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21 Mar.2012
Kermanshah~Tage‐e Bostan~Bisotun~Kangavar~Hamedan


7時からの朝食後、ホテルの外へ出てみると、ちょうど山の間から太陽が上って来るのが見えました。
気候が分かりにくい国を旅する時は、朝起きると100円ショップの温度計を部屋の外にぶら下げて
洋服を決めますが、晴天でも気温2℃のこの日は、ダウンコートを着て出掛けることにしました。



8時にホテルを出発して、ホテルから北へ5kmのターゲ・ボスタンへ行き、
大きな湧水池のある公園に入って、しばらく進むと、ササン朝時代のレリーフが残る岩山がありました。

最初に見たのはアフラ・マズダから光輪を授かるアルデシール2世(在位:379-383年)の叙任式図で、
 左側には小枝の束を掲げた太陽神のミトラ神が彫られています。
三者の足元に横たわるのはゾロアスター教の悪神という説もありますが、
ローマ皇帝であるという説に従えば、シャプール2世(在位:309-379年)との戦役で負傷して、
363年6月に命をおとしたユリアヌス皇帝と考えられるかもしれません。
旧自国領の返還しか要求せず、「シャプールの寛容」を標榜した政治を受け継いだアルデシール2世の得意と、
当時、一神教の弊害に気付いた唯一の人物と言われるユリアヌス帝の無念さが伝わって来るようです。



アルデシール2世叙任式図の左手に「楽園のアーチ」を意味するターゲ・ボスタンの地名の由来となった
アーチ型に彫られた大小2つの洞がありました。



左側の高さ9.2m、間口7.5mの大きい洞には、ササン朝の領土を最大にした
ホスロー2世(在位:590-628年)の叙任式図と重装騎馬姿が彫られていましたが、
衣装の模様や水の女神アナヒータが持っているガラスの水差しなどの表現が見事で、
左側に立つのが太陽神ミトラでなく女神アナヒータである所や三者が正面を向いている所に、
ササン朝後期の様式の変化が見られました。

小さい洞はシャプール2世と息子のシャプール3世(アルデシール2世の甥?)が向き合っているレリーフで、
権力を誇示するというより、さりげない家系アピールの図に見えましたが、
洞内に置かれたノウルーズ飾りは邪魔でした・・・と言っては、失礼でしょうか。



大きい洞の内側、上部に加えられた彩色レリーフはカジャール朝(1796-1925年)のもので、
シャーの無思慮を後世にさらけ出しているように思えました。
大洞正面アーチの上部左右に残されている躍動感あふれる天使は、
ギリシア神話の勝利の女神ニケをモデルとし、正倉院「飛天」のルーツとも言われています。




天使の下には美しい唐草模様が彫られ、洞内左右の壁には歴代王の狩猟場だったターゲ・ボスタンらしく、
象使い、柵の中に追い込んだ鹿を弓で狙う王、逃げ惑う鹿などの王狩猟図が彫られていました。
絨毯やミニアチュールでお馴染みの図柄ですが、石のレリーフである所に違った味わいが感じられます。



20分程のフリータイムはBC2000年頃からカジャール朝に至る公園内の展示品を見て回りましたが、
ほとんどは野ざらしにしても問題のないレプリカのようでした。



ササン朝時代の貴重なレリーフが残る大洞を有しながら、世界遺産に登録されないのは、
後の人たちが人工的な要素を加え過ぎたせいかもしれないと思われたターゲ・ボスタン遺跡公園の佇まいでした。






公園入口でパンパイプを吹くおじさんの音色に誘われて、
単管の葦笛を買って(10000リアル≒70円)帰りましたが、音は出てくれません・・・。



ヘラクレス像

ミトリダテス2世レリーフ  

9時にターゲ・ボスタンを出発、東へ40kmバスを走らせて、ビストゥーンに9時40分ごろ到着しました。
ビストゥーン遺跡には時代が異なる15の遺跡があり、2006年に世界遺産に登録されています。

最初に見たセレウコス朝シリア時代のヘラクレス像は、行方不明だったと言われる頭部は収まっていましたが、
場違いな印象を受けるメタボ・ヘラクレスでした。
初期ヘレニズム表現、または修復過剰なのでしょうか、どう見ても身体の下のライオン皮ともミス・マッチです。

削り取られたり、新しいレリーフが加えられたミトリダテス2世(在位:BC123-87)のレリーフ前を通って、
左上に写っているビストゥーンで最も有名なダレイオス1世のレリーフを見るために坂道を上って行きましたが、
補修工事中のレリーフは足場の中に隠れて、見ることが出来ませんでした。


