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23 Sept.2015
Samarkand~Urgut~Samarkand
ASIA SAMARKAND HOTEL

旅の6日目、サマルカンドでウズベキスタン旅のクライマックスを迎えました。
「人々が出会う場所」を意味するサンスクリット語Samaryaに由来するサマルカンドは、
名前を聞いただけで旅情をそそられる世界の古都のひとつではないでしょうか。
8時15分にホテルのロビーに集合して、中央アジア最古の歴史を誇る街の観光が少し早目にスタートしました。



シャーヒズィンダ廟群

20分程で到着したシャーヒズィンダ(=生ける王)廟群はチィムールゆかりの人々の霊廟を主体とした11~15Cに造られた建築群で、
アフラシャブの丘の南麓で壮大な美しさを見せていました。


       

1935~36年にウルグベクによって建てられたダルワザ・ハナ門を抜けると、左手に1910年建造の夏用モスクがあり、
その先に行き帰りに数えた段数が同じなら天国へ行けるという「天国への階段」がありましたが、
「41段という数字よりも大切なことは信仰すること」というのがザファールさんの意見でした。


階段途中、左手に15Cに造られたウルグベクの天文学の教師カズィ・ザデ・ルミの廟コシュ・グンバズ(=二つのドーム)がありますが、
墓室から発見された若い女性の骨はティムールの乳母ウルジョイオイームとも言われています。
コシュ・グンバズの周りには墓地が広がり、ビビハニム・モスクも遠望することが出来ました。



シャディ・ムルク・アカ廟

シリン・ベク・アカ廟

ティムールの美しい姪が祀られている1372年に造られたシャディ・ムルク・アカ廟には、
「貴重な真珠が失われ、ここに眠る」と入口に書かれていて、シャーヒズィンダ廟群で最も美しいと廟と評されています。
1386年にシャディ・ムルク・アカの母、ティムールの姉もここに葬られました。
シャディ・ムルク・アカ廟と向き合って建つシリン・ベク・アカ廟はティムールの妹のために1386年に建造されたものです。



コーカサス・スタイルと言われる珍しい八角形の廟は15Cに造られたものですが、埋葬者は不明のようです。
シャフリサブスでも見かけた階段式に積み重ねた墓石が独特で印象に残りました。



八角形の廟の左上に見えているのがシリン・ベク・アカ廟で、その向かい側にシャディ・ムルク・アカ廟が少し見えています。
それらティムール一族や部下の将軍家族の廟が両側に並ぶ南の廟群の一画を抜けると、
無名の廟や石棺が並ぶ開けた空間となっていました。



北側建物群に見える茶色の建物(左写真右側)が11C建造のクサム・イブン・アッバース廟で、
モンゴル来襲の時も破壊されなかったサマルカンド最古の建物と言われています。

アラブ軍行軍の途中、サマルカンド近くで致命傷を負った預言者ムハンマドの従兄弟クサム・イブン・アッバースには地下へ逃げ込んで、
今なお生き続けているという伝説があり、10~11C頃にサマルカンドを守る聖人と認められて、この場所に廟が建設されました。
それがシャーヒズィンダ=生ける王という廟群名の由来で、参道筋に沿ってモスクや廟が立ち並ぶコンプレックスが出来上っていきました。
かつては40箇所あったという建物も現存は14箇所となっています。

奥に見えているゲートを抜けて、3回詣でればメッカへ行くことと同じと信じられていたため「天国の扉」と呼ばれているドアから、
右側のクサム・イブン・アッバース廟に入りました。低いミナレットが見えている内部がモスクとなっています。


クサム・イブン・アッバース廟内のモスク

この時、モスク内でお祈りをしていた男性は「職業的な聖職者ですから、いくら写真を撮っても構いません。」が、
「個人的にお祈りしている人にカメラを向けるのは失礼です。」とザファールさんからガイドされました。
男の子をカメラ目線にしてしまい、お祈りの邪魔をしてしまいましたが、仕事が終わるとすぐに携帯を見ている聖職者には納得・・・でした。

        
フッジャ・アフマド廟                           クトゥルグ・アカ廟

クサム・イブン・アッバース廟の北側には1404年建造のティムールの妻トゥマン・アカ廟、1350年建造のフッジャ・アフマド廟、
1361年建造のティムールの妻クトゥルグ・アカの廟とも言われる3つの廟がコの字型に並んでいました。

