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21 Sept.2015
Bukhara
MALIKA HOTEL BUKHARA BUKHARA MUSEUM OF FINE ART



宿泊した「MALIKA HOTEL BUKHARA」はブハラ旧市街の中心に位置するロケーションの良いホテルで、
筋向かいには現代美術館がありました。
ホテルの壁に貼られた5か国語メッセージに日本語があったのはうれしかったのですが、
「環境を保護するために私たちを助けて!・・・・・  。ありがとう。」と日本語はもう一歩・・・でした。



ホテルのビュッフェ朝食の様子です。
アラビアン・ナイト風なレストランのインテリアなど、中央アジアのイメージとはかけ離れているように見えますが、
東方イスラム圏の広域さを物語っていると言えるのかもしれません。

パミール高原の水を集めたザラフシャン川下流のオアシス都市ブハラ(=サンスクリット語で僧院、ソグド語で幸せな場所)は、
BC5C頃、最初の砦が造られ、BC2Cには貨幣を鋳造、「史記」にはブホやホーラ、隋・唐時代には「安国」という地名で登場するそうです。
709年にウマイヤ朝(661-750)のクタイバ率いるアラブ軍によって征服された後、
ペルシア系イスラム王朝サーマン朝(875-999)の首都として発展しますが、
1220年にチンギス・ハンが街を破壊、ティムール帝国時代に再び繁栄を取り戻すという歴史を持っています。
その後、ウズベク族のブハラ・ハン国の首都として、シャイバニ朝(1500-1599)、アストラ・ハン朝、マンギット朝(1747-1920)と
1920年にソヴィエト連邦に併合されるまで王朝が続いて行きました。
1993年に世界遺産に登録されたブハラの街は、16~17Cに建造された建物を中心として、今も中世文化都市の面影を留めています。


サラフォン・ハマム タキ・サラフォン

9時にホテルのロビーに集合して、徒歩で街の観光に出掛けました。
バハウッディン・ナクシュバンディ通りを東へ向かうと、16C建造のサラフォン・ハマムやタキがありました。
タキというのは通りの交差点にドームをかぶせて、内部をバザールとして使うと共に関所の役割も持っていた建築物で、
タキ・サラフォン(両替商)、タキ・ザルガロン(宝石)、タキ・テルパクルフシャン(帽子)など専門店が集まるバザールだったようです。
サラフォンつまり両替商のタキの周辺はユダヤ人が多く住む地域で、今も古いシナゴーグなどが残っているそうです。


ナディール・ディヴァン・ベギ・ハナカ

タキ・サラフォンを抜けてまもなく、リャビ・ハウズの西端に1619年建造のナディール・ディヴァン・ベギ・ハナカが見えて来ました。
ナディール・ディヴァン・ベギはアストラ・ハン朝の大臣で、ハナカというのはスーフィー派のための思索と宿泊場所を指すようです。



ヒワリャビ・ハウズ
1620年に用水池として造られた36mX45mのリャビ(=岸辺)・ハウズ(=池)には樹齢数百年の桑の木が保存され、
かつてはたくさん生息していたというコウノトリの模型が飾られていました。
水の都ブハラに200近くあったハウズも今では6つだけとなり、帝政ロシア時代に水が腐ったことによって虫や蛙が生息できなくなり、
餌を失ったコウノトリは姿を消してしまったと言われています。



ナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセ

クカルダシュ・メドレセ

リャビ・ハウズの東側にナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセ、北側にクカルダシュ・メドレセがありました。
タシケントと同じクカルダシュという大臣の名前が付けられた1568年建造のメドレセは、ソ連時代にはホテルとして使われ、
現在は工芸センターとなっていますが、1930年代の労働者を描いた社会主義リアリズムの壁画が残っているそうです。




ーワーンに人の顔の日輪(=王)や白い鹿(豚?)をつかんだ2羽の鳳凰が描かれたナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセは、
当初はキャラバン・サライとして1622年に建て始められましたが、イマム・クリ・ハーンが「素晴らしいメドレセ」と称したために、
メドレセにせざるを得なかったと伝わる建物です。またお金が入るキャラバン・サライとして建築許可を得て、
完成後に強引にメドレセに変えたという異説もあり、イスラムの教義に反する絵柄は今も様々な憶測を呼んでいるようです。


