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24 Mar.2012
Tabriz〜Maku〜Tabriz


中央の小山がイル・ハン朝時代の研究所

国境を越えて行く鉄道

ササン朝時代に遡る起源を持つと言われるタブリーズは、ヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要衝として発展、
イル・ハン朝、黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝時代には首都ともなったイラン北西部の中心都市で、
現在は東アゼルバイジャン州の州都となっています。

タブリーズからトルコ国境近くのマクーまで片道250km、長距離ドライブが続く今回のツアーの中でも
最長距離の一日に向けて、ホテルを8時に出発しました。
「今日のドライバーさんはバハラムさんです」と聞き、フセインさんは昨日の件で警察出頭?と思ったのですが、
公共の乗物を連続して長距離運転する場合の日数規制によるものとのことでした。

ホテルを出発して間もなく、ヤズドのダフメ(=沈黙の塔)のような小山が車窓に見えましたので、
ムハンマドさんに尋ねると、「昔の大学」ということで、ネット検索してみると、
イル・ハン朝第7代君主ガザンからオルジェイトゥ、アブー・サイードのもとで宰相として活躍、
ペルシア語による世界史「集史」の編纂責任者でもあった
ラシード・アッディーン(1247−1318年)が創設した大学都市の研究所跡のようです。
ヨーロッパが暗黒時代と呼ばれた中世からルネサンスへ向かい始めた頃に、
この地に高度な文化が開花していたことが窺える建造物でした。
トルコ、アルメニア、アゼルバイジャンへと国境を越えて行く鉄道も見えました。
イスタンブールまでは週1便が運行されているようです。


芽吹きのうっすらとした色合いを見せる木々、耕作を始めた畑など、
春の目覚めを迎えた雪山の麓の村々の穏やかな風景が車窓に続きました。

アゼル(=火)バイジャン(=保管する)という地名からゾロアスター教発祥の地とも言われるアゼルバイジャンは、
メディア王国滅亡後、ペルシア、アラブ、トルコ、モンゴルなどの支配下に置かれていましたが、
1813年のゴレスタン条約によって、北はロシア領、南はイラン領と分割され、
現在はアゼルバイジャン共和国とイランの東西2州に分かれるアゼルバイジャン州となっています。
アゼルバイジャン州では日常語はペルシア語ではなく、トルコ語系のアゼリー語が使われているそうです。


  

1時間ほど走った所で、18Cのカジャール朝のキャラバン・サライで写真タイムが取られました。
再建が終わり、現代的なホテルに生まれ変わったら、西イラン旅の快適度が上がることは間違いなさそうです。


  

国境が近付いて、検問所が増えた田舎道を走り、
11時過ぎにカラ・ジャ・ウッディーンに到着して、早めのランチとなりましたが、
旅の後半に入ってから、一人で数役を務めるムハンマドさんの姿が目立つようになりました。
近くのお店で地元産のヨーグルトやマクー名産の15kgもあるヘンダワネ(=すいか)を買って来たり、
「早く出発したいからね」とウエイターをしたり、生来と見えるフットワークの軽さ全開の様子でした。


  

生タマネギやトウガラシを薬味とし、バターを混ぜて、チェロウ・モルグ(ライスと鶏肉)をいただきました。
サフラン・ライスと共にライスの上にのっている赤い実はクコとばかり思っていたのですが、
イランでゼレシュクと呼ぶヘビノボラズの実であることが分かりました。
デザートの「ヘンダワネ」は季節外れと思われましたが、先ず先ずの甘さでした。



ランチ後のレストランの外でのひとコマです。
イランで女の子にスカーフ着用が義務付けられるのは中学生からと聞きましたが、
右側の茶色いコートの女の子は10歳と言っていましたので、家庭の方針によって違うのかもしれません。