フッジャ・アフマドについては記録が残っていませんが、サマルカンドにとって重要な人物で、
シャーヒズィンダ廟群内で2番目に古いフッジャ・アフマド廟の様式が後の廟建築の原型になったと言われ、
青と白のマジョリカ・タイルで装飾されたフッジャ・アフマド廟とは異なり、ヒワでも見られた釉彩テラコッタで飾られたクトゥルグ・アカ廟は、
ホレズム地方の職人の手になると考えられています。


  

美しいタイルや細密なモザイクで飾られた霊廟やモスクの内外部を、フリータイムを入れながら、1時間ほど見学しました。
中央アジア有数の巡礼地とあって、時間と共に訪れる人が増えていくシャーヒズィンダ廟群を後にして、
サマルカンドから南東へ40km、タジキスタン国境に近いウルグットへ向けて9時半過ぎに出発しました。




車窓にはザラフシャン山脈の水の恩恵を受けた農村風景が続きました。
「ウズベキスタンでは一家に嫁いだ嫁が毎朝05:00に起きて、晴れ着を着て、家の周りを清めるのが今でも続く習わしだとか。晴れ着を着ることで、
「私はこの家できちんと養ってもらっている」と周囲にアピールする意味合いがあるそうです。」とW航空の視察報告にありました。
ソ連時代に整えられた道路インフラはメンテナンスが行き届かないようで、がたがたの悪路が多かったことはさておき、
ほうきを見ると、このような家庭習慣や公共の場でよく目にした掃除人によって、街や道路がきれいに保たれていたことが思い出されます。




ドイツ人の生物学者シュレーデルが研究所を作ってこの地方のリンゴやモモなどの果樹の改良に取り組み、
その功績を地名に残しているなどという話に耳を傾けながら、1時間余りバスを走らせて、10時45分にウルグットに到着しました。



ウルグットはサマルカンド州最大の市場のある村として有名で、市場の周りには広大な駐車場がありました。
とりわけ火、水、土、日曜日に開催されるスザニ・マーケットが有名だと言われています。



門の手前から食べ物屋台、植木屋、雑貨屋など様々な店が所狭しと並び、どちらかというと地元ご用達のバザールのようでしたが、
古来、東西の物流の地であったDNAを継いだ熱気を今も残しているようでした。

   
    

門を入ると衣料用品店が縦横に広がり、圧倒されるばかりでしたが、よく見ると、商品ごとにエリア分けがされているようでした。
スザニはブハラで購入しましたし、買いたいものもなさそうでしたので、漫然と写真を撮りながら、1時間足らず市場歩きをしました。

   

ここで是非ほしいと思ったのが「金歯」写真で、カメラを向けると口を閉じてすまし顔になる人が多い中、
ようやく成功したのがこの2枚の写真でした。
セラミックより金の方が安いからというザファールさん説より、一種のステイタス・シンボルか流り物と思われた「金歯」異文化でした。


      

   
サンザシの実                       燃料用サクサウール

ウズベク、ロシア、タジク、カザフ、タタール、カラカルパク・・・など民族の違いを見分けることは出来ませんが、
ウズベキスタンの多民族性が何となく分かるようなバザール情景でした。
因みに私達のガイドのザファールさんはタジク人の人口比率が高いサマルカンド出身のタジク人で、
ウズベク、タジク語の両方を日常語としているそうです。
タジク人の祖先はザラフシャン流域でシルクロード交易の担い手として活躍した後、ほぼ絶滅したイラン系民族ソグド人と考えられています。

11時40分にウルグットを出発し、再びがたがた田舎道を走って、12時50分にサマルカンドの街中のレストランへ戻りました。




      

      

「Lucky Cafe」地下のダイニングルームのランチ・メニューです。
香菜やディルなどハーブ入りの野菜サラダ数種、トマトベースのスープ、シャシリク(多分、羊肉)、クレープなど
特殊な味付けでもなく、野菜も多いヘルシーとも言えるメニューですが、
短期間の旅行者には水や油の違いがこたえることもあるとしか言いようのないウズベキスタン料理でした。