    
ナスレッディン・ホジャ

ナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセの前に20Cに入って造られたナスレッディン・ホジャ像がありました。
ティムールをやりこめた話も数々伝わるトルコのアナトリア生まれの主人公の滑稽噺、頓智譚が、
中央アジアでも人気という所が既に滑稽に思われますが、ナスレッディンなら現代の国境そのものを笑い飛ばすのかもしれませんね。
ここでは位置や形がフィットしたのか、ロバのしっぽが願掛けされる役割を担っていました。
ナスレッディン・ホジャの話は「ナスレッディン・ホジャ物語」「ホジャの笑い話」など日本語訳も出版されています。



チャイハナ

ナディール・ディヴァン・ベギ・ハナカ

池のまわりのチャイハナを見ながら、アンバール通りからサマルカンド通りを渡り、旧市街にある住宅街を抜けて、
ウルグベク・メドレセへ向かいました。


  

途中、ナディール・ディヴァン・ベギ・ハナカ前に駐車していたロシア・ナンバーのSUZUKI車を見て、
「皆様はラッキーですよ。これはめったに見られないマークです」とザファールさんが車体に付けられステッカーを指さしましたが、
これは中央アジアの覇権を巡る19~20C初頭のイギリスとロシア間の抗争「グレート・ゲーム」に関わるマークのようでした。


              

民家、肉屋、果物露店など庶民の生活が垣間見られる旧市街の一画には18Cのチャイハナなど歴史的建物も残っていました。


道の端に置かれた施し物・・・?


道の真中に車を止めて、車中からお祈りをしている男性に出会いましたが、その人が手を合わせている先には左写真の建物がありました。
右は水道管工事でしょうか、ちょっと前時代的な工事も見られ、旧市街の裏道歩きには面白い出会いが多々ありそうです。


  

左写真中央に見える柱を拡大したのが左の図で、馬の首の毛を付けた布は聖人を表しているそうですから、
上の土壁の中は地元で信仰される聖人廟と思われました。
その後、メドレセの壁に見つけた標識もそれの派生形なのかもしれません。


ウルグ・ベク・メドレセ

間もなく、ティムールの孫ウルグ・ベク(1394-1449)によって1418年に建てられたウルグ・ベク・メドレセに到着しました。
中央アジア最古の神学校の一つといわれるモスクの入口の扉の上に
「知識の追及はすべてのイスラム教徒男女の義務である」というウルグ・ベクの言葉が彫られ、
男女を.同等に並べて教育の大切さを説いている所に、ウルグ・ベクと共にブハラの先進性が見られると言われています。
正面のイーワーンや青の彩釉タイルを用いた壁面装飾、外観をより壮麗に見せる2重殻ドームは、
16C末の典型的な様式で、後に付け加えられたものです。


  
アブドゥール・アジス・ハン・メドレセ
  

ウルグ・ベク・メドレセの向かい側に1653年に建てられたのが、アブドゥール・アジス・ハン・メドレセで、
イーワーンに施された多色ムカルナス(鍾乳石装飾)などにイスラム建築の変化が見られます。
内部はほとんどお土産物店として使われていました。





希望者が多いということで、ザファールさんから各国のコンクールで入賞しているという手作り刃物のお店に案内されました。
それ程の関心はなかったのですが、ふと思い付いて、小さなコウノトリ型のハサミを孫達のお土産にすることにして、
羽の内側に孫達の名前をアルファベットで彫り込んでもらいました。ナイフは夫の友人へのお土産です。
「ケースは20ドル、ハサミはおまけ」というイクラモフスさんの達者な日本語のジョークがザファールさんに大受けでした。


タキ・ザルガラン

現在残るタキの中で最大のタキ・ザルガランの周りには小さなドーム屋根を載せた商店や職人の仕事場が36も連なって、
ユニークな姿を見せ、東西の旅人や大きな荷物を載せたラクダ連れの隊商たちが往来した昔が想像できるようでした。
写真の左上に見えるのは、この後で訪れたカラーン・ミナレットとミリ・アラブ・メドレセです。