  
双眼鏡で辛うじてアフラ・マズダを確認

 
                                    -ポストカード転載-

当初はエラム語のみ、図柄を追加する段階で古代ペルシア語とアッカド語が付け加えられた
地上70mにある磨崖碑文の書写にイギリス陸軍士官ローリンソン(1810-1895年)が1835年に成功し、
楔形文字を解読したことが考古学発展の大きな一歩となったと伝えられるレリーフです。

このダレイオス1世(在位:BC522-486年)の戦勝レリーフは、
ダレイオス1世がアフラ・マズダの下で、王位簒奪を狙ったマゴス僧ガウマタを踏みつけ、
9人の反乱者達を前に、自身の王位継承の正当性を謳いあげている図ですが、
歴史の父と称されるヘロドトス(BC484頃-430年頃)の「歴史 巻三」に同様の記述が見られるものの、
実はダレイオス自身が王位簒奪者であったとする説が現在では有力視されているようです。

史実はともあれ、アケメネス朝ペルシアの全盛期を築いたダレイオス1世は、
「ペルシアの飛脚より早く目的地に達しうるものはない。これはペルシア人独自の考察によるものである。
全行程に要する日数と同じ数の馬と人員が各所に配置され、一日の行程に馬一頭、人員一人が
割り当てられるという。」とヘロドトスが伝える「王の道」を整備、
スーサから小アジア(現トルコ)のサルディスまでの約2700kmを7日間で結んだり、
領土を20州に分け、総督(サトラップ)を配置、さらに総督を監視する監察官「王の目」「王の耳」を派遣するなど、
帝国の政治、経済、軍事を盤石にしたことによって、大王と称されています。



メディア、パルティア時代の神殿跡やササン朝、イル・ハン時代のキャラバン・サライが点在するビストゥーンは、
200haの広さを持つ素晴らしい景観が、「王の道」時代の栄光を語り継いでいるようでした。




イラン有数の観光地とあって、ビストゥーンでも写真交流が度々ありました。
左は私達と写真を撮りたいと近付いて来たクルド人と私達のガイド、アゼルバイジャン人のムハンマドさんです。
「民族の違いは一目瞭然だけど、イランには民族差別は全くありません」というのがムハンマドさんのお話でした。
民族差は分からないことが多いですが、女性達のファッションには進歩、保守性の違いが見て取れます。
真ん中のおしゃまな女の子が大人になる頃にはイラン社会も随分と変わっていることでしょう。



40分間のフリータイムには、ほとんどの人が先ずトイレへ向かう様子でしたので、
一人で少し山を登って、中期旧石器時代(30万年~3万年前)の洞窟を見に行きました。
35㎡程の小さな洞窟は原人から進化した古代型新人が狩猟した動物を保管した場所と考えられていて、
石器やアケメネス朝時代の陶器、ガゼル、鹿、牛、馬、猪などの骨が出土し、
ザグロス山脈に残る貴重な古代遺跡と言われています。



後ろを振り向くと、乾いた斜面を滑りそうになりながら登ったかいのあるパノラマが広がっていました。
厳しさと美しさを合わせ持つ乾燥地帯の悠久のオアシスの地で旅の醍醐味を感じたひと時でした。





イスラム圏の医療団体である赤十字ならぬ赤新月が珍しく、ノウルーズの救護センターにカメラを向けると、
記名帳にサインをしてと言われ(多分)、日本語で書くと物言いたげでしたので、
振り仮名ならぬ振りアルファベットを書くと、「オー、トーキョー?」と喜んでもらえました。

「お茶はいかが?」「ハーイ!」という呼びかけに手を振ったり、写真を撮ったり、
売店で絵葉書を買ったりしながら、のんびりと駐車場まで戻ると、ちょうど11時の集合時間になっていました。




バスに乗ると、イランの南の地方産らしいアーモンドをムハンマドさんが配って下さいました。
今年の未熟な青い実を塩漬け(塩茹で?)にしたもののようで、珍しい味わいでした。



アナヒータ神殿

ガジャール朝時代のモスク

この日の移動距離190kmのほぼ中間にあたるパルティア時代(BC3C半ば-AD226)の首都カンダヴァルに
12時ごろ到着し、アナヒータ神殿を外から見学、写真タイムが取られました。
周囲200m余り、高さ32mの3層の基壇の上に威容を誇っていた神殿はほとんど廃墟と化していましたが、
国が土地を買い上げ中で(1軒立ち退かない家屋あり、とか。)、発掘、修復が進行している様子でした。
その一角にあるガジャール朝時代のモスクは、自然破壊によって2階が崩壊、放置されていた1階を、
79年の革命後に修復、ドームが付け加えられたのだそうです。




ノウルーズは結婚式シーズンでもあるようで、花を飾った車をよく見かけましたが、
カップルが揃った情景には出会うことが出来ませんでした。
革命後、「西洋文化の象徴」とみなされ、ご法度とされたネクタイは、
現在は冠婚葬祭の時などには身だしなみのひとつとされているようですが、
TVなどで見る限り、政治家など国の要人達は国際的な場でもノーネクタイを続けている様子です。