午後2時過ぎにバスに乗って、2001年に世界遺産に登録されたサマルカンド旧市街の観光に向かいました。



ドームの64本のリブが印象深いグリ・アミール廟


     

午後のサマルカンド旧市街観光は、ティムール(=鉄)やその一族が眠るグリ・アミール廟(=支配者の墓)から始まりました。

トルコ系カラハン朝の支配下にあったサマルカンドは、チンギス・ハンの攻撃によって1220年に壊滅させられた後、
ティムール(1336-1405)が帝国の首都として再建して、かつての栄光を蘇えらせました。
生涯を征服戦争に費やし、中国辺境からアナトリア、南ロシアからインド北部に至る中央アジア空前の帝国を築き上げたティムールは
一方で、遠征先から優秀な学者や建築家、職人達を連れ帰り、サマルカンドやシャフリサブスに美しい建造物を残すことになりました。

評価が否定的であったソ連時代を経て、ウズベキスタン独立後に再び、ティムールは国家を象徴する英雄として復権を果たし、
グリ・アミール廟の入口には肖像画や征服地図が展示されていました。


       

廟内は1996年に金3kgを使って修復され、2重殻構造のドーム内側の天蓋や壁面一面がまばゆいばかりの輝きを見せていました。



壁面の一部に(右写真)施された紙工芸装飾の立体感に高い技術が感じられましたが、ザファールさんに教えられて撮った写真を拡大すると、
下地に使われた新聞紙の文字が残る金箔の塗り残し?箇所も見つかりました。



グリ・アミール廟は、もともとはティムールの孫ムハンマド・スルタン(1376-1404)が建てたメドレセとハナカがあった場所に、
ムハンマドがトルコ遠征で戦死した後、ティムールによって1404年に造られた霊廟ですが、
1年後に中国遠征の途上で発病、逝去したティムール本人も、生前、故郷シャフリサブスに用意した石棺が雪に埋もれていたために、
又一説では、その死を秘密裏にしておきたかった後継者によって、ここに眠ることになりました。

中央の黒いオニキスのティムールの墓石には、アラビア語で「ティムールはジンギス・ハンと共通の祖先を持つ」と書かれていて、
1740年にナーディル・シャーがイランへ持ち出したり、返却したりした時についた傷跡を残しています。
ティムールの墓石の周りに教師ミルサイード・ベリケ、息子のミランシャー(1366-1408)、シャールフ(1377-1447)、
孫のムハンマド・スルタン、ミルゾ・ウルグ・ベク(1396-1449)など合計9つの墓石が並んでいますが、
遺骸は地下3mの墓室にこの配列通りに安置されているそうです。

1941年6月にソ連の調査隊が入り、石棺を開けて、ティムールが赤ひげで頭が大きかったこと、
ペルシア語で「跛者のティムール」を意味するタメルラングという綽名の通り、青年時代に襲撃に失敗した負傷が元で右足に障害があったこと、
ウルグベクが息子アブドゥラティーフの反逆によって斬首されたことなど、言い伝え通りの事実が証明されたそうですが、
「墓を暴いたものは、私より恐ろしい侵略者を解き放つ」とティムールの石棺内側に書かれていた通り、
調査の2日後に不可侵条約を破棄したヒットラーがソ連に侵入して、独ソ戦争の幕開けとなり、
その後、ティムールの遺体は丁重に再埋葬されて、石棺は鉛で厳重に封印されたと言われています。


ちょっと都会的なサマルカンドっ子達


レギスタン広場

チンギス・ハンの来襲で街が徹底的に破壊された後、代わってサマルカンドの中心として登場したのが、
運河があり、砂場が多かったことからレギスタン(=砂の場所)と名付けられた6本の大通りが交差点する広場です。
ティムール時代には大きなバザールがあった商業の中心地で、ウルグ・ベク時代にメドレセ、ハナカ、モスク、キャラバンサライが建てられた後、
17Cのシャイバニ朝時代に古くなったハナカやキャラバンサライに換えて、2つのメドレセが建造されて現在の外観ができ上がり、
「青の都」「東方の真珠」と賞されるサマルカンドの顔となりました。
青空の下でいっそうの輝きを見せるサマルカンド・ブルーは、蒼穹や天国をイメージしたものと言われています。



