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30 Aug 2007
Kars〜Ani〜Erzurum

朝7時半の出発前にホテルの周りを散歩すると、セーターを着ていても寒い程の外気温でした。
このあたりはトルコで最も寒い地方らしく、橋の歩道に雪よけの(多分・・・)屋根が付いていました。
ホテルの駐車場にガズィ大学のスクール・バスが止まっているのが見えましたが、
学生達に会うことは出来ませんでした。

この日、8月30日はケマル・パシャ(後のアタチュルク)が率いるトルコ軍がギリシアに勝利した日で、
独立記念日のお祝いに装甲車などが参集している様子が車窓に見られました。
トルコ人がギリシアに入国する時のビザがこの8月25日から不要になったというニュースも聞きましたが、
1922年に戦争が終結した後も、長い間、両国に確執があったことが窺われます。

28日に行われた大統領選で建国の父ケマル・アタチュルク以来、11代目の大統領になったばかりの
親イスラム政党AKP(公正発展党)のアブドラ・ギュル氏の夫人はスカーフ派のため、
スカーフを禁じたアタチュルクの精神に反するということで、
アンカラで行われた「勝利の日」記念式典には招待されなかったそうで、
軍幹部が揃って夫人同伴の中、大統領は1人で出席する異例の事態となったようです。
世俗主義を国是とする西洋的エリート層からイスラム派の大統領へと政権が移ったトルコは、
イスラムへの傾斜の可能性を持ちつつ、EU加盟、親米路線も求めていくという
歴史的な転換期を迎えたと見られています。
「アメリカのちから、トルコにあります。」というガイドのツゥレイさんはEU加盟には反対意見のようでした。



ほとんどが牧畜業だというこの地方は大麦・小麦の刈り取りが終わりに近づき、
秋の気配が少しだけ漂い始めているようでした。
このあたりはチーズや蜂蜜で有名だそうですが、1泊しただけで、確認することは出来ませんでした。
右の写真は蜂蜜を取っている所ですが、この地方だけではなく、トルコ北東部では、
このような小箱が並べられているのをよく見かけました。


 

カルスから東へ約50km、8時半ごろアニ遺跡に到着しました。
ビザンティンとササン朝ペルシアの抗争のはざまで、東トルコとロシア国境あたりに7世紀半ばに
アルメニア人によって築かれたのがバクラト朝ですが、その王国のアショット3世が
966年にカルス(グルジア語で門の意)から遷都して大きく発展したのがアニの都です。
セルジュク・トルコの支配下に入った11世紀後半以降も、東西交通の要衝の地として、
商業、文化の中心として繁栄を続けましたが、
チンギス・ハンやチムール軍勢が攻略、15世紀以降はオスマンの配下に入るという時代を経て、
19世紀末からは人々がカルスへ移住したり、20世紀初頭の地震によって建物が倒壊し、
段々と荒廃が進んでいったようです。




かっては堅固な2重の城壁に囲まれていたといわれる町には4つの門があり、
入口正面の壁上部にライオン像が彫られた「ライオン門」から遺跡の中に入りました。


修復されていない城壁内部

門を入ると、どこまでも広い丘陵地に建物がぽつんぽつんと点在しているのが見えました。
昨日降ったという大雨は、あっという間に大地に浸み込んだようで、足元はもうほとんど乾いていました。


聖パトリック教会とハマム跡 アルパ川

落雷と地震で建物が半壊した聖パトリック教会の天井にはわずかにフレスコ画が残っていました。
その前で放牧している牛たちを見て、ツゥレイさんは「こんなことをやらせてはいけないのに。」と
腹を立てていましたが、人よりも牛を守る牧羊犬には「近付かないでください。」と言うだけでした。
手前のハマムはセルジュク時代のものだそうです。

遺跡の東・南・西側を取り囲んで流れるアルパ川はアルメニアとの国境となっています。
声が届きそうな距離ですが、現在は両国とも厳重な警備は行っていない様子でした。

チグラネス・ホネンツ(聖グレゴリウス)教会

アルパ川の東端の崖上にバジリカ様式で建てられたチグラネス・ホネンツ教会は、
12使徒や聖母マリアの死の場面のフレスコ画がかなり鮮明に残っていました。
13世紀建造と言われますから、グルジア人のタマラ女王時代(1184−1213)の教会でしょうか、
この時代はシルクロードの中継地として繁栄、人口10万人を擁し、1000軒の教会があったと言われています。



