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カルスから東へ約50km、8時半ごろアニ遺跡に到着しました。
ビザンティンとササン朝ペルシアの抗争のはざまで、東トルコとロシア国境あたりに7世紀半ばに
アルメニア人によって築かれたのがバクラト朝ですが、その王国のアショット3世が
966年にカルス(グルジア語で門の意)から遷都して大きく発展したのがアニの都です。
セルジュク・トルコの支配下に入った11世紀後半以降も、東西交通の要衝の地として、
商業、文化の中心として繁栄を続けましたが、
チンギス・ハンやチムール軍勢が攻略、15世紀以降はオスマンの配下に入るという時代を経て、
19世紀末からは人々がカルスへ移住したり、20世紀初頭の地震によって建物が倒壊し、
段々と荒廃が進んでいったようです。
かっては堅固な2重の城壁に囲まれていたといわれる町には4つの門があり、
入口正面の壁上部にライオン像が彫られた「ライオン門」から遺跡の中に入りました。
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修復されていない城壁内部 |
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門を入ると、どこまでも広い丘陵地に建物がぽつんぽつんと点在しているのが見えました。
昨日降ったという大雨は、あっという間に大地に浸み込んだようで、足元はもうほとんど乾いていました。
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聖パトリック教会とハマム跡 |
アルパ川 |
落雷と地震で建物が半壊した聖パトリック教会の天井にはわずかにフレスコ画が残っていました。
その前で放牧している牛たちを見て、ツゥレイさんは「こんなことをやらせてはいけないのに。」と
腹を立てていましたが、人よりも牛を守る牧羊犬には「近付かないでください。」と言うだけでした。
手前のハマムはセルジュク時代のものだそうです。
遺跡の東・南・西側を取り囲んで流れるアルパ川はアルメニアとの国境となっています。
声が届きそうな距離ですが、現在は両国とも厳重な警備は行っていない様子でした。
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チグラネス・ホネンツ(聖グレゴリウス)教会 |
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アルパ川の東端の崖上にバジリカ様式で建てられたチグラネス・ホネンツ教会は、
12使徒や聖母マリアの死の場面のフレスコ画がかなり鮮明に残っていました。
13世紀建造と言われますから、グルジア人のタマラ女王時代(1184−1213)の教会でしょうか、
この時代はシルクロードの中継地として繁栄、人口10万人を擁し、1000軒の教会があったと言われています。
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次に遺跡の中で最も大きな建物、大聖堂へ行きました。
アルメニア教会の司教座が置かれたこのカテドラルは、アニ王朝最盛期にセムバート2世が着工、
ガギク1世が完成させた11世紀初頭の典型的なアルメニア建築と言われています。
中に入ると、天井ドームの屋根は抜け落ちて空が見え、セルジュク時代にモスクとして使われた内部には
教会の面影を残すものはほとんど残っていませんでした。
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モスク |
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続いてセルジュク時代の総督がアナトリアに初めて建てたと言われるモスクを見学しました。
眼下を流れるアルパ川沿いに橋の跡、その北側谷底近くに聖マリア修道院を遠望することが出来ました。
モスクの窓から乗り出して撮った写真は→→→
ただ湾曲したアルパ川とアルメニアの大地が広がっているだけでした。
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シルクロード |
倒壊したミナレット |
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キャラバン・サライ
シルクロードの中継点として栄えた都も、ルートが南へ移動した14世紀中頃からキャラバンが通らなくなり、
衰退を始めたようです。両側にお店が並び、賑わいを見せていたであろうシルクロードや、
教会を転用したキャラバン・サライを見学しました。
地震で倒壊したセルジュク時代のミナレットの内側には螺旋階段が残っていました。
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聖グレゴリオ(グルジア)教会 |
先住民洞穴住居 |
遠くに聖グレゴリオ教会や洞穴住居を見ながら、2時間の見学時間が終わりました。
段々汗ばむほど気温が上がって来た中、ただあっけらかんと広がる大地を歩いて回りましたが、
点在する崩れた遺跡に通商国家として栄えたアニの栄光が僅かに感じられ、とても深い印象を受けました。
かなり最近まで厳重な警備、撮影制限があったらしく、自由に観光できたことも幸いで、
国境の地で1000年余り紡がれた来た歴史を肌で感じたひと時でした。
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