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20 Sept.2015
 Khiva~Urganch~Bukhara
オタ・ダルヴァザ(西門) HOTEL Marika-Khiva

ヒワで迎えた旅の三日目の朝は日の出を見に行くというプログラムがあり、ホテルのロビーに6時10分に集合しました。
イルミネーションされた西門の左手にシルエットで見える見張り台、アクシェイフ・ハバから旧市街に昇る朝日を見る予定だったのですが、
鍵を持っているお婆さんが入院中ということで、代わりに城壁の外側のホテル・マリカ・ヒワの展望台へ行きました。


左端が見張り台アクシェイフ・ハバ イチャン・カラ(内城)外側の民家

6時半から20分ほど展望台から見守った東の空は、雲に覆われたままで、ついに太陽は姿を見せてくれませんでした。
絵に描いたような朝日が昇って来たら、アクシェイフ・ハバを恨めしく眺めるばかりだったかもしれませんので、
これで良かったのかも・・・という思いも残っています。



イチャン・カラ方面のパノラマ

    
       ホテル・マリカ・ヒワの展望台の階段                             左手の建物が展望台

HAYAT INN HOTEL 寝坊な太陽と遊ぶ

7時10分にホテルへ戻った頃、太陽がまぶしい程に輝き始めました。
城壁の方を振り返ると、長く伸びた自分たちの影を撮っている4人のツアー・メイト達のシルエットが面白く浮かび上がっていました。


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影のお一人から写真が届きました。これは撮りたくなる図ですね!
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ホテルの朝食はソーセージ、チーズ、卵料理、トマト・キュウリなど生野菜、ブドウ、メロン、リンゴ、桃などの果物が並び、
容器や盛り付け方に違いはあっても、ヨーロッパなどの国とさほど変わらないラインナップでした。
昨夜は到着が遅く、朝が早かったこの日は朝食後に休憩を取り、10時バッゲージアウト、10時半出発というゆっくり日程になっていました。



ヒワの町は全長6kmのディシャン・カラ(外側の城壁)と高さ8m、厚さ6m、全長2.2kmのイチャン・カラ(内側の城壁)が2重に取り囲み、
イチャン・カラには宮殿、メドレセ、モスク、廟があり、内城とデシャン・カラの間には商工業者、農民など庶民が住んでいたそうです。
東西400m、南北650mのイチャン・カラ旧市街は、1990年にウズベキスタンで最初にユネスコ世界遺産の指定を受けています。

私達が宿泊したハヤット・イン・ホテルはその二つの城壁の間、庶民地域にあり、周りは民家ばかりというロケーションでしたが、
イチャン・カラ西門まで徒歩10分の距離ですし、古いホテルの趣きはないものの、設備などに「発展途上」のストレスはなく過ごせました。


イチャン・カラ城壁 男子会

すっかり太陽が高くなり、年間300日晴れというホレズム(=太陽の国)らしい日差しの中、10時半過ぎにイチャン・カラへ向かいました。

タシケントから西へ約750km、キジルクム砂漠とカラクム砂漠に囲まれたアムダリア下流のホレズム地方には、
アムダリアの流れと変化を共にしながら栄枯盛衰を繰り返した古代王国があったことが1940年代以来の調査で分かっているそうです。
ノアの大洪水の後、砂漠を旅するノアの息子シンが井戸を掘ることを命じると、
豊かで新鮮な水が湧きだし、「ヘイワク(=穏やかな)の井戸」と人々から名付けられたことが地名の由来とされる伝説を持つヒワも
ホレズムの社会の基礎が造られたBC4~3Cに遡る歴史があると考えられています。
その後、隊商の道、シルクロードの中継の町として存続したヒワは、アムダリアが流路を変えたことによって、
17C初めにホレズム国王アラブ・ムハメッドがクフナ・ウルゲンチから遷都、ヒワ・ハン国の首都となって以来、繁栄を極めて行きました。

古来の風習で戦死した兵士の骨が埋め込まれ、時に姿を見せる骨が「死んでも外敵から国を守っている」と信じられた城壁も役目を終え、
すっかり美しく修復されて、観光客としては気楽な反面、塗り込められた歴史を実感することが難しい長閑な風景でした。