     
ナンに模様をつける道具                細密画                               陶器店 

ハサミ購入の後、20分ほどのフリータイムは、タキ・ザルガランを覗いたり、
もう一度、ウルグ・ベク・メドレセやアブドゥール・アジス・ハン・メドレセへ戻ったりして過ごしました。



カラーン・ミナレット

カラーン・モスク

10時45分に再集合し、タキ・ザルガランを抜けて、カラーン(=タジク語で大きい)・コンプレックスへ向かいました。
先ず目に入って来たのが、カラ・ハン朝時代の1127年に建てられた46mの高さを誇るカラーン・ミナレットです。
9mの基底部の下、土台部分が10m地下に入った構造で、後の時代にサマルカンドで造られた有名な二つのミナレットは傾いていても、
カラーン・ミナレットは直立しているというのがブハラ市民の自慢で、
美しさゆえにチンギス・ハンもミナレットだけは破壊を思い留まったという伝説も残されています。
18~19Cには死刑囚を生きたまま袋に詰めて投げ落とすという負の歴史も持ちながら、ブハラのシンボルとしての存在感を見せていました。



12Cにカラーン・ミナレットと共に建てられたジュマ・モスクが、1220年にチンギス・ハンの攻撃によって破壊された後、
シャイバニ朝のアルスラン・ハンによって1514年に建立されたのがカラーン・モスクで、
 広さ1ha、1万2千人を収容する規模を誇っています。

 

カラーン・モスクは中庭の中心軸上に4つのイーワーンを設けるチャハール(=4)・イーワーン形式となっていますが、
これは11C末から流行して、エジプト、アナトリア、インドなどに伝播した後、
近世イランや中央アジアで継承された形式で、中世ペルシア型スタイルと呼ばれています。
ソ連時代は倉庫として使われ、独立後に礼拝所として再開されたカラーン・モスクは、1970年代の修復によって、
均整がとれた端正な姿を蘇えらせたようでした。
メッカの方向に位置する西側のイーワーン前に設置された八角形の東屋は、ミンバル(=説教台)の役目も持っているそうです。



西側のイーワーンはドームを抱き、内部にはミフラブやミンバルが置かれていました。
中庭を取り囲む208本の柱でつながれた回廊を歩いたり、写真を撮ったりしている時に、石段に座り込んでいるツアーメイトを発見、
声を掛けると、「お腹が・・・」ということで、この後、ランチ・レストラン前までは同行しましたが、
ホテルが徒歩圏であったことが幸い、ランチ抜きで休養することになりました。
(記念すべき100回目の添乗のF添乗員さんも、にこやかながら、実は・・・だったようです。)



ミリ・アラブ・メドレセ


カラーン・コンプレックスの北の一画にブハラのイスラム教徒のリーダー、ミリ・アラブ(=アラブ人の王子)の名を冠したメドレセがありました。
ミリ・アラブ・メドレセは1536年にシャイバニー・ハンの従兄弟ウバイドゥッラー・ハンが戦争で手に入れた戦利品、
つまり捕虜を奴隷として売った資金で建設、「土台はレンガと粘土ではなく、奴隷たちの血と涙と悲しみ」と歴史家が伝えたと言われ、
ソ連時代に20年間閉鎖された後、1945年に開校、ウズベキスタン独立以前に唯一イスラム活動が許されていたメドレセです。
正面イーワーンの半八面体アーチや、青と白の彩釉タイルの植物や文字文様にティムール様式が見られるメドレセは
今も神学校として使われているため、入口のホールまでしか入ることが出来ませんでした。



アミール・アリム・ハン・メドレセ

再び、旧市街の中心へ戻る途中に、19Cに建てられた小さなメドレセ、アミール・アリム・ハン・メドレセがありました。
 今は児童図書館として使われているそうです。



タキ・テルパクルフシャン(多分・・・)の中のお店では、スザニと呼ばれる伝統的な刺繍布を長女へのお土産に買いました。
街のお土産物店では機械刺繍のものが多く出回っているようですが、ザファールさんお勧めのお店は木綿生地にシルク糸の手刺繍品で、
クレジット・カードが普及していないウズベキスタンのこと、少ないドル所持金をはたく羽目となってしまいましたけれど・・・。


