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24 Sept.2015
Samarkand〜Tashkent
    

サマルカンド出発の日はスーツケースを出した後、8時半の出発まで20分程ホテル周辺を歩いてみました。
サマルカンドにはトルキスタン総督府の管轄下に置かれた19C末から20C初頭にサマルカンド・ルネサンスとよばれた時期があり、
その時に夏・冬用モスク、小さなミナレット、一階建てハナカ、池をワン・セットとして街区ごとに建てられた
典型的なスタイルを残したモスクがホテル近くにありました。
今も現役で使われているらしい「イスラム教徒の会」と書かれたモスクの佇まいには旧市街らしい風情が見られました。



ホテルから500mほどでレギスタン広場に到着し、昨日は逆光だったウルグ・ベク・メドレセが朝日を受けて輝く姿や
ティラカリ・メドレセの簡素な後姿など裏側の景観も楽しみました。
もう少し近付いてみようとしましたが、監視員から制止を受け、フェンス内に入ることは出来ませんでした。



ホテルへの帰路、「イスラム教徒の会」モスクの門構えやハナカを撮る私を見ていたおじさん達もカメラに収めた後、
8時半過ぎにバスに乗って、サマルカンド最後の観光にアフラシャブの丘方面へ向かいました。



ウルグ・ベク像

ウルグ・ベク天文博物館

20分程で街の北東に位置するチュパン・アタと呼ばれるタシケント通り沿いの丘に到着し、
ウルグ・ベク天文台跡、天文博物館を見学しました。
バスを降りると先ず大きなウルグ・ベク(=偉大な指揮官)像が目に入って来ました。

ティムールの4男シャー・ルフの長男として生まれ、ティムール朝第4代君主となったウルグ・ベク(1394−1449)の統治時代は
王族や有力者によって建設事業が盛んに行われるとともに学術面でも高い成果を上げ、
ティムールの軍事とウルグ・ベクの才能によって美麗なサマルカンドの街が生まれたと言われています。
ウルグ・ベクが長子のアブドゥッラティーフの反乱によって殺害された後は内政が混乱、他国からの侵害も受けて、
1370年に興ったティムール朝は1507年に幕を閉じてしまいました。
その後ウズベク族、帝政ロシアの支配下に入り、ソ連邦時代の1924年から1930年までは
ウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都とされた時期もあったサマルカンドです。



チュパン・アタの丘の上まで階段を上って行くと、1970年に建てられたウルグ・ベク天文博物館があり、
偉大な事績が讃えられていました。



天文台模型

ウルグ・ベク・メドレセ模型

    

    
  球体アストロラーベ                    天文書                         平面アストロラーベ

絵と共に展示された天体観測用機器アストロラーベや1018の星が記されたウルグ・ベクの天文表は複製品でしたが、
素人にも分かりやすい展示となっていました。
ズィージと呼ばれるウルグ・ベク達の研究成果を記した書物のオリジナルはオックスフォードにあるそうです。


「勝利の書」 ウルグベクの弟子の天文書  

シャフッディーン・アリ・ヤズディによって15Cに書かれたティムールの伝記「勝利の書」や、
ウルグ・ベクの弟子アリ・クシュズィによって書かれた天文書の1542年のコピー本などの古書も展示されていました。



博物館と向き合って、ウルグ・ベクの天文台跡がありました。
1420年頃に完成した天文台は地下11m、地上30mの建物で、設置された6分儀の半径は40mあったと考えられていますが、
ウルグ・ベクの死後まもなく保守的なイスラム教徒によって破壊されてしまったそうです。
史実として伝えられていたウルグ・ベクの天文台の場所は長年謎とされていましたが、
ロシアの考古学者ヴァシーリー・ヴィヤトキンがサマルカンドの街を見下ろす丘の土中から1908年に発見し、
その6分儀の一部が残る場所に天文台の基礎部分が復元されていました。


          

地下に見つかった弧を描く6分儀の遺構です。
この天文台でウルグ・ベクや弟子達は恒星年365日6時間9分9.6秒という現代の測定値と1分と違わない
365日6時間10分8秒という数字を割り出したと伝えられています。
精度の高いウルグ・ベク達の天文表は1665年にオックスフォードで出版され、ヨーロッパでも重要視されていたそうです。