西門の近くに、日本は北陸あたりにOSAKAとプロットされたシルクロードの大きな地図や
9Cにアッバース朝7代カリフ・マームーンの元で数学、天文学、地理学など様々な分野に才能を発揮したホレズム生まれの
ムハンマド・アル・ホレズミ(=アル・フワーリズミー)の像がありました。



高所と小さい子供好きのじじ

    

西門で入場手続きなどしている間の(旅行代金に含まれた入場料+写真撮影料8000スム)スナップ写真のあれこれです。
左の民族衣装を着た若い女性はW旅行社が企画した写真モデルの20歳のモヒラさんで、
中写真の左手が朝日見物に上り損ねた見張り台、アクシェイフ・ハバです。




1920年にロシア軍によって破壊、1975年に修復されたイチャン・カラ正門の西門(地図では下側)を入ると、
イチャン・カラ城内の大きなタイル製の地図が壁に貼ってありました。
イチャン・カラには20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットが残されていますが、
それらの建造物は1220年にモンゴルに破壊された後、①ホレズムが復興に向かった時期 ②ウズベク族が支配した16~7Cの繁栄期
③1740年にペルシアのナーディル・シャーが破壊した後の復興期と大きく3時代に分類されるそうです。

西門オタ(=父)・ダルヴァザから東門パルヴァン(=権力者)・ダルヴァザへ向けた400mほどのメインストリート周辺が観光の中心で、
北門バフチャ(=庭)・ダルヴァザはウルゲンチ、南門タシュ(=石)・ダルヴァザはカラクム砂漠へと開かれています。


           
ムハンマド・アミン・ハン・メドレセ                   カルタ・ミナル 

西門のすぐ右手にムハンマド・アミン・バハドゥール(在位:1846-1855)が建設を命じ、1852年に完成した中央アジア最大のメドレセ、
敷地面積1300坪に及ぶムハンマド・アミン・ハン・メドレセがあり、盛時には100人の神学生を収容していましたが、
ロシアの宗教政策によって廃校となり、1977年よりホテルとして使われています。
メドレセと同じ年に着工したのがカルタ(=短い)・ミナルと呼ばれるミナレットで、基部直径14.2m、高さ26mで中断していますが、
完成すれば70~80mほどになったと推定されています。
工事が中断した理由は、ブハラを見張るために造っていることを知ったブハラ国王が職人を買収して工事を妨害した、
それを怒ったアミン・ハンが買収された職人を殺害した、ヒワのハーレムまで丸見えになることが分かったなど諸説ありますが、
1855年にペルシアとの戦いでアミン・ハンが死去したためということが真相に近い理由のようです。

F添乗員さんと共に キョフナ・アルク城門

後方にカルタ・ミナルの全景が写っているF添乗員さんと写した写真には世界遺産の建造物をお土産物売り場にしている様子が覗えますが、
イチャン・カラへ入って15分ほどしか経っていない私の左手にも、既に、若い女の子から売り込まれたガイドブックが見えています。

  

1ドル紙幣が1枚しかなく、12ドルを11ドルにしてもらって買ったガイドブックですが、
「7ドルまで下がったけれど、5ドルにならなかったから買わなかった」と今回の旅仲間最年少の海外一人旅好きのMさんから聞いて、
完敗・・・・!の初買物となりました。
けれども中身も確かめなかった割にはよくできたガイドブックで、日本語訳は難解ながら、印刷がきれいですし、
古い写真や高アングル写真が駆け足観光の物足りなさを補ってくれています。

18Cの舞台→映像コーナー? 公式謁見室

・・・と話が少し逸れてしまいましたが、キョフナ・アルク(=古い宮殿)の観光へ戻ることにしましょう。

タシュ・ハウリ(新宮殿)が出来てから、古いと呼ばれるようになったキョフナ・アルクは
17Cにムハンマド・アラング(在位:1687-1688)によって建てられた139X93mの広大な宮殿で、
歴代ハンのモスク、公邸、謁見の間、最高裁判所、ハーレム、兵器庫、火薬庫、造幣局、牢獄などが揃ったヒワ・ハン国の中枢で、
18Cの終わりまでは高い城壁に囲まれ、「都市の中の都市」と呼ばれていたそうです。