ソファ・カバーにした植物柄のスザニ


マゴキ・アッタリ・モスク

少し歩くと、右手に、今は絨毯博物館として使われているマゴキ・アッタリ・モスクがありました。
1930年にロシアの考古学者シシュキンが周囲を5mほど掘って、土の中から掘り出したモスクで、
マゴキは穴の中、アッタリは薬草の意味で、アラブ支配まで薬草、香辛料などのバザールがあったことに因んだモスク名となっています。
6Cまでは仏教寺院やゾロアスター寺院があった区域に建てられたブハラ最古のモスクと考えられていて、
焼失、破壊、再建・・・というモスクの来歴が建物の外壁や発掘品から読み解かれているそうです。 



タキ・サラフォン


右手にナディール・ディヴァン・ベギ・ハナカとラビ・ハウズ

20Cになって再建、整備されたタキ・サラフォンのドームを抜け、ラビ・ハウズの近くまで戻って来ました。
朝にも通った道ですが、お昼頃ともなると大分様子が違い、随分と賑わいを見せていました。



ランチ・レストラン

    

すっかりお馴染みになった野菜の前菜、かぼちゃとじゃがいものスープ、チキン・クリーム煮、ケーキというメニューでした。

実はこの頃から体調異変の人が1人、2人と増えて、ツアー・メンバーの半数ほどまで数えられるようになっていきましたが、
ツアー・メイトの内科医Sさんすら「何が悪いんだろうねぇ」と首をかしげるばかりでした。
水が合わない、油が多い、食べ過ぎ・・・位は考えられますが、運・不運のレベルで考える他はないのかもしれません。
私達夫婦は、幸い、ほぼ運のよい方で過ごすことができました。



サーマン廟

昼食後、1時50分頃にマリカ・ホテル近くまで戻って拾ったタクシーに分乗して、サーマン公園へ行きました。
遊園地もある広大な公園の一画に、土中に埋もれていたのが幸いして、カラーン・モスクと共にチンギス・ハンの破壊を免れた、
現存する中央アジア最古のイスラム建築といわれるサーマン廟がありました。
1926年に考古学者ビャトキンによってほぼ原形のまま発掘されたサーマン廟は、
イスマイル・サーマン(在位:892-907)が父親のために建てたというのが通説とされていましたが、
近年の研究でサーマン家の別の王子達が葬られたお墓であることが明らかになったそうです。
ゾロアスター教や古代ソグド建築の影響も見られる1辺10mの立方体の上に内径8mの椀型ドームが載せられた廟は、
素朴な力強さの中に、レンガだけで造られたとは思えない高度な技術が駆使されて、美しい造形を見せていました。

見学の終わりに、廟の周りを反時計回りに3周する願掛けのおまじない歩きも敢行しましたので、
私のおなかの健康を守ってくれたのが、ロバのしっぽかサーマン廟のどちらだったのかは分かりません(?)



公園の中を歩いて、チャシュマ・アイユブへ向かいました。
前方から近付いて来た華やかな一団はジプシー家族のようで、ファザールさんは気楽に言葉を交わしながら、(或いは警告・・・?)
リュックサックをさりげなく身体の前に移していました。
その一段の後ろに見えている建物は「MUSEUM OF THE HISTORY OF WATER SUPLLY OF BUKHARA」で、
オアシス都市にとって何より大切な水の歴史を学ぶ博物館のようでした。



チャシマ・アイユブ

イマーム・アリ・ブハリ記念館

チャシュマ・アイユブ(=ヨブの泉)は旧約聖書の預言者ヨブに因む泉で、ヨブが杖で叩いたら泉が湧きだした、
或いはヨブが沐浴をして受難から解放された泉という伝説があり、
このこととブハラにユダヤ人が住み始めたことに関連性があるのではと考えられている場所です。