9時40分にバスに乗り、チンギス・ハンに破壊される1220年までサマルカンドの中心であったアフラシャブの発掘品を展示した
サマルカンド歴史博物館に10分程で着きました。



BC10C頃からイラン系民族のオアシス都市として発展したサマルカンドのアフラシャブという地名は
BC8Cの伝説のソグド王に因むと言われていますが、BC4Cのギリシア史料にはソグド人の街マラカンダとして登場、
展示はアフラシャブの丘の模型やアレクサンダーの征服地図から始まっていました。

様々な王朝の支配を受けながら、商才に長けたソグド人の街として繁栄を続けたサマルカンドの中心アフラシャブは
220haの広さを持ち、1874年以来の発掘調査の結果、11層の文化の痕跡が確認されているそうです。
BC5C頃の窯の模型やBC3C〜BC2Cのヘレニズム時代の土器と共に出土コインも展示されていました。


ソグド人の宗教ゾロアスター教の祭壇

10C〜12Cテラコッタの容器やイスラム装飾破片

この博物館で最も重要とされているのがアフラシャブの中心にあったイシュヒッド宮殿跡から1965年に発見された壁画です。
チャガニアン王国からイシュヒッドの元に嫁ぐ白い象に乗った花嫁に続く行列、7C後半に統治していたワルフマン王に謁見する各国大使、
小舟に乗った韓国人と中国人の絵など、当時のソグド人解明のための貴重な史料とされているフレスコ画です。


    
城壁?                        石畳の道                      水路跡?

30分程サマルカンド歴史博物館の見学をした後、裏手のアフラシャブの丘へ行きました。
発掘跡の窪みに草が生えているだけのだだっ広い荒野でしたが、街のあった形跡を所々に確認することが出来ました。
現在も続けられている発掘調査には韓国が協力しているようです。



11時前にアフラシャブの丘を出発して、20分足らずでサマルカンド駅に到着しました。
ツアーが発表された当初はサマルカンドとタシケント間は飛行機移動の予定だったのですが、
直前になってフライト時間が変わり、適当な便がなかったために鉄道利用に変更されました。
サマルカンド滞在時間は少し減りましたが、車窓風景が好きな私にとっては楽しみの一つでした。

駅構内は写真撮影ができず残念でしたが、大理石をふんだんに使った立派な駅舎で、
週2便しかないウズベキスタン航空成田便で、おそらく同じ日に出発したと思われる日本人ツアー2〜3団体と鉢合わせしましたが、
大半がスーツケースを引いて移動する中、私達の荷物はタシケントまでワゴン車で別送の手配がされ、楽に乗車することが出来ました。







タシケント〜サマルカンド間344kmには、2011年からスペイン製車両を使った特急アフラシャブ号が走っているようですが、
1日1便では時間が合わなかったようで、私達はシャーク号という古い車両の特急に乗りました。
ネット検索すると、「SHARQ (高速行く電車):ぜいたく 1級 2級 」と現地旅行社の日本語のチケット案内がありましたが、
私達が乗った3人又は6人用コンパートメントが1級で、下の左写真が2級でしょうか、
ビュッフェや車内販売もあるちょっと懐かしい車内でしたが、「ぜいたく」車両は見ることができませんでした。


   
乗車前に旅行社から配布されたランチ・ボックス


11時45分にサマルカンドを出発、タシケントまでの車窓に見られたのはシルダリアの上流や支流でしょうか、
フェルガナ地方の繁栄を支えた豊かな水の風景を見ることができました。



3時にタシケント駅に到着し、バスに乗って、見覚えのある街中を走り、独立広場前で下車しました。
1991年8月31日にソ連邦から独立後、カリモフ大統領の都市改造プロジェクトの一環として、
1998年から99年にかけて整備されたのが独立広場です。





広大な公園となっている広場の一画にあった第2次世界大戦の戦没者のための建物や
戦没者の名前を刻んだ1頁ずつ捲ることができる本の形の慰霊碑には、イスラム伝統の美しい意匠が見られました。
右側の写真は、戦争へ行った我が子を思いながら、永遠に燃え続ける「平和の火」を見つめている母の像です。


赤の広場と呼ばれていた時代にレーニン像が立っていた場所には、地球儀のオブジェと子供を抱いた母親像が置かれ、
戦没者慰霊の嘆く母と一対で、平和の象徴とされていました。
この日は24日から27日までのクルバン・ハイート(=犠牲祭)の初日にあたる祭日で、広場は大勢の人出で賑っていました。