最初にレギスタン広場の東側のウルグベクのハナカ跡に、ウルグ・ベク・メドレセを真似て、
1619年に着工し、1636年に完成したシュルドル(=タジク語でライオンが描かれたの意)・メドレセに入りました。



シュルドル・メドレセは名前の通り、ダマジカを攻撃しようとしている人面太陽を背中にしたライオンのイーワーンのタイル画が有名で、
(因みにイスラム圏ではライオンとトラは区別されないようで、ライオンというよりトラに近い図柄になっています。)
ブハラのナディール・ディヴァン・ベギ・メドレセと同様に、偶像崇拝を禁じるイスラムの戒律を破ってまで描かれた理由は分からず、
支配者の権力誇示のため、或いは建設家が自ら描いたなど諸説あるようです。
文様は20C半ばにはほとんど消えかけていたそうですが、修復工事によって鮮やかさを取り戻していました。



イーワーンを抜けて、メドレセの中庭に入り、ザファールさんから楽器店の一室に案内されました。
ドゥタール(2弦)、タンブール(4弦)、ルバブ(5弦)、チャング(75弦)、ナイ(尺八に似た竹製楽器)、ドイラ(牛皮タンバリン)など
様々な楽器の紹介の後、CDも出しているプロ音楽のバブルさんが伝統音楽のさわりを聴かせて下さいました。
音楽のシルクロードが自然と思い浮かぶような懐かしさを誘われる音色でした。



    

次にサマルカンドの大聖堂であったビビハニム・モスクの崩壊が進んだため、代わりのジュマ・モスクとして20年間かけて建造、
1660年に完成した広場正面のティラカリ(=金箔された)・メドレセに入りました。
20Cに増築された青いドーム下のモスク内部はソ連時代に3kgの金箔を使って修復され、
そのきらびやかさはグリ・アミール廟と双璧、或いはそれを凌ぐばかりのものでした。
内部天井は遠近法を使って深さを出していますが、実はドーム型ではなく、平天井とのことでした。


レギスタン広場で最も古く、1417年-1420年に建てられたウルグ・ベク・メドレセはかつては100人以上の学生を収容した神学校で、
イーワーンには天文学者だったウルグ・ベクに相応しく、星空をモティーフとしたモザイク・タイルが用いられていました。
天を支えるという意味を持つ2本のミナレットは20Cになって修復され、18Cの混乱期に破壊された教室上のドームも付け加えられたそうです。





ヒワ、ブハラと同じく、サマルカンドでもモスク、メドレセまでがお土産物バザールとなっていて、
ザファールさん案内のティラカリ・メドレセのお店で、綿花柄のお皿を次女へのお土産に購入しました。


      

左は新婚用の民族衣装を着た現地旅行社「SILK TOUR」の女性スタッフ(5時起きで掃除をして来たのでしょうか・・・?)、
真中はウルグベク・メドレセ前で写真を撮り合いっこしたカップル、右は外出用?民族衣装の若い女性達、
レギスタン広場での人物スナップです。



チョルスー

レギスタン広場を出て、通り抜けたシェルドル・メドレセ裏の公園にチョルスー、つまり「古い」とだけ呼ばれている交差点のバザール、
ブハラのタキのような役割を担っていた建物がありました。
これは崩壊したビビハニム・モスクの残骸を集めて18Cに造られたそうで、現在はアート・ギャラリーとして使われています。


   

広い遊歩道が続くタシケント通りを、学校帰りの子供達をカメラに収めながら、ビビハニム・モスクまで歩きました。


ビビハニム・モスク


ビビハニム(=第一夫人)・モスクは1399年にインド遠征から戻ったティムールが世界に比類のない壮大なモスクを建設することを決め、
帝国各地から200人の職人、500人の労働者、インドから95頭の象を集めて、
異例の速さで1404年に完成したという伝説を持つアーチの高さ33m、面積167m×109mの巨大なモスクですが、
基礎工事に問題があったために落成後、間もなくレンガの落下が始まり、1897年の大地震で崩壊したと伝えられています。
元々はサマルカンドのジュマ(=金曜)・モスクとして建てられ、市民からビビハニムという愛称で呼ばれていたモスクは、
ソ連政府の手によって1974年から始められた修復によって、元の姿を取り戻しつつありました。