円錐形のドームはティームール(在位:1370-1405)がホレズムから連れてきた建築家が造ったものとされていて、
建物内部の中央に井戸、その後ろに人物が判明していない人々のお墓が安置されているそうですが、
修復工事中のため、今回は内部見学をすることは出来ませんでした。
眼病に効くとされていた泉の水は、厄病の流行後に飲料とすることが禁止されたようです。

右写真の建物はムハンマドの言行録を集めて、コーランに次ぐ重要な聖典「ハディース」を作り上げたブハラ生まれの偉人の1人、
イマーム・アリ・ブハリ(810-870)の記念館です。
アリ・ブハリのハディースはスンナ派にとって最も正統なものとされています。



ボロ・ハウズ・モスク

サーマン公園を出て、1712年にブハラのハン専用のモスクとして建てられたボロ・ハウズ(=池の前)・モスクへ行きました。
 12mのクルミの木柱が20本林立するアイヴァンは20C初頭に増築されたものですが、池とマッチして魅惑的な景観となっていました。
カラーン・ミナレットを縮小したようなミナレットは1917年に建造されたものです。
アイヴァンの奥のドーム内部のモスクに入れるかもしれないと靴下カバーを用意していきましたが、扉は閉ざされたままでした。

レギスタン広場 ジュマ・モスク

ボロ・ハウズから大通りを渡って、古代ブハラ発祥の地といわれるアルク城へ行きました。
アルク城の原型ができたのは7C中頃と言われ、アラブ、モンゴルの襲撃を受けた後、マンギット朝(1747-1920)時代に現在の外観となり、
1920年にロシア赤軍によって焼夷弾攻撃を受けるまで、歴代ブハラ・ハンが居城としていた城塞です。

レギスタン広場から入った塔門の中は、囚人を収容していた監獄となっていて、
坂道を上り、新アルクと呼ばれる4haの要塞の中に修復された13Cのジュマ・モスクや謁見の間などを見学することができました。



クリシュナ・ハナ(謁見の間)

      

城内のハン公邸、音楽家室などが博物館となっていて、古代ブハラの出土品、中世~近世の歴史資料などが展示されていました。
丹念に見れば、興味深い物もあったと思いますが、観光疲れで気力が入らない午後、漫然と写真だけ撮って帰りました。
因みにこの日の撮影料は3か所合計で7000スム(=350円)でした。




高台に位置する城塞の景観も楽しんだ後、再びタクシーに分乗して、4時前にホテルへ帰りました。
部屋へ戻り、シャワーをあびた後、一休みのつもりが1時間ほども眠ってしまい、残念なことに街歩きの時間が消え去っていました。



6時からホテルの一室で日本語を勉強している地元の子供達との交流会がもたれました。
JICA派遣の女性が一人で教えていらっしゃるようですが、勉強を始めて1~2年の子供達もしっかりと日常会話が出来るレベルで、
16~17歳の高校生が多かった割には幼い印象ながら、日本の医学部や観光学部へ行きたいなど夢を話してくれました。
実際に日本の大学へ願書を出しているという女の子は、この後はスカイプで面接があると話していました。
21Cの若者たちに心からのエールを送っておきましょう!



7時にホテル・ロビーに集合して、カラーン・モスクが見えるホテル近くの屋上レストランへ行きました。
三日月から少しふくらんだ月を見て、旅で重ねた日々が実感されました。


    

    

この夜はテーブルをご一緒した酒豪の?お二人につられた訳ではありませんが、今回の旅で初めてのゆっくり夕食でしたので、
グラス・ワイン(9000スム=450円)を注文しました。
暗い外での撮影で色が悪いですが、上段の真中は、F添乗員さんお気遣いの海藻サラダ(ポン酢ドレッシング)です。
その他、パイの一種サムサやこの国では珍しい魚のフリットなど様々な味がテーブルに並んだ夜でした。




9時前にホテルへ戻り、翌日の移動日に備えたパッキングをして、9時45分に就寝しました。
・・・と、ここで気が付いたのですが、旅の健康管理にはよく寝ることも必須項目のひとつといえるのかもしれません。

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