17Cに建てられた後、18Cにペルシア軍に破壊され、19C初頭にイルテュゼル・イナク(在位:1804-1806)によって建て直された
青いタイル装飾が美しい公式謁見室には奥へ通じる扉が3つ見えますが、
それらは身分に応じた使い分けがされていたそうです。
ササン朝ペルシアに起源を持つ12C頃から流行したイスラム建築、空間に向かってアーチ型の開口部を開いた大広間がイーワーンで、
この朝にも出会ったマリカ・ホテルやムハンマド・アミン・ハン・メドレセの正面が典型的な形ですが、
この公式謁見室のような天井が平らなテラスもイーワーンの一種として、アイヴァンと呼んでいるようです。


    
柱や扉に施された細密彫刻
  
遊牧民の移動式住居「ユルタ」を建てる台 玉座

中央アジアの王朝を築いた人々がモンゴルやトルコ系の遊牧民であったことを思い出させるユルタ台、
レセプション奥の玉座や壁装飾などを見学して、19C半ばには北はシルダリア、南はアフガニスタン国境のクシュカまで支配した
ヒワ・ハン国の繁栄に思いを馳せることができました。
当時、これらの建築を担ったのは戦争捕虜や強制的に連行された技術者達で、彼等が奴隷として売買されたことが
東門が奴隷門と呼ばれる由来となっています。奴隷市はソ連から禁止される1924年まで続いたそうです。
                    (参考:「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」 写真:萩野矢慶記 文:関治晃 東方出版)



城内の階段を上って、朝には行けなかった見張り台、イチャン・カラの北西に位置するアクシェイフ・ハバへ行きました。



見張り台の上からはイチャン・カラの素晴らしいパノラマを展望することができました。
写真の真中に見える2つの塔がキュフナ・アルク城門、向かい側がムハンマド・ラヒムハン・メドレセ、
その上、真中やや左寄りに見えるのが、この後訪れるジュマ・モスクのミナレット、右手の高いミナレットがイスラム・ホジャ・ミナレットなど、
高所から見ると建物の位置関係がよく分かります。



カルタ・ミナルとムハンマド・アミン・ハン・メドレセ、公式謁見室、城壁、西門と歩いた道筋を確認することも出来ました。
ヒワの人口約5万人の中、現在は3千人程がイチャン・カラ内に居住しているそうです。


   

美しい布を織るよう王から命じられた職人が、空に掛かっていた大きな虹をイメージして創り出したと伝わるアトラス織の
ウズベク人の民族衣装を着たモヒラさんは、ホレズムの太陽に負けない明るい笑顔が素敵でした。



城内へ降りて、1838年にアッラーフ・クリ・バハドゥールの命で建てられた夏のモスクを見学しました。
植物模様のマジョルカ焼きタイルを貼った2本の塔、多彩塗装の天井、ブルーを基調とした手描きタイルで埋め尽くされた壁面に
職人達の技が結集されていました。



写真スポットと化したミフラブ(=メッカの方角)

ミンバル(=説教台)

    

夏のモスク近くにあるムハンマド・ラヒーム・バハドゥール(在位:1806-1825)が設立した造幣所にも立ち寄りました。
当時の様子を人形で再現していましたが、シルクのお札が珍しい貴重な展示品のようでした。


  
街中で見かけたお土産品やラクダの「カーチャ」


キョフナ・アルクの次に、お土産物屋さんが並ぶ通りを歩いて、ジュマ(=金曜日)・モスクへ行きました。
10Cに建てられた後、修復工事が重ねられ、今の姿になったのは18~19Cと伝えられる212本の木柱が林立するヒワの大聖堂には、
神聖な雰囲気が感じられましたが、ここにもお土産物屋さんが出張し、観光自由都市の趣きもありました。
クーフィー体文字が刻まれた21本が10~12C、ナスフ体文字の4本が続く時代、植物が掘られた柱が18~19Cのヒワの典型的パターン
という柱群は3.15mの間隔で、説法者から全員の顔が見えるよう絶妙に配置されているそうです。
床のでこぼこを基部の土台石が調整している様子にも味わいが感じられました。



この日、2組目の結婚式カップルに出会いました。ヒワには結婚式後、2人の好きな場所を訪れる習慣があると言われます。
ジュマ・モスクには伝統的衣装の方が似合いそう・・・というのは余計なお世話ですね。


