであったそうですが、
セム族長老のテラがユーフラテス川下流のウルから家族を連れて、
この地にやって来たのはBC1900年頃だと言われています。
テラの息子アブラハム(人々の父の意)は、この地で亡くなった父テラを埋葬した後、
約束の地カナアンへ向けて出発したと旧約聖書には書かれています。

メソポタミアで信仰された月神シン神殿があり、キャラバン・サライとしても使われたという城塞や、
世界最古といわれるハラン大学があった辺り、モスクの壁とミナレットが残る8世紀のウル・ジャミイなど、
13世紀のモンゴル来襲で廃墟と化したハランにわずかに残る遺跡を見学しました。
旧約聖書、ヒッタイト、アッシリア史にも登場する古代オリエント文明の中心地は、
だだっ広いだけの砂の大地に見えましたが、発掘調査は今も続けられているようでした。

バスが到着すると、村の子供達が群がって来て、アクセサリーを売りつけようとしたり、
「マダーム、ボンボン?チョコレート?」と手を出したりしましたが、
「子供たちは、わっとばかりに車に突進し、開いていた窓から手を突っ込んで、サンドイッチや、フルーツや、
コーラの凄絶な争奪戦が始まった。」(「イスタンブール、時はゆるやかに」澁澤幸子著)などといった
2〜30年前の恐ろしい光景はなく、観光地によくいる人懐っこさと逞しさを合わせ持った子供達のようでした。
豊かな農業と観光収入によって、生活が向上したことの現れでしょうか。


観光用に開放している日干しレンガのとんがり屋根の家に立ち寄りました。
南イタリアにあるトゥルッロと呼ばれる建物とよく似たこの建築法は、
ササン朝ペルシア時代に始まり、アフガニスタン北部からイランにかけても見ることができ、
天井や壁に蓋付きの通気口、排気口が設けられた室内は、夏は涼しく、冬は暖かく暮らせるそうです。



何世代が住んでいるのか、赤ちゃんから足の不自由な老女まで、すぐには関係が把握できない大家族が
家を解放し、お土産物を売り、テント喫茶店を開いて、観光業を営んでいるようでした。
記念撮影をさせていただいた右端が12人の子供がいるというお母さんだと思われます。

その子供の中の一人がとんがり屋根ではない別棟にある自室をうれしそうに案内してくれましたが、
彼はもうとんがり屋根の下には住めない、住む気がないのかもしれませんね。
バスの車窓からは、家畜の糞を円盤状に固めた燃料を干していたり、伝統的な生活も垣間見られました。



 

ウルファに戻って、1時45分頃から昼食が始まりました。
豆のスープとサラダ、ひき肉と野菜を厚めの皮で包んで揚げたイチリ・キョフテ、ウルファ・ケバブ、
シュルクというケーキのランチ・メニューは、遅目の食事時間を補うかのようなボリュームで、
とても全部を食べることは出来ませんでした。



 
アブラハムゆかりのモスク
ヒッタイト時代から使われた城塞


メヴリディ・ハリル・モスク

古代名はウール、その後セレウコス1世祖国マケドニアの首都にならってエデッサと名付けた
ウルファ(正式名はシャンル・ウルファ)は、数々の文明が行き交った歴史を物語るかのように、
古さと新しさが渾然と入り混じり、混沌とした印象を与える街でした。
そういう街並みを車窓に見ながら、アブラハムゆかりのモスクがある聖なる魚の公園へ行きました。

ハリルル・ラフマン・モスクの前の聖なる池にはアッシリア王ニムルドがアブラハムを火刑に処しようとした時、
神が火を水に、薪を魚に変えたという伝説を持つ魚の子孫が?たくさん泳いでいました。
モスクの中のカーペットは1区画が1人分という便利そうな柄になっていました。

奥の方にあるメヴリディ・ハリル・モスクには、ニムルド王が幼児虐待を命じたため、
アブラハムが母の手で14年間守られたという洞窟がありました。
イスラム伝説ではアブラハム(イブラヒム)はこの洞窟内で生まれたことになっていて、
6人の預言者の1人とされるアブラハムの洞窟は、イスラムの重要な聖地のひとつとなっています。

ちょうど金曜日にあたり、多くの人出が予想されたモスク内でしたが、それ程の混雑もなく、
私達もスカーフをかぶり、長袖を着て、中に入りました。
礼拝の場を、失礼を承知でカメラに収めましたが、シャッターに振り返る人もいなくてほっとしました。



 
アタチュルク・ダム
車窓風景

4時前にウルファを出発、ネムルート山の近くの町、キャフタへ向かいました。
アダナを出発してから2日間は、文化圏としてはシリアに属するアラブ色の濃い場所を観光しましたが、
これからはいよいよ東部、クルド人の多い地方へと向かいます。

途中、GAP最大のプロジェクトで1992年に完成したユーフラテス川上流のアタチュルク・ダムに寄りました。
広さ817ku、水深162mのトルコ最大のダムは大きな経済効果をもたらすと同時に、
多くの遺跡を水没させたこと、乾燥地帯が湿地になったことによる新たな病気の発生、
ユーフラテス川下流域のイラク・シリアとの関係など様々な問題を残したことは確かなようです。

ダムが作り出した湖や、タバコや政府の許可で作っているケシ畑、石油の発掘機などを車窓に見ながら、
7時半頃、日の暮れたキャフタ近郊カラダットのホテルに到着しました。



 

到着が遅かったので、部屋に入らずに、そのまま建物の外のテラス席での夕食となりました。
ランチを取ったウルファの街はイスラム聖地のためアルコールはご法度でしたので、
冷たいビールをお供に食事をしながら、自己紹介の時間がもたれました。
今回は僻地とよんでもよい場所へのツアーとあって、旅のつわもの揃いの印象を受けました。
6〜70回のツアー経験、170カ国以上訪ねている、ヨーロッパの歴史は浅いからつまらない等々、
今までのツアーでは出会わなかったような方が揃っているようでした。



 

丸くなりかけた月、満天の星が美しい山の中のロッジ風のホテルの部屋は、
シャワーしかないのは予想していましたが、平屋建てで、このような頼りないカーテンでは外から丸見え・・・・。
電気をなるべくつけないで、洗面所の明かりで着替えを済ませ、
翌朝のホテル出発が早朝4時半ということもあり、さっさと寝てしまうことに決めました。

目次][P4