シンプルなノウルーズ飾りが却って新鮮なレストランでのランチは、
メイン料理の鶏のケバブとヨーグルトしか写真が残っていません・・・。
メニューが少ない時、ムハンマドさんがオレンジやリンゴを買って来て下さったことが数回ありましたが、
そんな一日だったのかもしれません。



イラン人もデジカメはキヤノン、ソニーの愛用者が多かったようです。
時々、同じ~!などと言いながら、撮り合いっこする場面がありました。



1時半にカンダヴァルを出発、雪景色の美しいアサダバードで写真タイムを取ったりしながら、
3時にハマダンに到着しました。



エステルとモルデハイ廟

石のライオン

アルヴァント山麓、標高1800mに位置するハマダンは、
エクバタナと呼ばれたBC600年頃にメディア王国の首都として発展、アケメネス朝に夏の都として繁栄した後、
イランの他都市と同じ統治を受け、セルジュク時代には一時首都に返り咲いたものの、
モンゴルやティムールによって破壊され、衰退していった4000年の歴史を持つ街です。

バスを降りて、先ず、クセルクセス1世の息子、アルタクセルクセス1世(在位:BC465-424)の時代に
ユダヤ人を虐殺から救った賢明な王妃と宰相(2人ともユダヤ人)の「エステルとモルデハイ廟」へ行きましたが、
門扉が閉まっていて、中へ入ることは出来ませんでした。
建物はイル・ハン朝時代のものですが、土台は2500年前のものと言われています。

キュロス2世がバビロン捕囚から救うなど、ユダヤ人との長い縁を持つイランには、
イスラエル国家を支持するシオニストとユダヤ教を信仰するユダヤ人とは違うとするホメイニ師の判断によって、
反イスラエルの現在なお2万人のユダヤ人が住み、中東最大のユダヤ人コミュニティがあるそうです。

次に寄った「石のライオン」は制作年代がメディア王国、アレクサンダー時代、パルティア時代と諸説ある石像で、
形も定かではなくなっていますが、立派な台座に載せられて、名誉市民のような扱いを受けていました。



バスの車窓には1037年にハマダンで亡くなった医学者ブー・アリー・スィーナー廟と立像が見られました。
アヴィセンナという名前でヨーロッパで出版された「医学の規範」は世界的に高い評価を得て、
17Cまで標準医学書として用いられていたと伝えられます。

この日宿泊するパルシャン・エラム・ホテルでトイレ休憩を取った後、
南西5kmのアッバース・アーバードの谷の岩壁に彫られた碑文「ガンジナメ」を見に行きました。



ダレイオス1世とクセルクセス1世が自身の偉業と王権の偉大さを謳ったアケメネス朝最古の碑文は、
2X3mの刻面に3列に書かれた楔形文字が解読されるまでは、宝の埋蔵場所が記されていると考えられ、
ガンジナメ(=宝の文)と呼ばれるようになったそうです。

人だかりの碑文の前で、その中でも一際目立つ、飛んだ?グループの写真に呼び込まれて、
左端の女性から、「Beautiful」と頬を軽くつねられるというびっくり体験もありました。
小さな子の頬を「かわいい」とつっつくのと同じ仕草のようですが、何か勘違い、ですね。



碑文前から雪が残る谷を少し下って、イラン人にとっては、貴重な癒しスポットと見受けられる
高さ20mほどの滝を見に行きました。


綿あめを手に、「滝をバックにお写真をお撮りしまーす」と言っているN乗員さんと、
「はい、チーズ」スタイルのムハンマドさんを、イラン人達が取り巻いて、笑いながら見ていました。
水煙草を囲む男性だけのピクニック・グループも見かけました。




駐車場まで自由に戻る途中、今度は水笛の音に惹かれて、孫土産に2つ買って帰りました。
葦笛と同じ10000リアルながら、こちらは良い鳴き声を出しています。





5時過ぎにノウルーズ飾りに少し中華風な趣向が見られるパルシャン・エラム・ホテルにチェックイン、
部屋からは夕暮れのアルヴァント山脈が見えました。



ホテル・レストランでの7時からの夕食は、今回の旅で初めての魚料理、ニジマスのフライでした。

    

この旅で最も盛り沢山だったこの日にはまだ続きがあって、
この日21日生まれの私ともうお一人、そして23日と25日生まれでツアー中に誕生日を迎える計4人が、
大きなケーキとテヘラン・ミラッド・タワー(2008年開業当時は通信塔としては世界4位の高さ435m)と
キュロス2世の円筒碑文の記念メダルをプレゼントしていただきました。
それを外した3月生まれ、4月1日生まれの方など4~5人との運不運が分かれたツアー日程だったようです。

充たされた長い一日に感謝を込めて・・・・!


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