次に遺跡の中で最も大きな建物、大聖堂へ行きました。
アルメニア教会の司教座が置かれたこのカテドラルは、アニ王朝最盛期にセムバート2世が着工、
ガギク1世が完成させた11世紀初頭の典型的なアルメニア建築と言われています。
中に入ると、天井ドームの屋根は抜け落ちて空が見え、セルジュク時代にモスクとして使われた内部には
教会の面影を残すものはほとんど残っていませんでした。


モスク

続いてセルジュク時代の総督がアナトリアに初めて建てたと言われるモスクを見学しました。
眼下を流れるアルパ川沿いに橋の跡、その北側谷底近くに聖マリア修道院を遠望することが出来ました。
モスクの窓から乗り出して撮った写真は→→→
ただ湾曲したアルパ川とアルメニアの大地が広がっているだけでした。


シルクロード 倒壊したミナレット
キャラバン・サライ

シルクロードの中継点として栄えた都も、ルートが南へ移動した14世紀中頃からキャラバンが通らなくなり、
衰退を始めたようです。両側にお店が並び、賑わいを見せていたであろうシルクロードや、
教会を転用したキャラバン・サライを見学しました。
地震で倒壊したセルジュク時代のミナレットの内側には螺旋階段が残っていました。


聖グレゴリオ(グルジア)教会 先住民洞穴住居

遠くに聖グレゴリオ教会や洞穴住居を見ながら、2時間の見学時間が終わりました。
段々汗ばむほど気温が上がって来た中、ただあっけらかんと広がる大地を歩いて回りましたが、
点在する崩れた遺跡に通商国家として栄えたアニの栄光が僅かに感じられ、とても深い印象を受けました。
かなり最近まで厳重な警備、撮影制限があったらしく、自由に観光できたことも幸いで、
国境の地で1000年余り紡がれた来た歴史を肌で感じたひと時でした。



 

10時半にアニ遺跡を出発、エルズレムへ向かいました。
途中、バスを止めて、黒曜石拾いをしました。堅くて、宝飾品加工などに向かない黒曜石は、
ヒッタイト時代には武器として使われていたそうで、ガラスのような鋭い断面を見せているものもありました。
Wさんから届いた資料によると、既に新石器時代(BC8500〜7000)の古代メソポタミアで、
黒曜石の交易が見られたことが遺跡の発掘によって確かめられているそうです。



BC1800年頃のヒッタイト時代に鉄の生産のために膨大な木材資源を使いながら植林を怠ったことが、
アナトリア地方の環境破壊につながったという説を読んだことがありますが、
それを思い出させる荒涼とした景色の連なりも見られました。



日本語の挨拶を覚えたり、という社交性はあまり見受けられませんでしたが、
毎日バスを清掃し、安全運転に勤めて下さった(実は、ちょっと短気な部分も・・・?大体においてトルコは
歩行者優先ではなく、気短かなドライバーが多いようです。)運転手のジョシクンさんが、
最も慎重に運転したのはアスファルト道路工事をしている場所で、
アスファルト車を追い越すまでは、車にアスファルトを巻きあげないように、最徐行で進みました。
通行止めにしないでアスファルトを敷くなどとは日本ではあり得ない作業風景ですけれど・・・・。


成田東トルコのカッパドキア?