パフラヴァン・マフムド廟 民家風レストラン

ジュマ・モスクで午前中の観光を終えて、パフラヴァン・マフムド廟の前を通って、昼食の民家風レストランへ行きました。

    

野菜を使った前菜、ショルヴァ(=具だくさんスープ)、プロフ(≒ピラフ)という中央アジアの伝統料理で、
味付けもそれ程濃くはなく、予想よりは食べやすく感じましたが、味見+エネルギー源という程度の量に留めておきました。
2時過ぎにレストランを出て、東門(奴隷門)近くのタシュ・ハウリ宮殿へ行きました。



右手が要塞のようなタシュ・ハウリ宮殿


ユルタ台
お土産物屋さん・・・

タシュ・ハウリ(=石の庭)はキョフナ・アルクの夏のモスクと同じアッラーフ・クリ・バハドゥール(在位:1830-1842)によって
1830年から1838年にかけて建てられた宮殿で、キョフナ・アルク・モスクよりいっそう華美な装飾が施されていました。



宮殿内はハンの公邸やハーレム、謁見や儀式の場、法廷オフィスの3つの部分に分かれていて、
中庭を取り囲む1階に4人の正妻の部屋、2階にハーレム、親類、使用人などのための部屋が163室あったそうです。



法廷オフィス部分には当時のままの執務室や巨大な柱木、馬車の車輪などを展示した部屋がありました。
砂漠の地でこれ程の木材を調達した財力(武力?)にも歴史の一端が垣間見られるようでした。



イスラム・ホジャ・メドレセとミナレット

タシュ・ハウリ宮殿から南へ向かい、ヒワ最後の見学場所、イスラム・ホジャ・メドレセへ向かいました。
イスラム・ホジャはムハンマド・ラヒーム(在位:1863-1910)、イスファンディヤル・ジュルジ(在位:1910-1918)、
親子2代のハンに仕えた大臣で、学校、病院、郵便・電報局などヒワの近代化に貢献したことによって人々の人気を得ましたが、
そのことによってハンや僧侶の嫉妬を買い、生き埋めにして殺害されたそうです。

基部直径9.5m、高さ45mとヒワで最も大きなミナレットは10C以降のイランに発した中世ペルシア型の円筒形で、
先端に向けて細くなっていることや色タイルの筋模様の付け方が実際よりも大きく見せていると言われています。



イスラム・ホジャ(1872-1913)

    

メドレセの中は小さな博物館になっていて、絨毯、民族衣装、陶芸品などが展示されていました。
3時15分頃、メドレセの中庭でモデルのモヒラさんとお別れして、私達はチャイハナでひと休みしました。




    

チャイハナでは床に座るスタイルが本道のようですが、観光客向けにテーブル席も用意されているTEA HOUSEでした。
ティーセットの綿花のモティーフはウズベキスタンで最も多く見られた模様です。



HOTEL Arkanchi

4時半過ぎにカルタ・ミナル前へ戻り、少しフリータイムが取られた後、5時に夕食のホテル・アルカンチへ向かいました。

      

ハーブのナス包みやスパゲティのような麺、カナッペなどの前菜とスープ、マントゥ(蒸し肉饅頭)、ケーキが夕食メニューで、
味は悪くなかったのですが、時間が早かったことと、いつもの抑え食という訳で、残し気味となってしまいました。

6時20分にヒワを出発 綿花畑
7時前に日没 ウルゲンチの街
ウルゲンチ空港 ブハラ空港

7時15分にウルゲンチ空港に到着し、30分程で搭乗手続きを終えて、1時間余りベンチで待機した後、
9時10分発KY1058便エアバス機に少し遅れて搭乗し、ブハラ空港に定刻より10分遅れて、10時20分頃着陸しました。
10時40分にブハラ空港からバスに乗り、11時前に「MALIKA HOTEL BUKHARA」に到着しました。



3日連続して飛行機に乗るという初体験を何とかクリア、翌日からはいつもの旅のペースになるという安堵感、連泊のゆとり、
「シャワーのみのホテル」という事前の案内とは違うバスタブ付き・・・などに長い一日の疲れを癒されながら、12時に就寝しました。


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