3羽の伝説の鳥「フマ」が大きな翼を広げる独立広場の巨大ゲートを抜けて、地下鉄乗車体験に向かいました。
ソ連邦では7番目、中央アジアでは唯一の1977年に開業した地下鉄は、戦時にはシェルターの役割を持つと言われ、
セキュリティが厳しく、写真撮影も無論(!)禁止となっていました。
一律1000スムというプラスティック製のチップを改札口に入れ、レバーを押して中に入りますが、
エスカレーターや電車のドアーが閉まるスピードの早さにはちょっと怖ろしいものがありました。

「ムスタキリク(=独立)・マイダニ駅」から乗車、「アルシェル・ナヴォイ(=詩人)/パフタコル(=綿花)駅」で乗り換えて、
「コスモナウトラアル(=宇宙)駅」まで行き、帰りは逆コースに乗った後、「アミール・ティムール・ヒヨボニ駅」までという体験コースでしたが、
それぞれの駅ホームには詩人の作品彫刻、綿花、宇宙船、宇宙飛行士、イカルス神話など駅名に合わせて、
驚くほどゴージャスな装飾が施されていました。


 
  
    

    

5時過ぎにティムール駅で地下鉄を降りて、バスで夕食レストランへ行きました。
地方によって特色がある(らしい)ナンですが、タシケントのナンの美味しさも有名で、2〜3年は保存できるといわれています。
でもそれは砂漠の国のお話で、日本に持ち帰るとカビという大敵が待っていることになりそうです。

食事が終わってから、入国時に提出した所持金を記入した税関書類に残金を書き加えました。
結局、換金した現地通貨104000スムの中、写真撮影料が75000スム(≒3750円)という内訳となりましたが、
それより少し多目のスムを使った夫の方はビール、ワイン代が主たる支出だったのではないかと思われます。
いずれにしろドルもスムもほぼ使い切ったというか、少ない額に合わせた経済的な旅となりました。

6時25分にレストランを出発、空港へ向かうバスの中でF添乗員さんやザファールさんの最後のご挨拶がありました。
ウズベキスタンでは空港建物内に現地ガイドは入ることが出来ず、
建物入口でザファールさんと一人ずつ握手をして、感謝と共に、お別れを惜しみました。
アシストなしで少し不安のあったチェックインや通関審査も無事に終了した後、セキュリティ・チェックも問題なく通過し、
出国ゲートのロビーに落ち着くと、すっかり旅の終わりの気分に包まれました。
 
空港内の免税店で最後のお土産買物をしようと目論んでいたのですが、ほしいものが見つからず、
ちょっと多目に買った小分けのナッツ類は帰国後にドイツ製品と判明しました。
免税店では現地通貨スムが使えず、主体はユーロで、ドル併記という所に国情の一端が垣間見られました。

 
   

ウズベキスタン航空527便は定刻の9時5分を少し過ぎた20分に離陸、成田空港へ向かいましたが、
11時前と着陸の少し前に出された軽食も写真を撮っただけでパスし、ほとんど寝てやり過ごした夜間飛行となりました。


 25 Sept.2015
Tashkent〜Narita 

6時過ぎ頃から空が明るくなり、6時半過ぎには日の出も見られましたが、関東上空は厚い雲に覆われていて、
雨の成田空港に予定より15分ほど早く、8時40分に到着しました。
9時45分のリムジンバスで帰京しましたが、25日の雨の金曜日とあって、最短のう回路を走っても新宿まで1時間半を要しました。
新宿駅前からタクシーに乗り継いで、正午前に帰宅して、8日間の旅が無事に幕を下ろしました。

コンパクト・デジカメの中に詰め込んで来た写真2000枚の「隊商の道 サマルカンド・ブハラ・ヒワの旅」のお話もこれでお終いです。
日本人にとってはどちらかと言うと縁遠い中央アジアですが、東洋と西洋の交差点の役割を果たした長い歴史や文化を見聞すると、
古代日本へもつながっていたかもしれない隊商の道への興味が深まっていきます。
ささやかな(もしくは長い・・・)レポートが、そんなロマンをお伝えできていたら、うれしいのですが!

                                                       (2015.11.11)



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