中庭にはタシケントのムスリム総務局の図書館で見た世界最古のコーランが置かれたという
ウルグ・ベク時代に造られた巨大な大理石製のラウヒ(=書見台)がありました。


未修復のビビハニム・モスク内部



タシケント通りを挟んでビビハニム・モスクの向かい側には、モスクと同時期に建てられたビビハニム廟が見えていました。
ティムールはモンゴル王朝カザン・ハン(在位:1343-1346)の娘サライ・ムルク・ハニム(=ビビハニム)と結婚したことによって、
「ハンの婿」の称号を得て、モンゴルとのつながりに正当性を持たせたと伝えられています。



ビビハニム・モスクを自由見学した後、4時45分にモスク前に集合して、隣接するシャブ・バザールへ行きました。
バザールからはビビハニム・モスクのバランスのよい美しい外観を見ることができました。



かつて運河があったことに因むシャブ(=黒い水)・バザールは食料品を中心とした大きなバザールで、
キロ単位で売るドライ・フルーツやナッツ類をツアー・メイト同士でシェアしながら買物する様子を見ながら、
私は重さではなく、20ドルと限定、それをザファールさんにスム換算していただいて、ピスタチオを850グラム購入しましたが、
塩を効かせたウズベキスタン産?ピスタチオは、日本の湿気の中では味落ちが早いように思われました。



5時20分にバスに乗り、この日最後の観光に絨毯工場に立ち寄りました。
ザファールさん案内の絨毯、スザニ、陶器などのお店は、お土産物よりは品質の高い手工芸レベルの品が多かったようで、
価格もそれなりに高く、クレジット・カードは1000ドル以上と言われると手持ち不如意では手を引込めざるを得ず、
もう少しドルを用意して行けば良かったとも思われたウズベキスタン旅でした。


      

6時半前にホテルへ戻り、7時に徒歩で夕食レストランへ向かいました。
レストランがある建物に到着すると、民族衣装のお店で誘いがかかり、売り込みだろうとパスをしようとした所、
民族衣装体験が現地旅行社が用意したサプライズ・プログラムと分かり、若いツアー・メイト達が着用モデルを務めて下さいました。


   

翌日の夕食は帰国フライト前ということで、ゆっくりとしたこの日の夕食がラスト・ディナーと位置付けられ、
恒例の旅行社サービスの飲み物で乾杯して夕食が始まりました。
安堵感漂う?F添乗員さんの表情に比して、喉痛で首にヨードチンキを塗ったザファールさんはちょっと冴えない表情ですが、
今頃はまたジョークを飛ばしながら、元気にガイドをしていらっしゃることと思います。


      

      

前菜のサラダやサムサ(≒春巻き)、スープ、ガルプチ(=肉詰めピーマン)を美味しいサマルカンド・ワインと共にいただきました。
お腹が復調に向かい、内科医Sさんに「飲んでいいでしょうか」と尋ねていたHさんは、「腸が焼けるけど、少しだけなら」と許可を得ていたり、
ツアー・メート達と親交を重ねながら、短い日程の中でも多くの見聞を得ることができた旅に名残惜しさを感じたひと時でした。



                                    K.KATO

9時ごろレストランを出て、少し歩いて、レギスタン広場の夜景を見に行きました。
コンパクト・カメラ(SONY RX100)の性能も上がったとはいえ、さすがに夜景風景には差が目立ちますので、
この場面は一眼レフを使っていらしたツアー・メイトの写真をお借りすることにしました。



9時半前にホテルへ戻り、帰国に合わせたパッケージをしながら、ウズベキスタン旅のハイライト、サマルカンドの一日に
やや不完全燃焼な気分が残ったのは、おそらく、ウルグットの3時間が有意義に思えなかったこと、
その時間を旧市街散策に使っていたら、もっと深い印象が残ったに違いないという思いがよぎりました。
無論、何よりも一見にしかず、サマルカンドの青い空に下に立てたことは幸いの一語で、
旅の余韻がいつまでも心に残ることは間違いないことですけれど!
ヒワやブハラとは旧市街の残り方が違い、見所が散在していることも一因かもしれませんが、もう少し滞在時間がほしい街でした。


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