2時頃、アラス川にかかる13世紀、セルジュク時代の長さ220mのチョバンデデ橋でひと休みをしました。
アラス川は黒海近くの湖に流入しているのだそうです。
そういえば、この地方の人々は固まりやすい羊のしっぽの油を食用として使うために
平均寿命が短いという話も聞きました。チョバンデデというのは羊飼いのおじいさんという意味だそうですが、
‘おじいさん’とは何歳くらいなのでしょうか・・・・。


 

3時にエルズレムに到着して、チャグケバブ店(炭火のドネルケバブ?)で遅いランチをいただきました。
ラワシュというパンとサラダ、ハンドルのついた金串に刺した羊のケバブと焼き唐辛子、
カタイフドルマというデザートが出ました。

こういう食事のせいでしょうか、トルコの女性は堂々とした体格になるのが早い感じを受けました。
(外でチャイを飲みながらおしゃべりをしている男性はそれ程でもないことが多いのですが・・・。)
隣の席で食事をしていた家族も、4歳の女の子がいる所をみると、まだ結構若そうなお母さんです。
トルコで出会った家族連れのお母さんの多くが何ともいえない柔和な笑顔を見せてくれたことも印象的でした。

お店の外で写真を撮ろうとしたら、国旗を拡げるようにと外野から指示が入りました。
刈り取った毛をそのまま売っている羊毛店、スイカのように大きなキャベツを売る八百屋さんなども国旗を掲げて、
「勝利の日」をお祝いしていました。



 
ヤクティエ神学校

徒歩見学の最初にイルハーン王朝の将軍、ジェマレッティン・ヤクートが1310年に建てた神学校へ行きました。
網目模様が美しいミナレットは、4本の中、1本しか残っていませんでした。
ライオンや鷲の彫刻が施された正面入り口から中へ入ると、ミフラーブなどは残っていましたが、
現在は民族博物館となっていて、武器や衣装、コイン、生活用品などが展示されていました。
下の右側の高下駄のようなサンダルはハマム(浴場)用ですが、繊細な細工が施されています。



ヤクティエ神学校から程近い、現在は市場となっているリュステム・パシャ・キャラバンサライへ行きました。



黒玉(ジェット)が並んだお店を見た途端、澁澤幸子さんが(「イスタンブールから船に乗って」)
ここで数珠を購入というお話を思い出し、私も1本買うことにしました。
黒玉というのは樹木の幹が水中で化石となったもので、琥珀のような樹脂ではないそうですが、
軽くて、メタリックな艶と、値段の安さが魅力的でした。
もう一つ、博物館でみたものと同じ三角形のペンダント・トップを買いました。
銀製品ははかりで測って重さで値段を決める所が珍しい光景でした。
続いてEさんも「家内へのお土産に。」と同じチューリップ柄のペンダント・トップを買われましたが、
奥様ご希望のトルコ石でなくて大丈夫だったのでしょうか・・・?



次に1253年建造のチフレ・ミナレ(2つの塔の意)神学校へ行きました。
トルコ最大と言われる神学校の内部は、現在は本屋マーケットなどに使われているようですが、
この日は中に入ることが出来ませんでした。
とてもユニークな外観ですが、入口の鍾乳石飾りや植物文様の彫刻にイスラムらしさが見られました。



エルズレムはコンヤと並ぶ宗教的な町と言われ、スカーフをかぶり、長いコートを着た女性の姿が
他の町よりも多く見られる印象を受けました。
右側の黒ずくめの人達は(イラン又はシリア人のようです。)写真を拒否しながら通り過ぎて行きましたが、
よく見ると、右端の若い女性は後姿を撮るのを見越したように振り返って、笑っています。
彼女が一家の中心になる頃には、違ったライフ・スタイルになるのかもしれないと思われた光景でした。



この日最後に寄ったのが、3つの霊廟、ユチュ・キュンベットです。
お馴染みになった円錐形の墳墓ですが、最も大きいものが12Cの町の支配者、エミール・サルトゥクのもの、
と言われている他は持ち主が分っていないのだそうです。
ここも外観だけを見て、近寄って来る子供達と写真を撮って、この日の観光を終えました。

バスに乗って、町外れのパランドケン・スキー場のトルコ有数の実業家が経営するというリゾート・ホテル、
ポラット・ホテルに6時に到着しました。
食事はバイキング形式でしたので、写真を撮りませんでしたが、
今回のツアー仲間にカスタード・プディングのファンが意外に多いことを発見した夜でした。

食後、地下のハマムへ数名が出掛けましたが、伝統的なものではなく、
サウナのような感じだということでしたので、興味が湧かず、
早寝をして、連日の早朝出発の疲れを休めることにしました。


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