カラ・ジャ・ウッディーンを12時半に出発して、20分ほど走った所で写真ストップになりました。
前方にかすかながら、標高5137mの大アララト山と3896mの小アララト山が見えています。
ノアの方舟伝説を持つトルコの東端にあるアララト山ですが、
雨の天気予報にかかわらず、青空の下に姿を現してくれたことは本当に幸運でしたので、
もっと威容が見られるだろうという期待はさておくことにしました。
4〜5年前に東トルコ側から見ていますので、残すアララト山展望はアルメニア側だけとなりました。




1時半にトルコ国境まで20kmほどのマクー郊外の聖タデウス教会に到着しました。
世界で最初にキリスト教を公認(AD301年)したアルメニア王国が、
イラン北部からトルコ東部まで領土を広げていた時代を語り継ぐ教会ですが、
アルメニア教会特有のとんがり屋根が周りの景観と良いコンビネーションを見せていました。
アルメニア人修道院建造物群として聖タデウス教会と共に、
2008年に世界遺産に登録された聖ステファノ修道院と生神女マリア聖堂は、
遠方にあるために同時に訪れるのは難しいとのことでした。



聖タデウス教会の全景写真を撮っている時、後ろからかけられた声に振り向くと、
やはり「写真」でしたが、驚いたのは車内に見える人の数でした。
次々と下車して来ても、まだ数人は車の中でしたので、合計8〜9人は乗っていたようです。
乗用車に人数制限がないお国柄なのでしょうか・・・?



キリストの12使徒の一人、ユダ・タダイに捧げる教会として68年ごろ建立された聖タデウス教会は、
14C初めの地震で崩壊、その後再建され、
19Cのカジャール朝時代に行われた修復によって現在の形になったそうです。




教会内部にはタダイの妻の墓という説のある遺構や10Cのビザンチン様式の祭壇のほか、
イスラム建築のムカルナス(=鍾乳石飾り)のミフラーブも残っていました。
通常は近隣の集落に住むクルド人が管理していますが、
毎年7月に行われるアルメニア正教の飲酒も伴う祭典の時にはイラン人は中に入ることが出来ないそうです。




 

建物の古い部分に黒い石が残り、ガラ・ケリーサ(=黒い教会)という別称を持つ聖タデウス教会には
アルメニア正教独特の装飾された十字架があちこちに刻まれていました。


  
聖ゲオルギウス            大天使ミカエル             大天使ミカエル 
                                 
   

おそらくアラブの時代に削り取られた聖ゲオルギウス、命拾いした?大天使ミカエル、
繊細に表現された生命の樹など古いレリーフの中に、聖タダイ?やカジャール朝のシンボルのライオン像など
新旧混じる壁面のレリーフも楽しみ、1時間余りの聖タデウス教会の見学を堪能して、
2時40分に帰路に着きました。



たった1時間余りのために片道4時間をかけた1日でしたが、
東トルコのアニ遺跡ともつながるシルクロードのロマンを感じながら眺める車窓風景も格別と思われ、
快い疲労感と充足感のある帰途となりました。



空港から飛び立つ飛行機が車窓に見えて間もなく、
夕映えで赤さを増したタブリーズの街に6時40分に到着、部屋に戻り、荷物を置いてから、
ロビーに7時に集合して、バスで街のレストランへ向かいました。



金魚の水槽や砂漠のオアシスを模したコーナーがあるレストラン

  

魚料理レストランのメイン・メニューはケバブと総称してよさそうな焼き魚で、
添えられたニンニクのピクルスが人気を呼んでいました。
サラダ、デザートのバイキング・コーナーにはバクラヴァなどトルコ風のお菓子が並んでいました。



9時前にレストランを出て、街外れにあるイール・ゴリー公園に寄り、
人出の多さに驚きながら、カジャール朝ナセロディーン・シャー(在位:1848−1896年)の宮殿、
現在はレストランになっているバーグラールバギーの写真を撮って、9時45分にホテルへ戻りました。
後は入浴して寝るだけ、という気楽な旅の日々もいよいよ終盤へと向かいます。


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